銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

アフリカで、日本の「かまど」作りが感謝されているのを見て、昔風の生活の良さに気がつく△△

2013-01-11 19:23:47 | Weblog

 本日の文章は珍しく、永田町に関する事項が一切含まれてはおりません。だが、政治家に良い政治をしてもらうように願う文章だということには変わりはないのです。それと、私たちの社会をよいものにしていくのは、政治家だけではなくて、私たち自身だということをも再確認したいのです。

 そのためには、社会の大勢、いわゆるトレンドというのに、乗ることだけがいいことなのか?という疑問をここで投げ出してみたいのです。もっと古い時代に回帰してみましょうよという、提案です。古い時代に、この社会にあったものを、再検討してみましょうよという提案です。

 なお、ここに置いてある写真は本文とは、無関係なもので、青い花が群れている場所(たぶん、横浜のイングリッシュガーデンだと思われる)を撮影したものです。本日は文章が短いので飾りに入れてみました。

副題1、『エコ運動について、少し語りたい』

副題2、『アフリカで、日本のかまどが、喜ばれている』

副題3、『それは、夢だが、大家族主義はいいかもね』

副題4、『今、ホームレスに成りたてだと思われる人に、あなたなら、どう向き合う?』

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副題1、『エコ運動について、少し語りたい』

 私は最近は、鎌倉市内を散歩していないのです。だが、主人は、よく散歩します。ので、気が付いているらしいのですが、いまどき、外壁に、薪を積んでいるおたくが多いそうです。それで、何とはない話題として盛り上がったのですが、鎌倉では、薪ストーヴを持っているのがステータスシンボルだということになりました。

 薪は、普通に買うととても高いものだそうです。で、薪ストーヴの維持もなかなか、難しいものとなっていて、それこそ、お金持ち用のステータスシンボルになっているのですが、植木屋さんなどと、交渉していて、もらうように、手配をしておくと、ただで、もらえるので、夏の間から、車で、集約して、軒下に積み上げておくそうです。

 私も薪ストーヴがほしいなと思うときがあります。山の中に住んでいるので、ものすごい量の落ち葉なのです。<<<<<それを焼く。それとともに、紙類などは、ゴミとして出さないで、自宅で処理する。となると、その余熱で、お湯を沸かし、料理も作れるのではないかと。それは、エコにつながるのではないか。>>>>>と思ったりします。

 ただね。薪ストーヴを持っているお友達が、火事を出しました。その人が住んでいるところは、鎌倉ではない遠いところだし、薪ストーヴが原因かどうかも知らないのですが、相当に広い部屋がないと、設置が無理だし、その上、我が家では外もまた、問題なのです。外に、煙突を出したとして、そこから火の粉が舞いますよね。そのすぐそばに木の枝が伸びています。で、外で、火事が起きそうで、恐ろしいし、その上、山の上に住んでいるので、薪を運びあげるのが大変です。

 足りなくなった薪を、買わないで、植木屋さんからただでもらって、自宅へ運ぶのも、車がないので、無理です。だから、我が家では、薪ストーヴを設置する夢は、夢のままです。

 でも、鎌倉の鎌倉らしいところは、婦人之友風の生活をする、主婦がまだ、多数居残っているらしいということと、新しく転入してくる人も、その手の生活を理想としている人が多いということなのです。つまり、スローライフが提唱される前から、スローライフを、取り入れている人が多いということです。で、昔風の屋根だけがあるバラックの野菜市場が、ずっと運営されており、いまでは、東京のレストランでも、鎌倉野菜を売り物にしているところがあるほど、人気が出ています。大規模な、流通に移行しなかったことが、鎌倉の農家にメリットをもたらしているのです。

 そういえば紫色と白がだんだら模様になったトマトを買ったことさえあります。農家も研究熱心です。

 ここで、私なりの少しシヴィアな、観察というものも付け加えさせてくださいませ。それはね。勝つだけが、勝利でもないということです。鎌倉の農家というのは、小規模営農が多いと思います。それは、規制があまり強くない時代に、宅地として一部を売ったりアパートを建てたり借家を建てたりしている人が多いので、お金持ちだが、農地は小さくなってしまったと思われるからです。

 だから、農家としては、ほかの地域に比較をすると、勝てないのです。たとえば、三浦郡とか、平塚市には、より大規模な農地があります。だから、野菜が、プラスチックのカバーを付けて、生産地込みで、スーパーで売られています。だけど、鎌倉発のきゅうりとか、トマトが、同じ大きさで、きちんと箱に入っているのは見たことがありません。

