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「ザ・スーサイド・スクワッド」鑑賞

 ようやく「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」を観てきました。前作よりも楽しめましたが、いくつか思ったことを書いておきます。

・ハーレイの扱い
 ハーレイは人気キャラであり、この映画の“華”となる。もしハーレイがいなければ、(ビジュアル的に)地味な映画になっていただろう。けれど、そのほうがオストランダー期のコミック版に近い雰囲気になっていたのではないか。
 映画はビジネスであり、客を惹きつける“華”が必要となる。それは十分に理解できるが、これでは「ハーレイ・クイン&スーサイド・スクワッド」といったほうがいいかもしれない。

・もしハーレイがいなければ?
 ハーレイのいないバージョンを考えてみる。たとえばアマンダ・ウォラーが2つのチームを用意する。一つはリック・フラッグ率いるAチーム(本隊)。もう一つは別の誰かが率いるBチーム(二軍)。アマンダは当初Bチームを捨て駒にするつもりで、Bチームが敵と戦っている隙に、別の地点からAチームを上陸・潜入させようと考えていた。
 ところが間抜けなスタッフの手違いで、AチームとBチームの上陸地点が入れ替わり、その結果Aチームがほぼ全滅。かろうじて脱出したリックは、本来捨て駒であったはずのBチームの負け犬たちと合流し、作戦遂行に挑むことになる……。
 こうすれば、ハーレイと国王とのロマンスや救出作戦を描く必要もなくなる。上映時間も短縮できるし、製作費も減らせる。もちろん、“華”を失うことによって、興行収入も大幅減になるだろうけれど。

・怪獣との戦いを決意する場面
 スターロが街を破壊しはじめた時、生き残ったメンバー(ハーレイ、ブラッドスポート、ポルカドットマン、キング・シャーク、ラットキャッチャー2)は、本部からの指示を受けて帰投しようとする。この時、ハーレイが背を向けるのはおかしい。映画の中盤で、ハーレイは「子供を殺すのは許せない」と発言している。それなら、子供を含む市民を無差別に殺す怪獣を見て、義憤にかられるべきだろう。一番最初に怪獣との戦いを決意するのはブラッドスポートではなく、ハーレイのほうではないか。

・戦いを決意したのがポルカドットマンだったら?
 あるいはポルカドットマンでもいい。映画の序盤で、彼は自殺願望を告白している。さらに、周囲の人間が自分の母親に見えていたが、この解釈も少し納得しかねる。彼が恨んでいたのは“自分=弱者を虐待した毒親”であって、“あらゆる人”ではないだろう。
 だから、弱者=無垢な市民を一方的に蹂躙するスターロを見て、(ブラッドスポートから指摘される前に)自分を虐待した母親の姿をオーバーラップさせたとしても不思議ではない。「怪獣と戦えるチャンスなんてめったにない。やっと自分の死に場所を見つけたよ」と言い残して、スターロに立ち向かっていたら、彼は男を上げただろう。

・クライマックスの台詞
 終盤、ラットキャッチャー2が父親の台詞を思い出す。原文は「If Rats Have Purpose, So Do We All.」である。僕の記憶が確かなら、字幕では「でも生きてる」だったと思う(吹き替えではどうなっているのか不明)。字幕は「1秒4文字」というかなり厳しい原則があるので、この表現になったのだろう。
 もう少し詳しくニュアンスを説明すると、「薄汚いドブネズミにも目的がある。それと同じように、人間にも目的がある。この世界に存在するあらゆる生き物に目的があり、価値がある」ということだろう。これはもちろん、「スーサイド・スクワッドのような底辺の連中だって、生きている価値があり、世界を救うこともある」ということであり、この映画のテーマとも深く関わるメッセージなので、この台詞はしっかりと理解しておきたい。

・ラットキャッチャー2
 ラットキャッチャー2はかわいい。多分そのうち『ロビン』誌か『ティーン・タイタンズ・アカデミー』誌でコミック・デビューするんじゃないかな。ラットキャッチャー2はかわいいって、もう言ったっけ?
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「ジョーカー」 タイムループ説

 一つのファン・セオリーを思いついたので紹介する。
 両親を殺された後、ブルースは過去の世界に戻ってしまう。名前も記憶も失ったブルースは孤児院に入れられる。ブルースはペニー・フレックに引き取られ、アーサーと名付けられ、虐待される。そして成人後にジョーカーと化す……。
 「もしかして…ボクたち…同一人物?」的なオチ。アーサーとブルースが同一人物だとすれば、トーマス・ウェインが自分の父親だというアーサーの主張も、妄想ではなく事実だということになる。
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