amita_gate's memorandum

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顕浄土真実教行証文類序(部分私訳)

2012-09-17 16:31:15 | 仏教
When I think through the unimaginable great vow of Amithaba Buddha, it is the largest ship to sail through the perilous sea of life and death, and when I think through the unrestricted light of Amithaba Buddha, it is bright light of wisdom which emancipate sentient beings from pitch darkness of ignorance. And now,  Devadatta directed Ajatasatru to harm his farther while this world entered into deep relationship with pure lands, and Shyaka Buddha had Vaidehi select pure land of Amithaba Buddha, showing the target of Amithaba buddha's pure karma. This is that the reverend Devadatta and the reverend Ajatasatru in their tentative form equally want to relieve sentient beings like weed from their pain and despair, and Shyaka Buddha compassionately wants to give mercy exactly to sinners of five great sins, slanderer to Mahayama Buddhism teachings and those who have no seed of Buddha. Thus now I know, the respectful name of Amithaba Buddha with harmonious and perfect virtue is true wisdom to convert bad karma into virtue, and incredible diamond-like joyous belief given is the truth to eliminate deep rooted doubt of the sentient beings and make them realize buddhahood.
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浄土教メモ(聖典)

2008-10-19 15:42:04 | 真宗についてのメモ
浄土教経典
・大無量寿経
・観無量寿経
・阿弥陀経
阿弥陀仏が主催する極楽浄土の様と、そこに往生するに至る方法を主題的に説いた経典。

大智度論 龍樹
その一節で、仏名を口称することにより仏道成就する易行の道を説いており、口称による念仏の成立に多大な影響を与えた。

論書
・浄土論 世親
・往生論註 曇鸞
・安楽集 道綽
・観経疏 善導
印度・中国で成立した代表的な論書。

・往生要集 源信
・選択集 法然
前者は日本に浄土教の思想と方法を紹介し、後者は口称による専修念仏の道を確立させた。

親鸞の著作
・顕浄土真実教行証文類(教行信証)
浄土真宗の教理を現す根本経典。六巻から成る。
念仏が他力回向による浄土往生の道であることと、真実に菩薩道であることを説く。
・正信偈
教行信証に含まれている偈(詩文)で、親鸞の浄土教理解の骨格を示すものとして重用される。
・浄土三往生文類
往生の法と証果に三種あることを、大無量寿経の三願に対応させて説く。
・入出二門偈
・往相回向還相回向文類
阿弥陀仏の回向に往相と還相の二種あることを示し、菩薩道成就はひとえに仏力によるものであることを明かす。
・浄土和讃
曇鸞の「讃阿弥陀仏偈」と、浄土三経に基づいて、その大略を和文で詠ったもの。
・高僧和讃
浄土教成立に力あった祖師(龍樹、世親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然)の事蹟を和文で詠ったもの。
・正像末和讃
末法思想に基づいて、念仏のみが仏道成就の道であることを和文で詠ったもの。
・唯信鈔文意
聖覚「唯信鈔」の注釈の形を取り、他力信心の問題につき主題的に述べたもの。
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真宗の物語

2007-10-01 12:41:15 | 真宗についてのメモ
最も尊敬すべき、気高く優れたお方がいた。
その方が仰った。

「ここから西へ十億もの世界を越えたところに、極楽浄土と呼ばれる国がある。
無限の寿命を持つという阿弥陀仏が建立し、そこでは誰もが速やかに覚りを開くことが出来るという。
極楽浄土へ生まれることは難しくない。ただ合掌して「南無阿弥陀仏」と唱えれば良い」

そして一息おき、聴衆の一人の方を見て、微笑んで問われた。
「私はこう言いましたが、あなたはこれを信じられますか?」
「そして、極楽浄土へ生まれたいと思いますか?」

最も尊敬すべきお方から目を見つめられた聴衆の男は、返事に迷って、こう言った。
「そんな国が本当にあるのかどうか、私には確信が持てません。
けれども、貴方が仰るのならば、あるのかもしれないと思います。
そしてもし本当にそのような国であるのならば、そこへ生まれることは悪いことではないように思います」

最も尊敬すべき、気高く優れたお方はこう仰った。
「ならば、その国へ生まれたいと願いなさい。
そしてそのために、「南無阿弥陀仏」と常に唱えることです。
他の修行は一切することはありません」