 で、不揃いのトマトとか、不揃いの小松菜とか、そういうものを、風がぴゅーぴゅー吹き抜ける、直売所で、売るのが、鎌倉農家のやり方なのです。だから、その直売所は、わたくしが知っている限りにおいても、30年間建物は変わらず、最近よくある道の駅などとはまるで、違うシンプルで貧しい場所です。だけど、そこにしがみついていて、そして、4日に一日出店をさせるとか、いろいろ、民主的な運営をして行った結果ファンも付いているのです。私は何々さんのトマトしか買わないわという人がいるのです。なにしろ、産地直送ですから、形が不ぞろいでも、おいしいのはおいしいですね。よく熟したものを持ち込んであるのだから。

 まあ、こういう経営ができるのも、裏に、「本当は、お金持ちなのだ」という事情があるとは言えましょう。だから、野菜を作るのは、一種の趣味みたいなもので、そこで、生活費を稼がないでいいのだという向きもある。それと、結構お高いのです。値段としては、別に安くもないです。ただ、お客と売り手が対面販売ですね。そうなると、無農薬がいいというような情報は、農家に骨身にしみて入るでしょう。農家自身も一人の消費者として、無農薬の方がおいしいと気が付いてきます。そうですよ。化学肥料を使わず、しかも無農薬で育てたものは柔らかくておいしいです。

 それで、形よりも味にこだわるシステムが、鎌倉・野菜市場では、構築されたのです。そのうえ、お客さんが、辰巳浜子さんなども一時期は、入っていたと思いますので、レベルが高いです。すると、「コリアンダー(香菜)を作ってよ」というような要望も出たでしょう。で、結果として、どんどん、珍しい洋野菜にチャレンジするということとなったと思われ、したがって、東京のレストランやホテルで、そのブランド性が有名になるほどとなっています。で、今では、不揃いでも、高くても、売れる結果となっています。これは、神奈川県の近郊の町の農家に比べれば、逆転勝利でしょう。 

 継続は力なりとか、協力は力なりとかいう基本的な形が、鎌倉野菜市場には見られます。

 でも、この手の形式は、ほかの町村でも、工夫をすればできるはずです。東京圏の住宅街だって、ぽつぽつ、農家が残っている地域も多いからです。

 そして、市場には併設されたものとして、乾物屋もあります。見かけは汚いお店ですが、中にスーパーでは売っていない商品が置いてあります。10種に近い豆の量り売り、おだし用の煮干しも10種類近い販売数です。で、そういう環境、つまり、スローライフを志向し、昔からあるものを大切にする。そういう環境の中で、薪ストーヴを使ううちが多いという現象も、生じます。

 私自身は、それを設置しないが、安全に設置できるスペースがあるお宅なら、薪ストーヴを復活させるのはいかがでしょう。エコに役立つでしょう。よく地産地消と言われますが、これも、一種の地産地消です。すぐ身近にある落ち葉、風によって折れた木切れ、自宅から出る紙ごみなどを、自分の家でもやし、そのエネルギーを自分の家で、利用する生活。都会でも、工務店や植木屋さんに頼んでおけば、お安く薪が手に入るかもしれませんし。

 ただ、「私たちは忙しくて、そんな手間は掛けていられない」という方々に提言したいのが、副題3で言う大家族主義なのです。

 少しでも、田舎に近い家では、もっと安いお値段(今は、主に流通している海外製のストーヴは、五〇万円前後です。高すぎる)で、薪ストーヴが手に入るようにしたらいいと思うのです。 昔は囲炉裏がありました。いろり文化は、すでに、廃れていると思いますが、田舎のお家は広いし、土間風な場所があれば、そこにストーヴを置き、山に入って、下草やら折れた枝を拾ってくると、それは、里山維持にもつながるのですよね。そのうえ、海外から燃料を、買ってこなくてもいいでしょう。それから、今は、建築基準法の改正で、家のリフォームが盛んですが、そのリフォーム後の材木も、廃棄場所に捨てるのではなくて、町内で、消費できるのが薪ストーヴです。

 北欧の生活がいいと、よく、言われていますが、その一つに、日本で言う入会権が、大きく確保されていて、森の中で、取れるものなら誰がとってもいいそうで、そんなことがずいぶん役立っている模様です。薪もそうですが、木イチゴや、ブルーベリーなどの木の実、など、すべて、誰がとってもいいそうです。

 日本は今、山持ちが大変だそうですが、このように、だれが入ってもいい様にすると、随分、改善されると思いますよ。木の下側が、整理されることが、山の維持に大切だそうです。人が入って役に立つ薪や、下草を持って帰る。山近くの都市に住んでいるサラリーマン家庭が、車を使って、山の恵みをいただきに行けば両方の助けとなります。

 過渡期としては、山の入り口に連絡先を書いていて、携帯で、持ち主に連絡を入れてもらう。そして、何をもらって帰るか、だいだいの、目星を持ち主の方に告げておくというのはどうでしょうか? 北欧では黙って、それをやっていいが、日本では一応持ち主の許可を得ておく。

 むろん、この山は、それをやっては困るという山もあるでしょう。持ち主が、マツタケをとり、タケノコも収穫する山であって、自分がビジネス上使っているから、他人が入ってはこまるという山もあるでしょう。そういうところでは、「ここは、タケノコ生産者◎◎さんの持ち山なので、無断立入禁止です」という標識を立てておけばいいのです。よく道の駅などで、生産者の名前入りの、野菜を売っていますね。ですから、今は、野菜も生産者が、いるということは誰でもが知っている事実です。そういう風に山を使っている人は、それなりに、尊重し、そういう山には、外部の人間は入らないというルールを作る。他人への思いやりを優先する日本人なら、すぐ納得して新たなルールができるでしょう。

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副題2、『アフリカで、日本のかまどが、喜ばれている』

 ところで、年末年始の特集テレビで、見たのですが、(残念ながら番組名は覚えておりません)、新興国、とか、途上国へ出かけて現地の実情に合わせて貢献をしているビジネスマン、または、青年海外協力隊の人々と、その仕事ぶりが紹介されていました。

 その中で、ひどく相手国から喜ばれているのが、日本のかまどを作る技術を伝えている人たちでした。そのかまど作りですが、私も、BSプレミアム内で見たことがあります。そこで、やっている女性三人が田舎暮らしをする番組(これは、日本テレビで、人気のあるトキオのダッシュ村にも似ている番組なのですが)、の中でもかまどを作る時間がありましたから。

 かまども、文化の積み重ねで、改良されたポイントがあるのです。たとえば、粘土を強化するために、わらを使ったり、土を盛り上げて成型するためにもコツがあったり、上のたき口が3つあるのに、薪をくべるところは、一つにしたりといった技術的積み上げがあって、それを伝えることも大切なことのようです。

 かまどがあるだけで、現地の、いままでの、調理法(地べたで、たき火をして、その熱量を利用して調理する)よりは格段に、燃料の効率が高くなる模様です。で、現地の女性は、薪を集める労力が減り、また、現地の村では森林の保護が可能になります。

 それに、このような、文化的技術の蓄積のあるかまどを、設営すると、さらに燃料効率が上がり、同じ量の薪で、料理だけではなくて、お湯を沸かす余裕もできるので、衛生上、とても便利で、生活が向上するようです。

 生水を飲むより、煮沸したほうが、ああいう熱い地域では、細菌が死にますし、また、シャワーというか、湯浴み(たらいでもいいのだけれど)もできますよね。それは、皮膚や体をきれいにすることにつながるので、ありとあらゆる意味で、人間の生活の改善の役に立つのです。

 それは、本当にいいことだと思いました。

 どうか、安部さん、こういう額としては、小さな部分へも、丁寧に、目配りして、お金を使ってくださいね。国家間に円借款をするのもいいのですが、500億円以上をべちゃーっと、ばらまいて、新興国のトップレベルの私腹を肥やすことになったら、大変です。それが、今までだったでしょう。ぜひ、気を付けてください。本当に相手国の民衆にしみとおるような、援助をやってください。それが、日本的な援助だったのです。昔から、それが、台湾の民衆の日本びいきにつながっています。

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副題3、『それは、夢だが、大家族主義はいいかもね』

 生活のトレンドというのがあります。それは、宣伝広告会社の主導権で、作り上げられたり、だれかの本がヒットすることなどで、生まれる場合があります。社員食堂のレシピが大流行なのは、体重測定器タニタの社員食堂本が、最初で、そこからヒットが生まれました。

 核家族優先主義は、どこから生まれたのかしら? たまたま、嫁姑問題に悩んでいる女性が多かったので、核家族優先主義は、戦後社会の中で、大いにもてはやされ、日本社会に広まりました。

 だけど、ここにきて、どうも、問題があると見えてきています。何が一番問題かというと、家庭の大きな役割としての保障力が弱まっているということです。生命保険は、お金による保証または、補償です。そして、年金もそうです。だが、それが当てにならないかもしれないという世の中になり始めました。

