今日は最良の一日

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妙林尼

2009-02-06 05:48:14 | 歴史
先日の「日本史サスペンス劇場」の次週予告に、妙林尼が紹介されていました。

司馬遼太郎が「歴史と視点」という文庫の中に、「豊後の尼御前」というタイトルで、妙林尼の事跡を紹介していたのを思い出し、昨日読み返していました。

時は戦国時代、日本広しと言えども、女が戦の指揮を執り、勝った事例は、この妙林尼以外にはないと思います。

舞台は豊後の国(今の大分県)鶴崎城という海岸の小城。
もともとの城主は妙林尼の夫でしたが、戦で亡くなり、二人の男子も戦で亡くし、当時6歳の妙林尼の孫が形の上では城主でした。

豊後はキリシタン大名で名高い大友宗麟が治めていましたが、薩摩の島津氏が領地拡大を図っているころで、大友氏の家臣たちも、島津氏に寝返るものが多かった頃です。

そんな中、島津の軍勢は鶴崎城に迫りました。
時の勢いからすれば、大友氏に義理を立てることもありません。また、大友宗麟は人格的に欠陥があり、とても命がけで臣従するほどの国主でもありません。
島津に降参すれば、自分も孫も家臣たちも生きながらえることは出来るはずです。
ところが、妙林尼は篭城して戦うのです。
妙林尼は自ら指揮して城の補強工事を行います。
また、城近くに落とし穴を作ったり、鉄菱を撒いたりして寄せ手を苦しめています。
実に島津兵は16回も攻めては敗退を繰り返していました。

でも、勝ったところで何も得るものがない戦。
奮戦1月、家臣に内応者が出て、その家臣に説得されて、妙林尼は開城しました。
女ながらに奮戦した妙林尼に対して、島津側の野村備中守らはすっかり彼女のファンになってしまい、場外に彼女たちが住む居館まで用意しました。
そして、開城に際して、妙林尼は島津の侍たちに酒食の接待をします。
長い戦で心身ともに疲れていた双方の侍たちは、機嫌よく酔っていきました。

その後2月。
妙林尼と野村備中守らの交歓は続いていましたが、秀吉が九州征伐の軍を発信させたの報を聞き、島津兵たちは本国へ帰ることになりました。
野村備中守は妙林尼に「一緒に薩摩へ来て欲しい」と、誘います。
妙林尼は「すでに島津に降参した身、薩摩へ連れて行って欲しい、しかし、支度があるから、後で追いかけます」と、返答します。
そこで別れの宴となりました。
妙林尼は侍女たちに舞を舞わせたりして、島津兵たちをどんどん酔わせていきました。

その島津兵の帰り道、待ち伏せしていた妙林尼側の手勢によって、島津兵はことごとく討ち取られてしまうのでした。
結果、妙林尼は勝ったのでした。

でも、なぜ彼女は戦ったのか?
彼女の次男は島津兵に殺されています。
次男の敵をとるためだったのか?

妙林尼の史料は、この鶴崎城の戦いに関することしかなく、その後の消息も不明なので、今となっては彼女の目的が分からないのでありました。


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