阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

イエス様も祈られた

2018-01-09 15:51:42 | Weblog

2018.1.1. イエスさまも祈られた

聖書 マルコ1:35、マタイ14:23、ルカ5:16、9:18,28、ルカ18:1

題  イエスさまも祈られた

 

暗唱聖句  コロサイ4:2

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」

“Devote yourselves to prayer, being watchful and thankful.”

 

はじめに

新年おめでとうございます。今日は新しい年の初めの日です。主が造られた日です。主が造られて「非常に良かった」と言われた祝福の日です。今年はいろいろな計画があり、希望に燃えておられることと思います。新しい年はこのように自分を変えるチャレンジの日でもあります。今年も主に祈りつつ、主を第一にして、一緒に歩んでまいりましょう。

 私の友人にユニークな牧師がいます。その人がいつも言うのです。「創造主は宇宙を6日間で創り、7日目には休まれた。私たちは人間だよ。神様さえも休まれたのに、私たち人間が7日目も8日目もずっと働くのはおかしいと思う。疲れ果てるのは当然だ。だから、7日に一日は休まないといけない。そう思っているよ。どう思う?安息日は必要だよね。」その牧師は上手に安息日をとっているようです。安息日には寝て休んでいることではありません。生計を立てている活動「仕事」から離れて、ほかのことをすることです。気分転換をして、霊肉共に新しい力を得ることです。礼拝は霊を新しくするために最も適切な行為です。これはまず、神が手本を見せてくださいました。「7日目を祝福して、聖である」とされました。7日目は、礼拝の日であり、また、家族との交わりの日です。

 今日は「イエス様ご自身が神であるのになぜ祈りが必要なのか」ということについてです。神であるイエス様でさえも、祈られました。「イエスさまも祈られた」とするなら、人間の私たちが神を必要としてお祈りすることは当然のことです。イエス様は100%神であり、100%完全な人間でした。そのイエス様が絶えず祈ること、熱心に祈ることを教えておられます。

 

1.キリストは誰に祈られたのか

キリストは誰に祈っておられたかという答えは、「天の父に向けて祈られた。」というのが正しい答えです。これは非常にはっきりしています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は18回、天の父に向けて祈られたと記録しています。

(マタイ11:25)「 そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。』」(ルカ10:21同じ呼び方)

わが父よ :マタイ26:39, 「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(42節同じくわが父よ。)

アバ、父よ:(マルコ14:36)またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

聖なる父よ:(ヨハネ17:21)「聖なる父。あなたがわたしにくださっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。」

父よ:マタイ11:26「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(ほか10カ所)

マタイ6:9「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』この祈りの中には御子である自分は含まれてなく、ただ天の父なり神を指しておられます。

*イエス様は父なる神に祈っておられます。ですから、私たちも、父なる神に「アバ、父よ」と親しくお祈りしてよいわけです。祈りの模範はイエス様です。

 

2.キリストが神であるということは、神が神に祈られたのでしょうか。

イエス様は神でした。(マタイ1:23)「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

イエス様は神ですが、人間になって、私たちと共にいてくださるようになりました。その時は人間と同じ肉体を持っておられましたので、限界を持っておられました。

ピリピ2:6~8「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」イエス様が完全に神であったにもかかわらず、100%人間であられたことも、ここに書かれています。その結果、イエス様は父なる神様との交わりが必要でした。天のみ国におられる時にはいつも父なる神と一緒でしたが、この世に来られてからは肉体を受け入れ、肉体の限界の中におられたのです。自由ではありませんでした。100%人間でした。イエス様はご自分の声を出して祈られたのです。イエス様は父なる神に祈られたのです。

そして、父なる神と交わりをなさったのです。

 

3.キリストは神です。自分に祈っておられたのでしょうか。

イエス様は神の御子として、確かに神です。しかし、父なる神ではありません。私たちは三位一体の神を信じています。一位の神は父なる神です。二位の神は御子なるイエス様です。三位の神は聖霊です。それぞれが独自に人格を持っておられる神です。ですから、イエス様は自分に向かって祈っておられたわけではありません。御子なる神が父なる神に祈っておられたのです。

誰に向かって祈るのか、という答えは「父なる神に向かって祈る」というのが正しい答えです。なぜなら、イエスさまも父なる神に向かって祈られました。

 

4.キリストは神であるのに、なぜ祈る必要があったのでしょうか。

 「キリストは神である方なのに、なぜ祈りが必要だったのか。」このような質問は考えたことがありませんでした。神様なのに、どうして祈るのか?皆さんは考えたことがありますか。

一緒に考えて行きましょう。

イエス・キリストは神様です。しかし、この地上におられた間は、神だけではありませんでした。神であり、人間であるお方でした。神としては祈る必要はありませんでした。しかし、イエス様はアブラハムの子孫として、ダビデ王の子孫として人間の社会にお生まれになったのです。私たちと同じ肉体を持ってこの世に生まれ、この世で成長され、悲しみも苦しみも味わいつくされました。祈りはアブラハムとその子孫にとって重要であったように、人間であるイエス様にも重要だったのです。本質的なものでした。

モーセの生涯を見ると、モーセは神と顔と顔を合わせて語り合っています。いつも祈っていました。イエス・キリストも同じです。キリストの活動(公生涯)は三年半でしたが、彼の祈りはまさに命の息であったことを聖書は記録しています。

 

イエス様は規律のある生活を送られました。福音書にはいくつか習慣となさっていたことが見られます。一つは定期的に、安息日に会堂に出席することでした。そこにも祈りの時が含まれていました。イエス様は定期的になされている礼拝に出席されていたのです。

(ルカ4:16)「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」

イエス様は会堂や神殿などに足を運び、祈りの時を持っておられました。イエス様がいつも祈りの姿勢を持っておられたということを示す教えがあります。「いつも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18:1)ことを教えるために、一つのたとえ話をされました。不正な裁判官の話でした。「あきらめないで激しく求め続けると悪い裁判官でも役に立つ裁判をしてくれる、だから失望しないで祈り続けなさい。」というものでした。

 

イエス様が宣教活動を始められた時、すでに、祈りにより頼む姿勢を持っておられ、祈りはいつも聞かれるという確信を持っておられました。

(マルコ1:35)「 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

マタイ14:23「 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」

ルカ5:16「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」

ルカ9:18,「 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」

ルカ9:28「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。」

ルカ18:1「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」

 

これらの聖句を読む時、イエス様はよく祈っておられたこと、また、一定の時間、父なる神と良い交わりの時を持つために定期的に祈っておられる事がわかります。

イエス様は父なる神と一対一の関係を持つために努力しておられたことも分かりますね。昼間は神の国のことを教え、祈り、病を癒し、奇跡をなし、忙しい生活でした。しかし、それを支えたものは祈りでした。父なる神との一対一の時間を確保しておられたのです。

 

現代の私たちの社会はめまぐるしく忙しいです。動いていないと、怠け者のような気がします。

これはサタンの策略です。今年はわずかの時間でも良いですから、神との交わりをゆっくりした気持ちで持ちましょう。

神であられたイエス様でさえも祈られたのです。ましてや、人間である私たちは祈りなしに生活できるはずがありません。祈りましょう。祈りは車のガソリンと同じです。油注ぎを受けましょう。

祈りは父なる神に向かって祈ります。「『天のお父様・・・・」で始めましょう。そして『御子イエスのお名前によって祈ります。』と結びます。」

 

 証

この証は1951年に起こったことです。

ポールというアメリカ人が戦後の日本に宣教師の働きを助けるためにその年の1月に大阪にやってきました。そして、宣教師を助け、大阪の焼け跡で教会を立てたのです。

そして5月の初めでビザが切れるので4月の初めに帰ることにして、飛行機のチケットを取りました。帰る時が近づくと、不安が出てきて、この飛行機はやめた方が良いという気になってきました。飛行場でチケットをキャンセルして、ほかの便を探してもらうことにしました。30日間待たなければならないと言われました。30日間待ってもこの飛行機はやめた方が良いと確信が来たので待つことにしました。すると、しばらくして、ほかの飛行機に空席が見つかり、その飛行機にのってアメリカに帰ることになりました。

 サンフランシスコで飛行機を乗り継ぐ時、新聞を見ました。「東京発アンカレッジ便・アリューシャン列島で墜落」という記事が出ていました。ポールはこの飛行機に乗って帰る予定だったのですが、聖霊の導きにより、胸騒ぎがしてやめたのです。驚きました。そして、神に感謝しました。

 家では父親(75歳)がポールの飛行機に胸騒ぎがすると言って、午前3時に起きて祈り始めたそうです。父の祈りが聞かれて息子ポールは違う飛行機に乗って、無事にアメリカに帰ることができました。

とりなしの祈りは力があります。神は祈りに答えてくださるのです。


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