物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG

自分の生涯を追体験的に語ることによって
環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか読者にお伝えしたい。

関東大震災/中国人虐殺 なぜ?/王希天暗殺

2017-06-30 | 歴史認識

仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺  中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』は1993年に出版された。それは1965年ごろに始まる先行研究を集大成した観がある。
付録 巻末に王兆澄調査、中国公使館調査、中国外交部調査、温州同郷会調査、仁木追加分による犠牲者700弱の氏名、出身地、被害日、現場、凶器、犯人属性、報告者名を記入した名簿が掲載されている。失われた金銭の記載も見られる。シベリアの兵士がそうであったように民間人までが「戦利品」を私物化している事実に高揚した参戦気分が感じられる。
わたしはその間自分のためにロシア革命を研究して自分の進むべき道を求めつつ少年サッカーの指導にほぼ没頭していた。その頃は中国人虐殺があったことすら知らなかった。それだけに同期間の仁木の日中両国を跨にかけた活躍と成果には畏敬の念を抱いてしまう。
仁木は大島に居を移して調査をした。犠牲者の9割以上を出した温州に3度旅行し日中共同研究を実現した。海抜1000mほどの高地に点在する電気の無い山奥の貧しい村々24カ所を訪ねて高齢の生存者と遺族80余人から聞き取りをした。会った家族はその何倍かになる。
「何故?」の解明のため仁木の本から関係証言だけを抜粋する。
174名集団で只一人の生き残り黄子蓮(連ではなく何の因縁か蓮池の蓮だった)の「娘」黄碎乃(1990年 79歳)
の話・・・
彼女は、実は子蓮の兄志森の娘である。幼くして母を亡くし継母に育てられた。まず志森が先に渡日し送ってきたお金で弟子蓮が渡日した。兄は殺されて帰らなかったが「黄子蓮は人に送られて同郷会[温州同郷会]からもらった慰問袋ひとつ持って帰ってきた。耳をたち切られ、頭にも大きな傷があって、傷口は化膿していた」 
わたしの素人判断では多分敗血症である。働けず医者にもみせられず全身がはれて吐血して2,3年後に死んだ。帰ってきたときは、遠方からも身内の消息を求める同郷人がおおぜい弁当持参で訪ねて来た。
仁木は二日がかりでようやく兄の娘が弟の「娘」でもあることの理由(秘密ではない)を知った。中国人単純労働者入国禁止の日本に、特産の石彫と番傘の行商人として、入管に示す見せ金70円を借金してまで渡日する温州農民の貧しさの深淵を、この一事で私は納得できた。
わたしの父は長男でありながら13歳で貧しさ故に伯父一家に加わってブラジルに移民した。黄兄弟の貧しさに比べたら物の数ではない。黄兄弟は妻を共有した時期があったのだ。
志森の娘も子蓮の遺児(震災当時零歳)も写真がある。血縁では従姉弟同士の二人は、ともに純朴で可愛い顔である。忘れ形見順斌(66歳)は坂下の川べりまで「ごはんを食べて行ってよ」と著者を見送った。
 
