物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG

自分の生涯を追体験的に語ることによって
環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか読者にお伝えしたい。

朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件

2017-08-09 | 体験>知識

  
大震災の二日後「不逞社」を名乗って思想誌『現社会』(『太い鮮人』名で1,2号発行、広告が集まらないので改称)を発行していた朴烈・金子文子夫妻が「保護」検束された。不逞鮮人を公然と名乗っていたが要視察朝鮮人として尾行、監視されていただけだった。不逞社は、あえて集う者の共通点でいえば「天下国家を亡くせ」と語りあうニヒリスト、アナキストの同好会といったところだろう。
司法当局が意図して調べているうちに、朴烈が爆弾入手を不逞社の金重漢に頼んでおきながら後で依頼を取り消したため相互不信から両者喧嘩別れになったことが判明した。またそれ以前に、上海フランス租界の秘密結社義烈団と通じている金翰*に爆弾を分けてもらうために両三度ソウルに渡航していることも分かった。だが1923年2月頃、上海から持ち込まれた爆弾と革命宣言文書が押収され義烈団員等が金翰をふくめて18名逮捕されたため、朴烈の爆弾入手のルートはほぼ断たれた。
*上海からの爆弾受領・保管予定の社会主義者、元総督府警務局嘱託

義烈団は3.1独立運動の非武装路線に失望した青年金元鳳によって1919年に吉林省で結成され、上海の大韓民国臨時政府内の武闘派を構成した。押収された申采浩1923年1月起草の「朝鮮革命宣言」によると、暗殺、破壊の標的は、①朝鮮総督及各官公吏 ②日本天皇及各官公吏 ③探偵奴、売国賊 ④敵の一切の施設物 である。
義烈団は大正末まで少数精鋭による爆弾攻撃*で独立運動をリードしたが民衆の覚醒、決起という期待した効果を得られず行き詰まった。そこで金元鳳は、組織的な抗日武装闘争への転換を考えて、孫文が設立した黄埔軍官学校(校長は蒋介石)に入学した。
釜山察署爆弾事件(1920年9月)・密陽警察署爆弾事件(1920年11月)・朝鮮総督府爆弾事件(1921年9月)・上海黄浦灘事件[陸軍大将田中義一暗殺未遂](1922年3月)・ソウル鍾路警察署爆弾事件及都心銃撃戦(1923年1月)・東京二重橋爆弾事件(1924年1月)・北京スパイ暗殺事件[1](1925年3月)・東洋拓殖会社及朝鮮殖産銀行ソウル支店襲撃事件(1926年12月) 出典 ヌルボ・イルボBLOG 

上掲書『わたしはわたし自身を生きる』(2013)には「何が私をこうさせたか」と題する文子の獄中手記が収められている。幼くして、別れた父母に見捨てられ親戚の間でたらいまわしされて世の辛酸をなめた末、運命の人朴烈に出会うまでの自叙伝である。

