雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか。。」と見つけてもらえたら、、そんな思いで書き記してます。

村上春樹備忘録

2016-10-18 20:05:11 | 凄い
ノーベル文学賞が「ボブ・ディラン=Bob Dylan」さんということで。


「ノーベル賞も変わりまちたのねぇぇ!?」


って。ね。ま、文学賞に関しては少々の改革!?なんて?
ことでもあったのでしょうか。どなのでしょうか。
以前からディランさんは候補者の一人であったようですが、少なくとも今回、
様々な場所で様々な物議を巻き起こす力はいつにも増して大きかったように思います。
おかげさまでここ一週間ほど、どのメディアを見聞きしていても大好きな
風に吹かれて=Blowin' in the Wind
が沢山流れてきたりして(^^)彼のファンとしてはとても嬉しくはありましたが。
でも、もう少し他の曲も聴きたかったりもして。なんか。気の利いた感じで。ええ。
「ライク・ア・ローリング・ストーン=Like a Rolling Stone」
あたりもバシッ!と流して欲しかったのですけど。ええ。ええ。ファンとしてわ。

そんなこんなで日本では毎年無理やり!?注目させられてしまう村上春樹さんに関しては、
楽しみはまた未来へと持ち越された......となったようで。
そもそも春樹さんに関しては、今回のディランさんもそうですけど、
過去の文学賞の面々を見れば、まだまだゆったりと先を見ていくのが
正しい感じではないのかなぁ......なんて、個人的には思ったりもします。

そして、村上春樹さんがココまでノーベル賞の候補と目されるようになった一因としては、
その作品力に加えて、各国のアワードで話して来た素晴らしいスピーチの影響なども
けっこう強くあるような気もしています。
特に「エルサレム賞」や、スペイン、バルセロナでの
「カタルーニャ国際賞」のスピーチ辺りに対する世界中の反応というのは、
ノーベル賞候補の声を格段に大きくしていったようにも思えます。

ポイントは、この二つのスピーチに関しては全てが英語だったので、
海外のメディアに比べ日本のマスメディアではその全容はほとんど伝えられていなかった......
ということでしょうか。
この辺で話された春樹さんのスピーチというのは今見てもちょっと、
彼の深みを感じさせてくれるものがあり、また、
時に彼の作品を読む際の良き羅針盤になったりなんかもします。
僕にとってはとても興味深いものです。

今回はそんな、日本ではあまり伝えられていなかった春樹さんのスピーチ文をチロリとだけ
ココに記しておこうと思います。
彼の完全(完璧とは違うように思います)な文章は、
一文字でも省略すると全体の意味もチカラもかなり損ねてしまうのですが.......
そこは、このブログは個人的な「備忘録=忘備録」だったりもしますので、もし、何か?
ソソられた方は、ネット検索などしていただいて。
完全和訳サイトなどもありますので。何卒で。
春樹さんに興味ない人には......申し訳なし(T 。T)ぶぇ。



<2009年、エルサレム賞、受賞スピーチ>

私は今日、作家として、言わばプロの嘘の紡ぎ手として、イスラエルまでやってきました。

———中略———

しかし、本日、私は嘘を言うつもりはありません。
できるだけ正直になろうと思います。
私が嘘紡ぎにいそしまない日は年に数日しかないのですが、
今日はたまたまその一日だったということです。

———中略———

というわけで、率直に言います。
たいそうな数の人々からエルサレム賞を受け取る為に
ココに来るべきではないと忠告されました。
中には、私がここに来たら私の本の不買運動を展開するとまで警告した人々もいました。
理由はもちろん、ガザで起こっている激しい戦闘です。
国連のレポートのよれば、1000人以上の人が封鎖されたガザ市で命を落としています。
その多くは非武装の市民......老人や子供たちです。

———中略———

が、ここで、一つ非常に個人的なメッセージを述べさせて下さい。
それは、私がフィクションを書くときに常に心がけていることです。
紙に書いて壁に貼っておくという程度ではなく、私の魂の壁に刻み付けてあるものなのです。
それは、こういうことです。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。
何が正しくて何が間違っているのか、
それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、
恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。
しかし、いかなる理由であれ、
壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。

このメタファーの意味は何か?時には非常にシンプルで明瞭です。
爆撃機や戦車やロケット、白リン弾が高くて硬い壁です。
それらに蹂躙され、焼かれ、撃たれる非武装の市民が卵です。
これがこのメタファーの一つの意味です。

しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。
こう考えてみてください。多かれ少なかれ、我々はみな卵なのです。
唯一無二でかけがいのない魂を壊れやすい殻の中に宿した卵なのです。
それが私の本質であり、皆さんの本質なのです。
そして、大なり小なり、我々はみな、誰もが高くて硬い壁に立ち向かっています。
その高い壁の名は、システムです。
本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、
我々に他人の命を奪わせるのです......冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由は一つしかありません。
それは、個々の魂の尊厳を浮き彫りにし、光を当てるためなのです。
物語の目的は警鐘を鳴らすことです。
システムが我々の魂をそのくもの糸の中に絡めとり、貶めるのを防ぐために、
システムに常に目を光らせているように。
私は、物語を通じて人々の魂がかけがえのないものであることを示し続けることが
作家の義務であることを信じて疑いません。
生と死の物語、愛の物語、人々が涙し、恐怖に震え、腹を抱えて笑う物語を通じて。
これこそが、我々が日々、大真面目にフィクションをでっち上げている理由なのです。