 そういうときに、バルザックの従姉妹ベットの世界ではないが、大家族主義は、相当に、吸収力と保証力があったのです。子供が小学生ぐらいだとすると、80代の曾祖父母、50~60代の祖父母、30~40代の両親、0~15歳ぐらいまでのこどもの四世代。

 そして、地主とか、作り酒屋とか、ある程度の財産のある家だったら、一家の中に、誰か、未婚、または、離婚後の大人がいても吸収できたのです。そういうおじさんやら叔母さんは、家族の中で片身の狭い思いをしました。だから、従姉妹ベットの様な小説が生まれるわけですが、それでも、その男性とか、女性は、食うに困らず、会話にも事欠かず、老後も何とか、甥や、姪が引き受けてくれたのです。また、そういう存在がいたので、家族の中で労働力として、余裕が生まれたのでした。

 今、NHKの朝ドラが、大阪の古い木賃宿に舞台が移って、そこに単身で暮らしている人たちが集まっているのをテーマにしてます。そこでも表現をされているし、多くのドキュメンタリーでも放送をされているのですが、老境になって独り暮らしの人の生活が、とてもさびしいものとなっているのです。お金持ちはまだいいのですよ。老人ホームに入ればいいから。そこには友達もいて、介護者との会話もあります。

 それから、ご本人に、お金があって、名誉もあると、親せきも援助してくれます。遠くに離れているけれど、大切にしてくれるかもしれません。いやな言葉だけど、遺産を狙っていてとか。いや、遺産が見込めなくても、お金持ちの一族では、姪も甥もお金持ちだから、精神的にも物質的にも余裕があって、年始や、法事で、お互いにホテルで、お食事会をして、旧交を暖めあうということはあるでしょう。現代の名家では、いとこ会が、活発に運営されているらしいし。

 だけど、一方で、ホームレスになる人が大量に出ている昨今です。とても痛ましい風景も見ます。

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副題4、『今、ホームレスに成りたてだと思われる人に、あなたなら、どう向き合う?』

 私はメルマガ時代を含めて、ホームレスの人とかかわったり、または、町や、テレビの画面内で、傍見したホームレスの人々について、何度も何度も書いています。

 一番最初に、びっくりしたのは、横浜山下町の公園で、網でできた丸いごみかごの中に60代のホームレスの老人を入れて、中学生か、高校生が、6~10人で遊びの一つとして、ひっぱりまわして、結局は殺してしまったという事件です。あれは、何年前だったでしょう。

 そのあとで、鎌倉の山裾のやぐら(洞窟)の中に、布団や、お茶碗があるのを見て、『あれ、ここにもホームレスの人が住んでいるのかな?』と思ったりして、何度も文章を書かせていただいています。

 また、そういう繊細な心を持つ(?)、私を狙って、例の敵様たちが、ホームレスという単語を、使って、私を心理的に揺さぶって来たことも、三度ほどあります。まだ、それをこのブログの世界または、それ以外でも、どこにも、書いてはいませんが、それは、手を変え、品を変え、行われ、フェイスブックに入っていた時にも、それが、相手方の武器として使われました。

 まあ、彼らの狙いが分かっていますから、過剰に心動かされないように気をつけていますが、最近、気になるのは、体格も顔も非常に立派な男性が、急にホームレスになることです。50代か、それ以上の年齢だということはわかるのですが、着ているものも体格も立派です。そして、何よりもお顔がいいのです。

 それ以前の生活が、十分に良いもので、サラリーマンだったと思われ、それゆえに、かえって、気の毒な状況に陥っているのが、しのばれます。心理的に、急に、労働を主にする仕事へシフトすることもできず、また、ネットカフェ文化も知らないねんれいなので、そこに逃げ込むこともできず、そして、NHKの朝ドラに出てきた木賃宿のようなところに宿泊することも、身分が下がったような気がするのか、それとも、お金がないのか、思いつかずにいるらしく、ただ、駅周辺で、立っていたり寝っ転がっていたりするのです。

 その人たちが醸し出す悲哀というものは何とも言えないのです。洋服も身体も汚れておらず、体格が立派なだけに、余計痛ましいのです。それに、日本には、今、乞食の文化がありません。パリなど、目の前にお皿を置いて、小銭を入れてもらおうとする、ロマ(ジプシー)の老女などがいて、そして、人々は施しをたくさんするのです。ところが、日本ではそれがないので、現金がない人はどうするのだろうと、心配で仕方がありません。