そうして、座を解散され、立ち去られた。
残された男は、戸惑ったように立ち止まっていたが、やがてぶつぶつと、
「南無阿弥陀仏」
と時折唱えながら生活するようになった。
時々忘れていたが、暫く経つとまたふいと思い出して唱えることもしばしばあった。

やがて年月が過ぎ行き、男も老境に入って、死のときが訪れた。
その時、最も尊敬すべき、気高く優れたお方が、男の傍らへ再び来られ問われた。
「貴方はよく「南無阿弥陀仏」を唱えながらこれまで過ごしてきた。
どうですか、極楽浄土へ生まれられそうな気がしますか」

男は答えた。
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真理と不安 不安と往生

2006-02-25 18:23:05 | 真宗についてのメモ
真理と不安
「真理は私を不安にさせる」
「真理という言葉は私を不安にさせる」
「真理という観念は私を不安にさせる」
「真理について考えると私は不安になる」
人は不安なのだ。真理でさえ、それが真理であるのか、人を不安にさせる。

真宗では安心ということを言う。
人間的世界の全てのものは不安であることから免れない(人間的世界内のもので真理を主張するものも含む)。だから、人間的世界を作る全ての要素(全ての言葉、心、体、物質、世界etc.)を抜け出たものだけが、その不安を救済しうる。
それは不安にさせる此岸の真理ではなく、それを超越する彼岸の真理(彼岸より来るもの=如来)である。

不安と往生
極楽往生は、単に今より良い安楽な生活というのではない。極楽往生は、必然的に安心を願わざるを得ない、衆生の不安の果てしなさである。悲痛なまでの拠りどころのなさである。

だから阿弥陀仏は、その不安の衆生のために幾つもの誓願を建てられた。
特に19願、たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
(菩薩の誓いを立て、または諸々の善行を重ねて、誓って極楽往生したいと思う者がいるだろう。命が終わるまでに、例えば沢山の仏弟子等で取り囲んで、その者の前に現れよう)
20願、たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
(仏の名前を聞きつけて、極楽浄土に思いをかけ、諸々の功徳のもと(仏名を唱えること)を積み重ねて、それと引き換えに極楽浄土に生まれたいと思う者がいるだろう。その思いは叶うだろう)
不安であるがゆえに仏道修行をせざるを得ず、不安であるが故に仏名を唱えざるを得ないような立場にあっても、いやそのように不安であるからこそ、必ずや救済すると。
だからこそ、不安であるが故に様々の行に励まざるを得ない衆生の姿を、釈尊は観無量寿経の散善の段で9品にも分けて詳細に説き述べられた。

私たちは限りなく不安である。そしてそこから決して抜け出すことは出来ない。
弥陀の救済はそのような私たちを対象とし、そのような私たちのために、弥陀は必然的に実現する完全な他力の誓いを建てられたのである。
念仏往生の願(18願)、たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(阿弥陀仏が仏となったとき、あらゆる衆生は、阿弥陀仏の御心(=彼岸の真理)を信じ喜んで、その(彼岸の)世界に往きたいと願って、何度でも念仏を申すでしょう。(阿弥陀仏は)必ずや全ての衆生をその(彼岸の)世界に渡らせます。(それは)ただ、諸々の悪を犯し、真理から遠ざかっている彼らを救済するためなのです。)
必至滅度の願(11願)、たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
(その(彼岸の)世界では、皆が仏になることが定まっており、必ず煩悩(によって構成されているあらゆるもの、心身・世界等々)を滅し尽くした境地に至るのです)
他力により、不安を含めた全ての苦悩は間違いなく滅される。
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『働くものから見るものへ』

2006-02-12 00:54:26 | 宗教・哲学
田中久文「日本の「哲学」を読み解く」(ちくま新書)より1章、西田幾太郎。『働くものから見るものへ』についての紹介箇所(pp36-42)。

「このように、一般概念によって特殊を包むということが、人間の意識の働きであると西田は考えた・・・彼はそのことを、論理の基本形式である「S is P(SはPである)」という「判断」の形式をかりて説明している」
しかし個物について言えば、それをどれだけ捉えようとPを規定しても、Pは一般概念に留まり、個物それ自体は一般的なものを超越して存在している。
「そこで西田は、そうした「個物」を「主語」の方向の極限にあるものとして「超越的主語面」とよぶ。(これは)いかなる一般概念によってもとらえ切れない具体的現実のなかの真の実在を意味している」
他方、個物概念それ自体も、一般概念の見地から批判が加えられなければならない。
「実は「特殊なもの」とは、それが特殊であればあるほど、逆にそのなかにさまざまなレベルの「一般的なもの」を性質として内包していくことになる。・・・その特殊化の極限にある「個物」というものは、無限に多くの「一般的なるもの」を内包した存在といえ・・・あらゆる「一般的なもの」を内包した無限大のものでなければならない。・・・西田は、・・・それを「無の場所」とよんだのである。」
「通常の意識の働きとしての「場所」のことを、西田は「有の場所」とよぶ。それに対して「無の場所」とは、そうした無数の「有の場所」の根底にあるものだとする。「有の場所」が「意識された意識」とするならば、「無の場所」とは「意識する意識」ともいえるものである」

但し西田は、この「無の場所」は対象界と対立した有限なもので、最も根底的なものではないとする。そして、
「西田は、そうした「相対的無の場所」のさらに根底に、客観的な対象界と主観的な意識界の双方を包み込む「真の無の場所」を考える。西田によれば、それは・・・意識の働きを支えながらもそれを超えた「絶対無の場所」である」

この辺り、大乗仏教の教説の哲学的解釈だろうか。
例えば、涅槃経に「所有智慧、法において無礙なり、是れを「如来」と為す・・・如来は身心・智慧・無量・無辺・阿僧祇の土に編満して、障礙する所無し、これを「虚空」と名く。如来は常住にして変易有ること無ければ、名けて「実相」と曰ふ」とある。
教行信証証巻の親鸞の自釈には「常楽は即ち是れ畢竟寂滅なり、寂滅は即ち是れ無常涅槃なり、無上涅槃は即ち是れ無為法身なり、無為法身は即ち是れ実相なり、実相は・・・真如なり、真如は即ち是れ一如なり。然れば、弥陀如来は、如従り来生して、報・応・化種々の身を示現したまふ」とある。
つまり如来は一切空であるからこそ、逆にあらゆる姿(世界・身心・智慧等の全ての姿を含む)を取りうるということが記述されているのだが、これは大乗仏教の救済の基本原理である。

個々の衆生が囚われている個別の姿は、西田の概念で言えば個物であり「有の場所」。
一切空に立脚し、個別の相を離れ自在を得た如来の姿は、西田の概念でいえば、「無の場所」に立脚しつつあらゆる「有の場所」を包み込んだ「絶対無の場所」。


『働くものから見るものへ』、読んでみようかな。

参考:
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/092521+/top4.html(著作集)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch2/u3/t2.html
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真実教の構造(概要)

2006-02-07 06:54:28 | 真宗についてのメモ
阿羅漢の真実は空である。
空とは無、空虚、非存在を指す。
この現象世界、物や自己や心の存在は悉く煩悩の生み出した虚妄である。

この真実である空は最大の幸福である。
煩悩を離れると共に、この現象世界内の存在である一切の恐怖や苦悩から免れるからである。
(但し、厳密には、阿羅漢のみでは自己以外の衆生を救済できないという苦悩が残るので、完成された阿羅漢は菩薩へと至らなければならない。
菩薩の完成された幸福が浄土であり、その浄土の中で最大の幸福を成就(あらゆる衆生の救済を成就)したものが極楽(幸福の極まる)浄土である。ゆえに極楽は無限であり無辺無量であると言われる)

凡夫の真実は煩悩である。
煩悩とは(形而上的な)欲望であり、またそれに対する根本的な無智(無明)である。
情欲や食欲や生存欲等の現象的な欲望は、しばしば煩悩と取り違えられるが、これは煩悩の真実を矮小化して理解するものであって妥当でない。
この現象世界、物や自己や心の存在を錯覚してしまうこと自体が、既に煩悩の作用である。

菩薩の真実は般若であり誓願である。
般若は、凡夫の真実である煩悩を滅し、阿羅漢の真実である空、更には浄土へと至らせるための手段(方便)である。
般若は可能な無数の手段を含む。
般若は凡夫がその適否を判断できるような矮小なものでない。また凡夫が行使できるようなものでもない。般若は菩薩だけに許されている。

