波打ち際の考察

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波屋山人

「絶対的に否定されるべき」と認識されている相対的なもの

2013-01-12 22:17:09 | Weblog
石川明人という若手研究者による『戦争は人間的な営みである (戦争文化試論)』という本が一部で話題になっている。

戦後日本社会において、戦争は否定されるべき絶対悪として研究されることが多かった。
戦争に関することを全否定することは正しい、という風潮があった。

ただ、戦争反対を訴える人たちのなかで、戦争という事象の仕組みを解明することに熱心な人は少なかった。
戦争という概念であらわされる事象や、それに関係が深い事象を客観的に分析し、その構造を冷静に把握しようとする科学的な研究姿勢は、反戦主義者にとっても脅威になるものではない。

戦争とは何なのか、なぜ起こるのか、どういった位置づけのものなのか、などといったことを観察し、論理的に考える。
仕組みを追究する姿勢は、戦争を犯罪視して嫌うことよりも、戦争を遠ざけることができるのではないだろうか。


私の考えでは、世の中には、絶対的に否定されるべき「悪」というものは存在しない。
犯罪であれ非常識な行為であれ、絶対的に否定されるべき「悪」と認識されているものは、仮定的で、相対的な存在にすぎない。
(基本的に、自分の生命の維持を脅かす可能性があるものは絶対的に否定される傾向があるが、自分の生命の維持を何よりも優先する、というのもひとつの価値観にすぎないかもしれない)

ゴキブリを絶対悪だと考える人もいるだろうが、それを大切な食料だと考える人もいる。
犯罪を絶対的に否定されるべきことだと考える人もいるだろうけど、犯罪を規定する法律も価値観も、時代や地域によって大きな差異がある。
殺人が絶対にだめだというのも、ある価値観に基づくひとつの枠組み。
美男美女の基準も食事マナーの基準も、多様性があって当然だ。

複数の価値観が重なり合う地域や時代に、あるものの価値を認めるか、認めないかによって「社会問題」が発生する。
体罰は問題ないと判断する人もいるし、絶対にだめだと判断する人もいる。
下請け企業の薄給を問題視する人もいるし、差別的な待遇を問題視しない人もいる。
そういった人たちが交差したとき、潜在的な構造は社会問題として表出する。

世の中には、暴力的構造や差別的構造は各所にあるけど、価値観と価値観の衝突によって「社会問題化」しないと、「暴力問題」や「差別問題」として認識されることはない。

欧米でも人種差別が問題視されず当たり前のことにすぎなかった時代はあるし、
日本でも被差別集落が問題視されず当たり前の存在として扱われていた時代は長い。
差別も暴力も、存在の当初から問題視されていたのではなく、途中から問題視する価値観が主力になった。
今後、また価値観は変わっていくかもしれない。
現在何の問題なく存在している社会構造が、突然社会問題化することもあるだろう。
「問題」を排除し、無くしてしまえば「問題」が解決するのではない。
問題化する可能性のある構造をしっかり見据えなくては、いつまでたっても目先の対応しかできない。


ある価値観にとって絶対的に否定されるべき「悪」と、別のある価値観にとって絶対的に否定されるべき「悪」は衝突することが多い。
エルサレムを手放すことはユダヤ人にとって絶対的な悪だろうし、エルサレムから追い出されることはパレスチナ人にとって絶対的な悪だろう。
相対的にすぎないものを絶対的だと認識することによって、対立や争い、戦争は生じているのかもしれない。

理系の研究者は、研究において、絶対的に否定されるべき事象や物質は存在しないと認識しているだろう。
数式にも化学式にも、絶対的に否定されるべきものという記号はない。
放射性物質でも甘い物質でもへんな臭いの物質でも、平等に扱われる。

だけど、文系の研究者は、「絶対的に否定されるべき悪は存在しない」といった前提に踏み切ることができないまま、「絶対的な悪」を信じ、学問研究というよりも政治活動や宗教活動に近いような行動を行う人も少なくない。


私は、『差別文化論』『いじめ文化論』という本を想像する。
そこでは、差別やいじめは絶対的に否定されるものだという前提から論考をはじめたりはしない。

存在してはいけないものを追い出す、という姿勢ではなく、なぜ差別やいじめは発生するのか、どういった構造の組織であれば発生しにくいのか、どのような意識に達すれば差別やいじめを起さないのか、などといったことを考える。

差別やいじめといった否定されるべき悪を排除する、という姿勢は、差別者やいじめっ子の姿勢に通じるものがある。
そのレベルを超えた意識でなければ、差別やいじめのない社会は達成できないのではないだろうか。

同じように、暴力や戦争を排除しようとする人たちも、悪気はないのだろうけど、暴力や戦争を起こす人たちと同じレベルの意識になっていないだろうか。
反戦を唱える人たちの中に、暴力的な人がいることも珍しくない。

むずかしい概念でごまかさず平易な言葉を使い、人をあおりたてることなく地道に仕組みを解説し、多くの人が考えたこともないような斬新な視点を示してくれる石川明人さんの活動は、多くの人から支持されるのではないかと思う。

コメント
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