生存者たちの証言・・・
それぞれ氏名、1990年時の年齢と顔写真、村名が可視化されている。仁木のヒューマニズムは奥が深い。
・[陳崇帆 94
歳] 地震のとき、[大島]八丁目にいたが南千住へ逃げて数日たって帰ってみたら八丁目の人はみな殺されていた。
中国人の人夫頭はピンハネしなかった。[多くが同郷人で集団で生活していた]
・[林瑞昌 90歳] 南千住に住んで浅草で砂利かつぎをしていた。
私は地震の時、日本人の親方の家に逃げて助けられた。
・[林賢巧 89歳] 日本の警察は当時、毎晩二回調べ[特定犯罪集団に指定され監視されている]に来た。地震後半月して日本人の親方はわれわれを連れて道路工事に出かけた。日本人は親方が我々を連れて強盗に行くのかと思ってかれを斬り殺した。朝六時だった。我々は九人じゅずつなぎにされて横浜の警察へ連れて行かれた。親方のおくさんは23歳だったよ。
・[陳国法 88歳] 地震の時は宿舎[南千住の同徳昌客桟]にいた。大島八丁目のことは聞いているよ。同郷の者六人も殺されたよ。
王希天はね、ころがっている死体をいちいち中国人かどうか調べて歩いたよ、だから自分が殺されてしまったのだと聞いているよ。
・[林献忠 92歳] [
9月1日大島の友達の宿舎で地震に遭った]その晩警察と土方の親分が来て、明日は東京は大水が出るから千葉へ行けという。[深川寄りしか焼けなかった大島町には本所、深川(富川31番地に100余の木賃宿と東京最大の寄せ場があった)からの避難者が溢れていた。日本人が野宿しているのにシナ人が屋根の下に居るのはナマイキダ、出て行けという差別の表れと思われる] [大島のシナ宿は数日後すべて避難民に入れ替わった]
[2日三河島の自分の宿舎に帰って]二分もたたないうちに、駅の方で悲鳴が聞こえて多くの中国人が殺されはじめた。しばらくして警察と土方の親分が王公和宿舎に来て、われわれに出て行けという。宿舎の女主人は、この人たちはおとなしい法律をまもる人だから、私が保証するから連れて行かないでと頼んでくれた。その結果、警察とボスはわれわれの人数を数え、二七人、宿舎の外へ一歩も出るな、一人ふえても、一人へってもいけないといった。[1918年夏以降の監視指揮系統 総元締め=内務省警保局長 警視庁官房主任⇒特高課・外事課⇒特高警察・外事警察⇒中国人監視]
中国人の工賃がひくくて、日本人はおまんまの食い上げになるといっていたよ。王希天を殺したのは日本政府の責任だよ。
・[葉錫善 91歳] [青森での雨傘行商から帰ると地震で自分が経営していた客桟は空になっていた。在庫の傘400本もなくなっていた] 商売の外に労働をして蓄えた金で、この宿舎を開いたよ。王希天はよくこの宿舎へ来て、労働者を集めて話した。バクチをしてはいけない。衛生に注意しなさいなど。警察がくると労働者は不安になるが、王希天がくると安心する。
・[朱木坤 92歳] 九月一日は横浜で。川崎の橋の上には多くの死体が横たわり河面にも死体が浮いていた。
日本人は外で人さえ見れば殺した。家の中もくまなく探し、床下にかくれている者もひきずり出して殺した。私は日本人の親方の家に住んでいた。かれはわれわれに外へ出るなといって、人を見張りに立たせた。
王希天は知っているよ、集会に出たこともあるよ。かれはカンフーができたよ。かれはみんなのためにつくして死んだ。日本人はかれをボスだと認めているから、政府はおおっぴらに殺すことができず、暗殺したのだと思うよ。
・[朱友典 89歳] [
日本語ができたので共済会を手伝った] 共済会の事務所は大島三丁目の木造家屋の二階にあった。一階は医務室や日本語学校の教室。[会員に対する日本人鈴木某の傷害事件を裁判で解決した事例の証言があるが省く]
地震の時、私は目黒にいた。目黒では100人余りの中国人労働者が仕事をしていたがだれも殺されなかった。土地の人は華工に対して比較的よかった。
八丁目の人たちは石炭かつぎをしていた。かれらは日本人の「人夫頭」とトラブルがあった。中国人労働者は賃金がひくいので、すぐ工場の鉄門内に入って仕事をはじめる。[これを目の当たりにした日本人「人夫」の胸の内が推察できる][経営者にとっても集団でまとまっている華工のほうがばらばらの寄せ場人夫よりも使いやすかったと思われる]
日本人は仕事ができなかった。中国人労働者を殺したのはそれらの日本人だというよ。

華工たちがなぜ、誰に、計画的に虐殺されたのか、瞼に浮かぶような様子が、加害者の胸中にも分け入って、明らかにできたと思う。

私は日本人の間に対中蔑視観があったことはもちろん知っている。ただそれだけで「未開の土人」視していた華工(苦力とよばれていた)を虐殺できるだろうか。背景に利害の絡まりがあるはずだ。上記で明らかになった現場の利害対立だけでなく、国家間の利害対立があったはずだ。イデオロギーの対立もあって当然だ。これが今回中国人虐殺問題に深入りする動機である。
中国人虐殺に至る日中関係前史も観たくなった。
幕末の阿片戦争まで日本人にとって中国はまさに文化的にも文明的にも「中華」そのものだった。稲作も漢字も、絹も仏教も建築も、ということは国の仕組み、官僚制度も、中国から採り入れた。
幕末の学者、志士たちは、阿片戦争の結末に衝撃を受けた。英国を中心とする帝国主義に侵蝕されながら抵抗する術を知らない因循姑息な大帝国の貴族、官僚と奴隷状態の惨めな民衆の姿を観て、いっきに中国観を大転換し中国人を見下すようになった。
日清戦争で勝利したころからチャンコロという蔑称が国民の間に広まった。語源は知らないが弱兵のクセに、という感じがする。わたしも父が子守唄がわりに歌ってくれた「勇敢なる水兵」(1995年)で清兵=弱兵のイメージを刷り込まれた。5年後の義和団事件では日本は露西亜と共に帝国主義列強連合軍の主力となって鎮圧に活躍した。
ライバルとなった露西亜との間で「支那とり」が始まり、満州を戦場にして日露戦争が戦われた。やがて中国の民衆が次第に日本の国益の最前線に抵抗者として現れ出す。満州では馬賊として、都市では日貨排斥運動の担い手として。 
日中間の問題を日本が武力を背景にゴリ押しで解決しようとするたびに日本商品のボイコット運動が起こり、その度に拡大、檄化していった。

1908年 武器密輸船第二辰丸拿捕事件 最後通牒に清朝政府屈服 民族資本中心の日貨排斥 商店、荷役労働者のストライキ 広東から香港に波及(香港暴動)  
反清朝革命派と留日学生は日貨排斥に反対だった。
1909年 満州の安東-奉天鉄道改築問題[安東⇒丹東] 
東京の留学生が本国の主要新聞社に檄文を発送し「朝鮮を観よ 侵略は鉄道から始まる 満州を失うな」と警鐘を鳴らして日貨排斥を呼び掛けた。
留学生の先駆的活動によって日貨排斥運動が南から北まで全国化し、とくに奉天で激しかった。運動の担い手も学生、商人、官吏、軍人、農民、労働者と厚くなった。
満州問題を国家存亡の危機と捉える主張は反清朝革命運動に反帝国主義の油を加えた。反帝国主義の看板と日貨ボイコットの手段が国民の支持を得ること、反清朝革命の道筋を照らすことを革命派は知った。
日本政府は留学生に警戒の目を向け始めた。
1912年 辛亥革命 清朝滅亡し中華民国成立 
1915年 対華21か条要求で最後通牒 ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること(第1条)他の諸要求 日貨排斥運動再燃
旅順大連租借地、満鉄・安奉鉄道租借の期限99年間延長は、中国国民のナショナリズムをさらに刺激、助長した。袁世凱政府が受諾した5月9日は国恥記念日となった。
このあと王希天18歳は東京に留学し中華YMCAにかかわることになる。
1918年 日支共同防敵軍事協定 ソヴィエトロシアを仮想敵国とする秘密防共協定(出兵直後シベリア・満州・蒙古を戦域とする協定が追加された) 日本政府が莫大な借款供与と引き換えに段祺瑞軍閥政府と結んだ日本軍の自由行動を保障する協定
一高予科の王希天「我々は国家の興亡に責任がある」 留日学生救国団結成 情宣帰郷を決議 5月6日中華料理店「維新号」で会議中40数人全員逮捕、翌日釈放 帰郷運動盛り上がり留学生3000の内2000帰国 密約撤廃の大請願運動 王希天、天津に救国団支部をつくり、上海と呼応しながら日貨ボイコット運動を展開 
この運動は五・四運動の下地(学生による組織的な愛国政治運動)をつくった、と仁木は評価した。
  出典 仁木前掲書  樸山=朴山

1919 五・四愛国運動 北京の大学生3000人、パリ講和会議の動向(日本がドイツから奪った山東省の権益を容認)に反発 天安門広場からヴェルサイユ条約の山東条項反対・対日交渉要人罷免要求の街頭デモ 段祺瑞政府による弾圧 反日・反軍閥政府の国民運動(学生、商店、労働者のスト)に発展 政府折れて学生釈放・ヴェルサイユ条約調印拒否 中国近代化の転機を画した大事件
5月7日 留日学生、五・四運動を受けて中国青年会に集まって中国公使館に向かってデモ 36名検挙 王希天ら学生救援に動く 田中陸相、私的に王希天らを招いて会談 
それ以降王希天らは警保局の要視察人リストに載り警視庁の尾行がつく。王希天の素行記録が積まれてゆき暗殺前日の亀戸署員は「排日の巨頭なれば注意」と佐々木大尉に告げている。ついで署長から素行に関する書面が佐々木に提出され旅団司令部に報告された。

中国では、五・四運動に参加した若者はそれ以前の思想革命の洗礼を受けていた。知識人による新思想運動は「デモクラシー、サイエンス」を旗印とし、儒教批判、人道主義、民衆が読むことのできる文字と文学を主張した。その活動は大正ルネサンスを想起させる。
新思想運動のリーダー陳独秀、李大釗と影響を受けた周恩来、毛沢東等五・四運動参加者は、やがてマルクス主義とロシア革命に革命ヴィジョンのモデルを見出し、中国共産党(1921年創立)の創始者または指導者に成長してゆく。また孫文は民衆運動の実効性を見てとり中華革命党を改組して中国国民党を結成した。

他方王希天は日本でキリスト者の社会事業家を目指した。震災直前にはアメリカ留学が決まり共済会長職を王兆澄に譲っている。キリスト教界の著名人はもちろん学者、実業家、社会主義者、無政府主義者、社会派新聞記者とも交流をもった。あえて交流者の共通点をあげればコスモポリタンであろうか。賀川豊彦、堺利彦、大杉栄等ブラックリスト上の有名人が多くいた。要視察人吉野作造との接点いかんについて私は知りたい。

1923年  旅順・大連回収要求運動 
日貨排斥運動が深刻化し日本の最大の輸出市場と日本権益の根幹満州を脅かして政府、世論に衝撃を与えた。それは、中国共産党の
イデオロギーを反映して,経済絶交運動と名を改め、このあと止めどもなく続くことになる。満州は経済戦争の舞台となる。
このころ日中両国の興亡に関わる交渉が軍閥抗争下の中国で進行していた。コミンテルン(実質はソ連共産党)指導の下に国民党と共産党の合作交渉である。日本が恐れていたロシア共産主義の南下が現実のものとなってきた。
以上が、中国人と王希天虐殺の背景にある日中間の国益ならびにイデオロギーに関するスケッチである。日本国内の共産主義は芽生え始めたばかりであったが、軍警を中核とする極端主義者は大震災と戒厳令を奇貨として利用して大日本帝国の禍根となりそうなイデオロギーに共産主義、無政府主義、労働組合主義、キリスト教人道主義の区別なくテロを加えた。戦時には自由主義までもがテロの対象になったことは歴史が教えるところである。 

折しも戦後不況と軍縮不況が重なって華工たちは官憲に帰国を強いられていた。日貨ボイコットに反感をいだいていた者がどれほどいたかは不明だが、荷役人夫による華工ボイコット運動が起きた。旅費工面のため猶予期間を願って王希天は共済会代表として関係官庁と掛け合った。堀田警視総監は東京に限って黙認、後藤警保局長不在、労働総同盟の鈴木文治不在、(財)協調会添田博士不在。神奈川・大阪は勅令タテに強硬回答。日華学会、日華実業協会は華工に同情。

亀戸署管内では日華労働者間に利害対立があり、王希天は華工の代表者として亀戸古森署長(元警視庁官房・高等課労働係長)と同署高等係刑事蜂須賀等数名の憎悪をかっていた。王希天の僑日共済会は平澤計七の純労働組合、川合義虎の南葛労働会同様危険視され監視されていた。3人とも同署に検束されたことがあった。亀戸署長は共済会事務員に日本人も入れろと要求していた。内務省警保局の諜報方針に沿っていることは明らかである。

9月12日の王希天暗殺は内務省警保局長、警視庁官房主任、第三旅団長、戒厳司令部参謀長の黙認の下で実行された軍警のテロであった。
9月3日の大島での中国人虐殺は亀戸警察の署長、特別高等係刑事たちと人夫手配師たちが共謀して計画し、配下の人夫と戒厳部隊の一部が実行した犯行である。大島にはまだ自警団が結成されていなかった。
仁木は手配師の親分として焼け出された人足寄せ場富川(大島町の西方現森下3丁目にあった)の大寅こと平井寅吉の名をあげている。真偽不明だが勝海舟が江戸焼尽の準備をさせた新門辰五郎の流れを名乗っていた。
仁木はまた大島シナ宿60数軒への道案内をしたのは警察とつながる地元消防組の頭たちであろうと言う。「彼らの大部分は鳶職であり、土地の名家であり、土木建築業者をかねていた」
 

 

 

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