菩薩の般若を修得することは、誓願(一切衆生を救済せん、そのために一切の煩悩を断ぜん、そのために留まりなく一切の仏法を学し続けん、そのために一切の仏道を成ぜんことを誓う)によってしか成就されない。
凡夫は自分でどのように思おうとこの誓願を立てることはできない。
必ずどこかで虚偽が混じるからである。言い換えると、誓願は真実の仏の前でしか立てることが出来ないからである。凡夫は自力では仏に出会うことは叶わない。

煩悩のために凡夫に生まれ(これは現象世界内に生まれることに同義)、自力で誓願を立てることも叶わない(真実の仏に出会うことの出来ない)ものが救済(空、更には浄土、極楽)に与るには、実在の菩薩ないし仏(教証を円満した法)によらなければならない。
実在の菩薩ないし仏は、ただ名号である菩薩、仏でなければならない。それ以外の姿である菩薩、仏を見る手立てを凡夫は持っていないからである。
そしてただ名号である菩薩仏はひとり阿弥陀仏のみである。阿弥陀仏はその十八願、十一願、二十二願で一切衆生を最高の救済に至らしめることを誓いつつ、重ねて十七願で修行成就の際には名号の姿を取られることを誓われた。

故に凡夫はただ弥陀の名号によってのみ救済に至るのである。
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真実教、三心一心問答、如是(梗概)

2006-02-05 02:18:48 | 真宗についてのメモ
「答ふ。『経』(小経)にのたまはく、「名号を執持す」と。「執」といふは心堅牢にして移らず、「持」といふは不散不失に名づく。ゆゑに「不乱」といへり。執持はすなはち一心なり、一心はすなはち信心なり。しかればすなはち、「執持名号」の真説、「一心不乱」の誠言、かならずこれに帰すべし。ことにこれを仰ぐべし。
 論家(天親)・宗師(善導)、浄土真宗を開きて、濁世、邪偽を導かんとなり。三経の大綱、隠顕ありといへども、一心を能入とす。ゆゑに『経』の始めに、「如是」と称す。論主(天親)建めに「一心」とのたまへり。すなはちこれ「如是」の義を彰すなり。
 いま宗師(善導)の解(定善義)を披きたるにいはく、「如意といふは二種あり。一つには衆生の意のごとし。かの心念に随ひてみな応じてこれを度す。二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし、六通自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく、身心等しく赴く。三輪をもつて開悟せしめて、おのおの益すること不同なり」と。」
(浄土文類聚鈔http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%B5%84%E6%96%87

一心は如来の心(=(形而上の)真実)であり、如是はこれへの信である。

教は、仏名(「仏説大無量寿」)とその受持(「我聞如是」)から成る。「仏説大無量寿経。我聞如是。」が教である。
これを分析すると、形而上の真実(仏名)とそれへの信(受持)とが教には説かれていることになる。
この教は称名念仏において現動化される。なぜなら称名(=「南無阿弥陀仏」)には、仏名(「阿弥陀仏」)もその受持(「南無」)も共に含まれているからである。

しかしこれだけでは不十分で、更に念仏は仏であると親鸞は考える。称名は単なる言葉ではなく、仏が誓願してその姿を取られた仏の姿であるから真実(念仏)なのである。(形而下のものが真実の資格を得るには、それが形而上のものに由来するより他にない)
人の心で変ってしまうようなものは真実でも大乗でもない。
だからこそ、十八願の至心・信楽・欲生は、三心(人の側の個々別々の心)ではなく一心(仏の唯一絶対の心)であると証明されなければならなかった。(三心一心問答)
また一心は一念でありそれと一致すると(*ここでの「一念」は「念仏」の意である)証明されねばならなかった。(大経の三心と観経の三心の一異問答、大観二経の三心と小経の一心の一異問答)

結論的には、念仏は三心ではなく一心である。人ではなく仏の行いである。

南無阿弥陀仏が単なる言葉(称名)から仏法(念仏)になるときには、教の如是(信)も同様に新しい意味を獲得する(「如意といふは二種あり」)。人の側の如是でなく如来の如是となる。
人間の構想する限られた救いではなく、如来の広大無辺でかつ自在であり無制限的な(*時間や場所、心身の限定を受けずあらゆる衆生を同時に救う)救済となる。