 ある晴れただけど、寒風吹くすさぶ日のことです。大きな駅のそばの、ホテルのビュッフェバイキングから、私が食べ終えて、駅ビルへ向かって歩いていた時のことです。立派な新築のビルに、どうしてか、幅一メートルのくぼみがありました。そこに、身を隠すように逃げ込んで、上に描いたような、成りたての、紳士が、たばこを吸っていたのです。アノラックは汚れておらず、顔も日焼けしておらず、傍を通っても臭くもない紳士ですが、足元に大きな紙袋が、3つ、4つあるので、ホームレスだとわかりました。買い物で膨らんでいるのなら、喫茶店に入ってたばこを吸うでしょう。

 これほど、買い物ができる人なら、駅のなかの広場にある、エクセルシオーネや、La Vie de France,とか、Beckers という喫茶店に入って、休息を取るでしょう。

 しかし、外で寒風吹きすさぶ中でたっています。ホームレスではなくて、普通の人なら、喫煙所へ行くでしょう。だが、ホームレスであることをほかの普通の、喫煙者に知られるのも嫌なのでしょう。喫煙所で、たばこを吸うこと自体が、現在では非常に、みじめです。

 そこで、自分がなりたてのホームレスだったら、二重、三重の意味でみじめですね。だから、その男性は、通行量の多い場所の、新築ビルの外壁の、わずかなすきまで、風をよけながらたばこを吸っている。

 今の東京圏は、すさまじく寒いです。本当は駅ビルの中は、温かいので、中に入ればいいでしょう。だけど、ガードマンが追い出すのか、それとも、自分自身が恥じていて、そこで、知り合いに出合うのが嫌なのか、戸外に立っているその男性は、寒気にさらされ続けているのです。パンパンに膨らんだ紙袋4つとともに、じっとそこに立っているのです。

 見ているだけで辛かったです。私個人にその紳士を救う力はありません。だけど、もし、大家族主義が機能していたら、その人は、その内部に吸収されていたはずなのです。あれほどの、美形の顔、背の高い立派な体格を見れば、きっと、立派な大学を出ているだろうと推察をされます。

 そして、いまでは、離婚経験済みだとしても、もし、彼が以前持っていた家族が、大家族だったら、責任感の問題から、離婚はできなかったと思いますね。もちろん、精神的には、うっとおしいですよ。大家族主義の犠牲になるのも。

 芸術家になるのなら、結婚なんか、気にしないでいいです。離婚をしてもいいのです。だけど、目の前の大理石風の、大ビルの外壁に寄り添って、たった、1メートルの幅で、奥行きが50センチぐらいのくぼみに身を隠すようにたって、寒風を避け、たばこを吸っている、男性を見たときに、『これは、いけないよ。日本という国で、一方で、サッカーがどうのこうのとか、野球が何とかとか、ゲームが何とか、アニメが何とかといっている一方で、こうでは。いけない。これはいけない』。と、深く思ったことでした。

 どうしていいかはわかりませんが、一つの提言として、アジアティックまたは、新興国家的な、家族形態である、大家族主義の良さを、再認識していいかもしれないと思ったことでした。

 だが、今、はやっている都会の、二世帯住宅が最高だというつもりはないのですよ。それは、それで、問題があるらしいから。もっと、そういう建設会社の邦画儲けるための設計ではない形のもので、素朴なものが復活するのがいいのではないかと思っているのです。居間や台所、お風呂が全部一緒である大家族主義、そして、嫁姑問題も無論ない大家族主義です。

 では、本日は、短いですが、これで。

 最初にお断りをした通り、今日は、永田町の政治に関しては何も入れないでおきます。また、別の日に、現在気にかかっていることを語りましょう。

     2013年1月11日   雨宮舜、(本名 川崎 千恵子)

なお、このブログの総延べ訪問回数は、1460171です。 12時間ぐらい、百のけたの数字を抜かしていましたね。ごめんなさい。そして、今、推敲も終わりましたので、タイトル横に△印を入れておきます。さらに、三時間後に二度目の推敲をいたしましたので、△を二つにしておきます。

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2 コメント

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Unknown (ダイスケ)
2013-01-14 01:23:43
ブログを見て面白かったのでコメントさせて頂きました(^ω^)
もしよかったら自分のブログも見てくださったら嬉しいです★
http://daisuke0927.blog.fc2.com/
ちなみに料理レシピのブログです!!
これからちょくちょく拝見させて頂きます★
よろしくお願いします(^ω^)
返信する
Unknown (雨宮舜)
2013-01-24 07:45:10
  コメントをいただきありがとうございました。いただいたことに気が付かず、そちらがノブログを拝見するのが遅くなりました。お許しください。
  今、徹夜明けなので、本日の午後、拝見します。
返信する

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