———後略———



<2011年、カタルーニャ国際賞、受賞スピーチ>

———前略———

僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、
女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。
それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。
この長い歴史と高い文化を持つ美しい街にもう一度戻ってくることができて、
とても幸福に思います。

でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、
もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。
地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。
場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。
39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。
海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、
そのうちの九千人近くが行方不明のままです。
堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。
おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。
そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。
生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、
生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。
生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

日本人であるということは、
どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。

———中略———

日本語には「無常」という言葉があります。
いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。

———中略———

「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。
人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。
しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。
それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、
熱心にそれらを観賞します。
桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、
ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

———中略———

そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。
しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、
ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、
被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。
あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、
普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。
無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。
それについて、僕はあまり心配してはいません。
我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。
いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。
壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

———中略———

ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、
簡単には修復できないものごとについてです。
それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。
いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
機械が用意され、人手が集まり、
資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

———中略———

何故そんなことになったのか?
戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は
いったいどこに消えてしまったのでしょう?
我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、
歪められてしまったのでしょう?

理由は簡単です。「効率」です。

原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。
つまり利益が上がるシステムであるわけです。
また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、
原子力発電を国策として推し進めるようになりました。
電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、
原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、
日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。
国民がよく知らないうちに、
地震の多い狭い島国の日本が世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

———中略———

原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、
実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。
それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

———中略———

最初にも述べましたように、我々は「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きています。
生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。
大きな自然の力の前では、人は無力です。
そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。
しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、
そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、
それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、
そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、
このような立派な賞をいただけたことを誇りに思います。
我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。
依って立つ文化も異なっています。
しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、
同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。
だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、
人々の手に取られることにもなるのです。
僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。
夢を見ることは小説家の仕事です。
しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。
その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、
ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、
豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。
我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

———中略———

最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、
義援金として寄付させていただきたいと思います。
そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、
ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。
そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも深い哀悼の意を表したいと思います。



つい最近、春樹さんの最新短編集「女のいない男たち」が出ていましたが、
その前、「2013年」に出された長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、
上記したスピーチを見た上で読むと、その一風変わったタイトルの意も含め、
また違った部分が浮かび上がってくるような作品でした。

カタルーニャ国際賞(バルセロナ)でのスピーチの数ヶ月後。
とある外国人記者さんのインタビューには、原子力発電所の事故に関して、
春樹さんが珍しく強い口調で語っていた......という言葉が明瞭に記されていました。



「今回ばかりは、日本人は心の底から憤っていい」



ボブ・ディランさんもそうですが、好きな人や作品というのは、
何かの賞をいただいていようが、いまいが、批判を受けようが、賞賛されようが、
自分にとって特別なモノであることには変わりがありません(^^)
ジャンル:
ウェブログ
コメント (8)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« あの時の気持ち | トップ | 開けた途端! »
最近の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
日本人の魂 (青鈴猫)
2016-10-19 01:42:03
こんばんわ。
システムはそこに人の心(魂)を通わせていなければならないのを仕事で常々感じております。
今日の記事を読んで、かつブロさんで紹介のあった福山雅治さんのクスノキの歌を何故か思い浮かべました。
心に沁みるスピーチ
Unknown (青葉)
2016-10-19 01:48:28
私も当時、村上さんのスピーチを聞いて、大変感銘を受けたものです。世の中の本質を的確にとらえたスピーチだと思いました。彼の小説を好きでない人も、このスピーチは完璧で、だれもが尊敬するだろうと。でも、批判的な反応を示す人もいて、世の中のすべての人とわかりあうことは難しいのかな〜と思ったものです。
これからの世の中、大切にするものの順番を変えて、卵にやさしいシステムに変わっていくといいですね。
 
追伸:この前の『マグリット』の文章は、村上春樹の短編かと思いましたよ。素敵ですね〜。お気に入りで何度も読み返しました 
青鈴猫さんへ。 (amenouzmet)
2016-10-19 01:56:48
こんばんわ(^^)沁みますのねぇ。。
青葉さんへ。 (amenouzmet)
2016-10-19 02:02:36
マグリット!?そーっすかぁ。。
ノリで小説風に書いてしまいまちたのです......が、やっぱり春樹さんの影響も受けてたりするのでしょうか(^^)また書いちゃおっかなぁぁ......なんつって。
ぜひぜひ。 (青葉)
2016-10-19 02:18:07
また、書いてくださいませ。
面白いタッチもすきですが、
ああいうキザ(≧∇≦)なのも好きです!
青葉さんへ。 (amenouzmet)
2016-10-19 02:25:54
き、キザ!?!?
ガーーーーン...Σ( ̄ロ ̄lll)クニトコさんみたい......
 (星のカガセオ)
2016-10-19 11:01:23
意識はひとつで
壁は無さそうなので
壁は自意識の思い込みだと思います。

この世界は
違う波動を持つ存在が
ひとつの時を過ごせる
贅沢な場だと思います。

日本は世界の「あわい」
学び多き場だと思います。
星のカガセオさんへ。 (amenouzmet)
2016-10-19 11:10:43
そーですね(^_^)

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

この記事を見た人はこんな記事も見ています

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL