神楽坂を歩いていると、たくさんの実がぶらさがっている柿の木が目に入った。
青い空に、熟しきった実。
まだ渋が抜けていないのか、鳥に食べられた様子はない。
実家の裏庭の富有柿は、正月の時点でもう数個しか残っていなかった。
ヒヨドリなどがついばみに来ていたけど、残った柿は青空を背に存在感を示していた。
そんなことを思い出しながら、何か句が作れないかなと考えていると、
下記のような句が浮かんだ。
柿食われ色なき空の重さかな
柿買えば金が減るなり放浪児
どちらも説明っぽくて間が抜けてるけど、そういえば、正岡子規の
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
という句の主語は何だろうと気になった。
文字だけ読むと、「自分が食べた」とは書いていない。
一般的には、柿を食べながら法隆寺の鐘が鳴る様子を見ている情景が目に浮かぶのかもしれない。
だけど、ヒヨドリなどを主語としても成り立つのではないだろうか。
ヒヨドリがついばむ柿。
お坊さんが打つ鐘。
そういったものが並列している構造。
鐘を打つかのようなヒヨドリ。柿をついばむかのようなお坊さん。
柿をつつくタイミングで鳴る鐘。鐘が鳴るタイミングで減っていく柿。
やわらかい柿と、硬い鐘。明るい色の柿と、暗い色の鐘。
小さな柿と、大きな鐘。小さなヒヨドリと、メジャーな寺のお坊さん。
お寺は、悠久とか無常とか仏教思想の象徴だろうか。
佇んだ風景の中に存在する、そのようなバランスを子規は切り取って示した
とも読める。
「柿を食べたら鐘が鳴ったよ、有名な法隆寺って雰囲気あるー」、という解釈では
構造的にすぐれた句だとは思えない。
対比、類似、広がりなどの構造やバランスに欠しい。
もし、この句の主語が「自分」だったとしても、
自分が柿に食らいつく姿と、お坊さんが鐘をつく姿に、
類似点と、並行するようなバランスを見出すことができるのではないだろうか。
情緒や雰囲気による鑑賞は、共通の価値観や感覚を持つ人の間でしか理解し合えない。
だが、構造のバランスを認識する鑑賞方法は、文化や価値観の異なった人たちでも共有が可能だ。
俳句作品の生まれた背景や形式的な要素を取り上げ、
特定の環境に育った者にしか理解できない情緒などを読み取ることは、
俳句作品そのものの構造を理解しているとは言いがたい。
味があるとか趣があるとか、季語が効いているとか印象的だなどと言う俳句評者や結社主宰者は、
俳句を構成する要素のバランスを説明できていない。
すぐれた陶芸・ガラス作品も、いけばなも、音楽作品も、お酒も、ケーキも、
そのすばらしさを評価するためには、構成要素(色、素材、音、味、感触など)による
バランスを表現することが必要になる。
俳句が文学作品あるいは芸術作品として価値を持つのであれば、
どのような方向性や特性をもつ構成要素があるのか、
それらによるどのような構造がどのような効果をもたらしているのか、
そのバランスを指し示す必要がある。
いい例を思いつかないが、例えば、松尾芭蕉の有名な句がある。
すでに誰かが指摘していることかもしれないけど、
次の2句には、共通する構造が見出せる。
静かさや岩に染み入る蝉の声
古池や蛙飛び込む水の音
前者は、強烈な音のむこうに無音状態の空間を見出している。
後者は、微かな音のむこうに強烈な無音状態の空間を見出している。
どちらの句にも、「状態」「物」「方向性」「音」が並んでいる。
「ある性質を持った空間」には「あるもの」があり、
あるものに向かう、あるいはあるものが向かうといった「方向性」は
ある性質を持った空間に対して「対極的な性質」をつないでいる。
そこに生じるバランスは、「ある性質を持った空間」の広がりを強調する効果を生んでいる。
輪郭や周辺を強調することによって、別のところを劇的に浮き上がらせる手法は
俳句作品や水墨画、日本画などでよく見られる。
荒海や佐渡によこたふ天河
上記の有名な句にも、似た構成が見出せる。
あるものに対照的なものを絡めることによって
あるものの情景(色・音・空間)を強調している。
「荒々しい海」には「佐渡島」が存在し、
その島に寄り添う「方向性」を示す天の川は、
荒々しい海に対して、「対極的な静かさ」を示している。
そのことによって、「荒々しさ」の広がる空間が強調されている。
そのように句の構造を把握しようとする姿勢が、
形式的な俳句を乗り越える力となるのではないだろうか。
地名の持つイメージとか先入観による共感とか
表面的な印象からの連想による鑑賞ではなく、
どこの国の人が見ても理解できるような、句の持つ構造を把握したい。
最小限の文字によって構造バランスを示す文学、として俳句を定義し、
575や季語などを活用しながらも、形式より構造を重視するという姿勢があれば、
「俳句は詩だ。詩は芸術だ」
「俳句は翻訳できる。世界に発信しよう」
「異なった価値観や先入観を持つ人にも判断できる作品を作ってみよう」
「写真家の藤原新也の記す句だってすごい俳句じゃないか」
そういった意識も高まるのではないだろうか。
青い空に、熟しきった実。
まだ渋が抜けていないのか、鳥に食べられた様子はない。
実家の裏庭の富有柿は、正月の時点でもう数個しか残っていなかった。
ヒヨドリなどがついばみに来ていたけど、残った柿は青空を背に存在感を示していた。
そんなことを思い出しながら、何か句が作れないかなと考えていると、
下記のような句が浮かんだ。
柿食われ色なき空の重さかな
柿買えば金が減るなり放浪児
どちらも説明っぽくて間が抜けてるけど、そういえば、正岡子規の
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
という句の主語は何だろうと気になった。
文字だけ読むと、「自分が食べた」とは書いていない。
一般的には、柿を食べながら法隆寺の鐘が鳴る様子を見ている情景が目に浮かぶのかもしれない。
だけど、ヒヨドリなどを主語としても成り立つのではないだろうか。
ヒヨドリがついばむ柿。
お坊さんが打つ鐘。
そういったものが並列している構造。
鐘を打つかのようなヒヨドリ。柿をついばむかのようなお坊さん。
柿をつつくタイミングで鳴る鐘。鐘が鳴るタイミングで減っていく柿。
やわらかい柿と、硬い鐘。明るい色の柿と、暗い色の鐘。
小さな柿と、大きな鐘。小さなヒヨドリと、メジャーな寺のお坊さん。
お寺は、悠久とか無常とか仏教思想の象徴だろうか。
佇んだ風景の中に存在する、そのようなバランスを子規は切り取って示した
とも読める。
「柿を食べたら鐘が鳴ったよ、有名な法隆寺って雰囲気あるー」、という解釈では
構造的にすぐれた句だとは思えない。
対比、類似、広がりなどの構造やバランスに欠しい。
もし、この句の主語が「自分」だったとしても、
自分が柿に食らいつく姿と、お坊さんが鐘をつく姿に、
類似点と、並行するようなバランスを見出すことができるのではないだろうか。
情緒や雰囲気による鑑賞は、共通の価値観や感覚を持つ人の間でしか理解し合えない。
だが、構造のバランスを認識する鑑賞方法は、文化や価値観の異なった人たちでも共有が可能だ。
俳句作品の生まれた背景や形式的な要素を取り上げ、
特定の環境に育った者にしか理解できない情緒などを読み取ることは、
俳句作品そのものの構造を理解しているとは言いがたい。
味があるとか趣があるとか、季語が効いているとか印象的だなどと言う俳句評者や結社主宰者は、
俳句を構成する要素のバランスを説明できていない。
すぐれた陶芸・ガラス作品も、いけばなも、音楽作品も、お酒も、ケーキも、
そのすばらしさを評価するためには、構成要素(色、素材、音、味、感触など)による
バランスを表現することが必要になる。
俳句が文学作品あるいは芸術作品として価値を持つのであれば、
どのような方向性や特性をもつ構成要素があるのか、
それらによるどのような構造がどのような効果をもたらしているのか、
そのバランスを指し示す必要がある。
いい例を思いつかないが、例えば、松尾芭蕉の有名な句がある。
すでに誰かが指摘していることかもしれないけど、
次の2句には、共通する構造が見出せる。
静かさや岩に染み入る蝉の声
古池や蛙飛び込む水の音
前者は、強烈な音のむこうに無音状態の空間を見出している。
後者は、微かな音のむこうに強烈な無音状態の空間を見出している。
どちらの句にも、「状態」「物」「方向性」「音」が並んでいる。
「ある性質を持った空間」には「あるもの」があり、
あるものに向かう、あるいはあるものが向かうといった「方向性」は
ある性質を持った空間に対して「対極的な性質」をつないでいる。
そこに生じるバランスは、「ある性質を持った空間」の広がりを強調する効果を生んでいる。
輪郭や周辺を強調することによって、別のところを劇的に浮き上がらせる手法は
俳句作品や水墨画、日本画などでよく見られる。
荒海や佐渡によこたふ天河
上記の有名な句にも、似た構成が見出せる。
あるものに対照的なものを絡めることによって
あるものの情景(色・音・空間)を強調している。
「荒々しい海」には「佐渡島」が存在し、
その島に寄り添う「方向性」を示す天の川は、
荒々しい海に対して、「対極的な静かさ」を示している。
そのことによって、「荒々しさ」の広がる空間が強調されている。
そのように句の構造を把握しようとする姿勢が、
形式的な俳句を乗り越える力となるのではないだろうか。
地名の持つイメージとか先入観による共感とか
表面的な印象からの連想による鑑賞ではなく、
どこの国の人が見ても理解できるような、句の持つ構造を把握したい。
最小限の文字によって構造バランスを示す文学、として俳句を定義し、
575や季語などを活用しながらも、形式より構造を重視するという姿勢があれば、
「俳句は詩だ。詩は芸術だ」
「俳句は翻訳できる。世界に発信しよう」
「異なった価値観や先入観を持つ人にも判断できる作品を作ってみよう」
「写真家の藤原新也の記す句だってすごい俳句じゃないか」
そういった意識も高まるのではないだろうか。