物心ついてしばらくして、父親が若い女を家に連れ込んだころから一家の暗転が始まる。地獄絵のような人間模様と家族崩壊、どこにも安らかな居場所がない文子の日常がつづられている。
文子は少女期の9歳から7年間近くを朝鮮の父方の祖母、叔母(父の妹)の形ばかりの養子にされ下女として扱われる。その際出生届のない無籍児だったので母方の祖父母金子家の五女として入籍された。かくて実父は佐伯文一、実の母は佐伯籍に入ってないので金子キク、キクと文子は戸籍上は「姉妹」となった
。何とも複雑で無情な環境で育ったものだ。朝鮮での過酷な日常も記述できないが文子が投身自殺を図ったことだけは記しておく。
養家岩下家は総督府による「土地調査事業」で朝鮮の山林田畑を得て朝鮮人を牛馬の如くこき使う地主で高利貸しも兼ねていた。居場所のない文子に「麦ご飯でよかったら」とご飯をすすめてくれた朝鮮農婦の優しさが愛に飢えた文子の心にしみた。文子はまた1919年の3.1独立運動の光景を目撃した。17歳の朴烈も3.1デモに参加して独立新聞発行、檄文散布等をしている。平たく言えば学生運動のビラまきであろう。
尋問で「朴は独立運動者ではないか」と問われて文子は応えている。「私すら権力への反逆気分が起こり、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に沸きます」 いわんや朴烈をや。
目撃体験は類似境遇の文子の魂に「異常な同情」と「反抗の根」を植え付けた。直後に16歳の時内地に帰った、いや用済みになったので岩下家から返された。
内地での細かいことは省く。父も母も娘を金づるにしようとしたことだけを付言しておく。
向学の志抑えがたく17歳の時上京し、苦学する。と言っても学校(正則英語学校と研数学館)に通ったのは数カ月間だけ。夕刊販売、女中奉公、石鹸粉の出店、印刷屋の活字拾い、主義者が寄ってくるおでん屋の女給・・・その過程で、主義者に出会い、耳学問や書籍、雑誌で社会主義、無政府主義、ナロードニキの知識を得る。新山初代と友達になり本を借りる。
短期間で古今の宗教、哲学の知識を学習した聡明さと理路整然とした論説の表現力に感服した。特にスティルナー、ニーチェの自我に発し自我に還る思想の影響を受けて自己の思想形成をしたようだ。分かったような物言いをしたが私は本当は哲学史に疎い。
また破戒僧、救世軍、自営社会主義者、有名社会主義者と出会った生活体験から仏教、キリスト教、社会主義を敬遠するようになる。また従順で卑屈な労働者・農民大衆の無知にも愛想をつかした。
難波大助同様金子文子もまた大正ルネサンスの思潮にもまれて主義者に変身した。
そしてただ一人魂と志を同化できたのが無名の無宿無定職の「同業者」朴烈だった。1922年朴烈の詩「犬コロ」(特高を指している)に共鳴した文子は自ら望んで朴烈に遭い、桜の咲くころ思想の一致を確認し合いかつ運動では女性として扱わない約束をさせて同棲した。どちらか一方が権力と妥協したときにはただちに共同生活を解消することも確認し合った。
紅葉の季節に夫婦で思想団体「黒友会」を立ちあげた。その運動誌の名は『太い鮮人』、不逞鮮人では当局の許可が下りなかったから。

1923年4月には、虚無主義に近い者が集う「不逞社」を組織した。加入者に同時検束された金重漢、新山初代(結核で獄死)、栗山一男(金子文子自伝発行推進)等がいた。
二人の
活動は、思索執筆活動中心で実践活動にはほとんど関わっていない。朴烈に信濃川支流発電所工事/朝鮮人虐殺真相調査会参加と大島製鋼争議支援、文子にメーデー参加の事実があるにはある。二人とも独立運動、革命運動には共感はするが加担しない。成功の暁に誕生する権力もふくめてすべての権力に反対だから、と述べている。

金子文子尋問調書に戻ろう。爆弾入手の頓挫についてはすでに述べた。
爆発物取締罰則違反被告事件 第1回尋問調書 
「私の思想は一口に言えば虚無主義です」 不逞社は「不逞の徒の親睦を計るために組織したのであります」「不逞の徒が寄り集まって気焔を挙げそのとばっちりを持っていくのです」「同志の中の気の合った者が自由に直接行動に出るのです」「まあ貴方方お役人を騒がせることです」
第12回尋問調書 
爆弾の使用対象と理由について問われて文子は長い陳述をおこなった。カストロが法廷で自分を弁護した演説「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を想い出しながら読んだ。
「地上における自然的存在たる人間としての価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております」
100年近く前にかくも美しい人権宣言を発した人がいたことに感動する。美しすぎる! 虚無主義の彼女に似合わない。下段の文子の脚色コメントはこの部分もカヴァーしていると推測する。 

しかるに・・・「地上は今や権力という悪魔に独占され、蹂躙されているのであります。そうして地上の平等なる人間の生活を蹂躙している悪魔の代表者は、天皇[病気中]であり皇太子であります。私がこれまでお坊ちゃんを狙っていた理由はこの考えから出発しているのであります」
続いてこの狙いの民衆に対する「宣伝」効果に言及している。長くなるのでキーワードだけ拾う。
天皇、皇太子が少数特権階級の「操り人形であり愚かな傀儡に過ぎないこと」の明示 
天皇の「神聖不可侵の権威」の否定 

天皇に神格を付与する根拠となっている三種の神器等の因襲的伝統の否定 
神国とみなされている国家と忠君愛国主義が特権階級のための機関、方便であることの明示 
儒教に基づく教育勅語等の道徳観の否定 
まとめると、これらの「外界に対する宣伝方面」は自分の「内省に稍々着色し光明を持たせたものに過ぎないのであって」「私の計画を突き詰めて考えてみれば、消極的には私一己の生の否認であり、積極的には地上における権力の倒壊が究極の目的であり、またこの計画自体の真髄でありました」

1923.10.20 『大阪朝日』号外「震災の混乱に乗じ、帝都で大官の暗殺を企てた不逞鮮人の秘密結社大検挙」 (不逞社同人16名の検挙、多分3名以外は不起訴)
同日、政府は震災時「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実であったとする司法省発表を行った。朴烈・金子(氏名はまだ未解禁)事件もその「一部事実」のインパクトのある証拠として利用されたのだった。
1924.2.15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴
爆弾入手を相談した共謀罪容疑での起訴は、朝鮮人虐殺を招いた流言を一部正当化したい司法官僚にとって格好の弁明、世論操作材料となった。
しかし審理を重ねるうちに抜き差しならぬジレンマに陥る。大逆罪が絡んでくるからである。

1925.7.17  小山松吉検事総長、朴烈と金子文子を刑法73条と爆取罰則で起訴
名うての国粋主義司法官僚は、皇太子成婚式を狙って爆弾を投ずる空想、意図を大逆罪(刑法73条)容疑で裁くメリットを感じていなかった。パン種をふくらませてパンを焼くように、共謀をでっち上げて限られた数の無政府主義者を一網打尽にできた幸徳事件の頃とは状況が違う。韓国併合により独立を志向する反逆者は膨大な数にのぼる。すべてを極刑にできるわけがない。転向を促す法律が必要だった。
司法官僚は、大逆罪適用はむしろ大逆を意図する日本人が難波大助以外にもいるという隠したい現実が明らかになるデメリットの方が大きいと考えた。だから検事は審理中たびたび考えを改める気はないかと哀願するかのように問うて文子を苛立たせた。自然科学方面に没頭しないかとまで言っている。精神鑑定に同意させようともした。
死刑を望む主義者の出現に硬直な(一審制で極刑しかない)大逆罪だけでは対応できない状況が生じていた。柔軟で伸縮自在の治安維持法は大逆罪の欠陥を補う魔法の剣として同時期に登場した。
1925.11.25 記事解禁により『東京朝日』夕刊「震災に際して計画された鮮人団の陰謀計画」  『東京日日新聞』夕刊「震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件」
1926.3.25 朴烈と金子文子に死刑判決 4月5日恩赦で無期懲役
恩赦は二人にとって侮辱以外の何ものでもなかった。文子は恩赦状を破り捨てた。7月23日文子は刑務所で自死、朴烈は敗戦によって22年後解放された。
1926.7.31 読売新聞 見出し「共同墓地に葬った文子の死体を掘り出す 実母と同志が死体引取の交渉 謎に残る、彼女の死因」 見出し「書き遺された手帳が抹殺され、引き破られて ただ一遍の遺書すらない 当局の失態は免れぬ」
私には文子の死について見出し以上のことは何もわからぬ。ただ当局が死の影におびえている感じがするだけだ。


私は朴烈の調書を読んでいない。金子文子の調書に基づいて記述した。がままならぬ食い違いはないと信じる。二人はパートナーの過誤をも包み込むほど一心異体の同志愛で結ばれていたのだから。判決を前にして朴は文子を入籍(朴の兄による二人の遺体引取りと埋葬の準備)した。
文子の結びの言葉「して朴にいおう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせてはおかないつもりです、と」(最後の公判調書に添付された裁判所への長文書簡  死刑求刑の公判で朗読)

 

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