如来の救済を限られたものでなく、広大無辺でかつ自在であり無制限的であると理解したときに、念仏が称名に(他力が自力に)取って代わり、救済は無限に(難行の小路から易行の大道に)なるのである。
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念仏と布教

2006-01-20 21:16:11 | 真宗についてのメモ
「念仏をさへらるなんど申さんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからず候ふ。念仏とどめんひとこそ、いかにもなり候はめ、申したまふひとは、なにかくるしく候ふべき。余のひとびとを縁として、念仏をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。そのところに念仏のひろまり候はんことも、仏天の御はからひにて候ふべし。」(親鸞聖人御消息http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%B6%88%E6%81%AF(21))

「余のひとびとを縁として、念仏をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ」
念仏に布教は不要である。念仏を頂くことこそが、自他を助けることなのだから。
「念仏とどめんひとこそ、いかにもなり候はめ、申したまふひとは、なにかくるしく候ふべき」
あなたが念仏を止めてしまったなら、皆の救いもなくなってしまうが、あなたが念仏を頂き続けるなら、何を困る必要があろうか。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄後序http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E6%AD%8E%E7%95%B0%E6%8A%84
あなたが念仏を頂くかどうかに、全ての衆生の救済がかかっている。

南無阿弥陀仏の真仏土は、無量光明土である。
「この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。」(一念多念文意http://www.access-jp.net/seiten/index.php?chu%2F%E4%B8%80%E5%A4%9A
衆生の知恵は分別であって有限である。限られた対象しか救わない。
けれども無量光明土は、そのような限りを持たない智慧である。全ての衆生を救い取る。

「智慧の光明はかりなし
 有量の諸相ことごとく
 光暁かぶらぬものはなし
 真実明に帰命せよ」
「解脱の光輪きはもなし
 光触かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまふ
 平等覚に帰命せよ」
「光雲無碍如虚空
 一切の有碍にさはりなし
 光沢かぶらぬものぞなき
 難思議を帰命せよ」
(讃阿弥陀仏偈和讃。寺子屋ネット/浄土真宗本願寺派蓮浄寺経典・聖教データ中http://www.terakoya.com/seiten/seiten.cgi?c0553

「光暁かぶらぬものはなし」「光沢かぶらぬものぞなき」「平等覚に帰命せよ」
真宗、本願とは、私だけ、あなただけ、特定の誰かとだけ等、限られた者とだけ(=自力)でなく、全ての衆生(一人漏らさず)と一緒に(平等に)往生する(=還相回向、他力)ということである。
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勝他・利養・名聞

2006-01-20 21:06:10 | 真宗についてのメモ
法然上人に弟子入りした鎮西の聖光坊が、地元へ帰ろうとして法然上人に暇乞いに行った際の逸話。

「両三年ののち、あるときかご負かきおいて聖光坊、聖人の御前へまゐりて、「本国恋慕のこころざしあるによりて鎮西下向つかまつるべし、いとまたまはるべし」と申す。すなはち御前をまかりたちて出門す。聖人のたまはく、「あたら修学者が髻をきらでゆくはとよ」と。その御声はるかに耳に入りけるにや、たちかへりて申していはく、「聖光は出家得度してとしひさし、しかるに髻をきらぬよし仰せをかうぶる、もつとも不審。この仰せ、耳にとまるによりてみちをゆくにあたはず。ことの次第うけたまはりわきまへんがためにかへりまゐれり」と云々。
 そのとき聖人のたまはく、「法師には三つの髻あり、いはゆる勝他・利養・名聞これなり。この三箇年のあひだ源空がのぶるところの法文をしるし集めて随身す。本国にくだりて人をしへたげんとす、これ勝他にあらずや。それにつけてよき学生といはれんとおもふ、これ名聞をねがふところなり。これによりて檀越をのぞむこと、詮ずるところ利養のためなり。この三つの髻を剃りすてずは、法師といひがたし。よつて、さ申しつるなり」と云々。
 そのとき聖光房、改悔の色をあらはして、負の底よりをさむるところの抄物どもをとり出でて、みなやきすてて、またいとまを申して出でぬ。」
(口伝鈔第九段。寺子屋ネット/浄土真宗本願寺派蓮浄寺経典・聖教データ中http://www.terakoya.com/seiten/seiten.cgi?c0869より)

柔和な人柄として知られる法然上人だが、別にその信仰までが柔なものであったわけではない(仏教は人の人柄の都合で変えられるようなものでない)。信仰にかける眼差しは深く鋭い。
信仰者である限り、法然上人のこの言葉にまともに答えることは不可能である。衆生が宗教(それ以外についても当てはまるけど)に関わる限り、勝他・利養・名聞を願わないことなどないのだから。

法然上人の仰っていることがどれだけ普通とかけ離れたことかを見るには、(多かれ少なかれ)社会の現実とされている「生存競争」「競争社会」等の観念と並べてみると良い。こちらにおいては、他に勝ち、利養を得、名声を獲得するのが生の目的であり良き生である。

仏道には自尊心(勝他・利養・名聞)は不要である、と法然上人は言われる。

親鸞聖人も同旨のことを正像末和讃で詠われる。
(以下引用はいずれも、寺子屋ネット/浄土真宗本願寺派蓮浄寺経典・聖教データ中http://www.terakoya.com/seiten/seiten.cgi?c0600より)

「僧ぞ法師のその御名は
 たふときこととききしかど
 提婆五邪の法ににて
 いやしきものになづけたり」

僧と言い仏教と言って尊い素振りをするが、実際のところは五逆の提婆達多(仏を押しのけ、自分が最高指導者になろうとした)と何ら変ることがない。仏法を尊んでいるつもりで、事実は自らを尊び自他に加害して仏法を損なっているのである。

「外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり」
「かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す」

外観は仏教徒であるが、実際に尊崇しているのは道から外れた心である。
仏法の名を借りて、煩悩のままに自分の好きなことを語り、他を非難して、自分自身や我(=鬼神)を尊んでいる。
(外道とは他人のことではない。自分の普段の姿がそのまま外道なのだ)

自尊心で生きてどうするというのか、という法然上人の問いかけに、親鸞聖人はこう応えられている。
「是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり」
仰るとおりです、返す言葉もありません、ということだろうか。

しかし、衆生には、本当の意味で自尊心を投げ捨てることも、自尊心を持っていることを悔いることさえもできない。
「悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる」
反省や懺悔の行すら虚仮の行いである。

だから、
「蛇蝎奸詐のこころにて
 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは
 無慚無愧にてはてぞせん」
衆生が真に自らを羞じ、懺悔することができるのは、他力の回向によってのみである。
念仏以外に真実の懺悔はない。真実の心はない。
念仏以外に生を羞じそこから抜け出させる道はない。
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自尊心 虚仮と生

2006-01-20 12:49:47 | 真宗についてのメモ
衆生の本質は衆生への加害である。
実力や権力や権威を楯に自他へ加害する。
当人がそれと意識していなくても、「自分だけが支配者でありたい」「自分だけが正しくありたい」というのが本音である。

これはどんなに着飾っていても変らない。
例えどんなに必要であっても、仕方のないことであっても、正しいことであっても、加害をしそれを望む心があることには変りがない。
それが苦である。衆生である以上これを免れ得るものは一つもない。

「私は何も悪いことはしていない」「私は正しい見解を持っており相手が間違っている」「私は人と違って反省し努力する心を持っている」「私だけが苦しんでいる」「私は良く考えておりきちんとした根拠も持っているが私と違う意見の人は表層的な見解しか持たず迷妄に振り回されている」
心は常に虚仮を呟く。

自分も他人も思い通りにしたい。
立派な自分が愚かな他人を訓導したい。
相手をやっつけたい。自分は無事に生き残りたい。

人より優れていたい。人に褒められ認められたい。
人から認められ負い目のない生活をしたいという「つつましい」欲望も、この加害欲と裏表で本質においては変りがない。


衆生の本質は自尊心である。
他から攻撃され、貶され、非難され、迫害されて、傷つきぼろぼろになる。
他を攻撃し、貶し、非難し、迫害して、傷つけぼろぼろにする。
そんな生をそれでも生き続けている。それが生である。
様々な形を変えた名目で、いつまでも無数に衆生は迫害し迫害され続ける。

「私だけは違う」
「私は」
「私は」
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