あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

君は何を願うの?

2016-11-04 18:21:15 | 存念
年齢よりも何十歳も若く見えるロービーガンな人たち・肉食が加齢の原因?


素晴らしいな、ただ若いというだけでなく、どことなくみなセクシーな感じの人ばかりではないか。
人類はいつまでも若くセクシーでいたいならばロービーガンになるべきだな。
肉を食べながらアンチエイジングやデトックスをやり続けるよりずっと効果があることだろう。

肉食が何故老けさせるのかというと、まず肉の脂肪というのはめちゃくちゃ消化に悪く、内臓をひっきりなしに働かせ続けなければ消化できないからである。
内臓たちに無理をさせている状態が続いてそれが外に老いの症状として現れるわけだな。

それから肉は体内で腐敗し身体を酸性に傾けるのでその毒素で老ける。
毒素はそれだけでなく、家畜に与えられていた大量の抗生物質や成長ホルモン剤やその他の薬剤、飼料に与えられている遺伝子組み換え穀物などもたくさん人体は吸収し続け、それらが体内に蓄積し、老いの症状となって現れる。


皺や薄毛に悩む人は是非ロービーガンになるのが良いだろう。

ロービーガンとは完全菜食に加え、加熱しない植物を食す人たちのこと。
完全生菜食者をロービーガンと呼ぶ。



そして何故過熱食が老いを招くのか、というのは前に紹介したヒポクラテスの言葉「火食は過食に通ず」という言葉があるように、加熱することは食べ過ぎてしまうという理由が一つある。

原本・西式健康読本 (健康双書ワイド版―食と健康の古典) にはこう書かれてあった。






物を煮ると、食物の含有する蛋白質は二分の一に減ってしまい、天然に入っている塩分は四分の一になってしまう。

したがって、煮たり焼いたりしたものを食べる場合は、二分の一に減った蛋白質と四分の一に減った塩分とを補給するために、生で食べれば少量で済むものを、煮たり焼いたりして火にかけたものはその生の量の二倍だの四倍だのを食べなければならず、その上熱によって栄養素は凝縮するから、その凝縮している栄養素を吸収できるように解きほぐすために消化器官は余分の仕事を背負わされる。

また食物の量が多いとその為に出てくる有害なる副産物や残滓物質の処理のために、肝臓や腎臓や腸が余計な仕事をしなければならぬから、それだけ生体は過労を強いられ、老衰を早めることになるのである。







栄養が足りない分多く摂るということ自体が老いを招くので、これは過熱食だけに限らず農薬や化学肥料を使って作られた植物を食べていても同じことが言える。

何故なら農薬や化学肥料は植物の栄養素を破壊するので栄養価が低く、そのため必要な栄養素を摂ろうとすると無農薬植物の倍以上食べなくてはならなかったりするからである。

栄養価が高い植物は少量でも満腹する。
白米より玄米や雑穀、白い小麦粉よりも全粒粉の小麦粉のほうが少ない量で満腹するので「健康食材を買うと家計が持たない」という考えはただの思い込みになる。

不健康な食材と同じだけの量を買う必要はないし、また同じだけの量を食べる必要もないのである。

自分はここのところ「米」自体を食べていない。パスタもほんのたまにしか食べなくなった。
あんまり食べたいと思わない。
食べても茶碗に半分の量で満腹になるのがわかっているので、それなら他のお野菜などを食べたくなる。
断食をやってからというもの、本当にすぐにお腹がいっぱいになるようになった。


いきなりロービーガンにはなかなかなれないでいるが、ロービーガンを目指して無理のないように心がけて行きたいと思う。





この人たちはロービーガンなだけでなくそれ以外の健康法もしっかりとやっている人たちだと思うが、それができない人たちでもロービーガンになることはそれをしないよりも老けにくいことは確かだろう。



動物性のものを摂り続けていると老け、肥満、ハゲ、に加えあらゆる成人病が待っているかもしれないが、人類はそれでいいのだろうか。

私は何も努力して肉食をやめるべきだとは言っていない。
ただどうして人類は皆「幸福になりたい」と言いながら肉を食べ続けるのか不思議である。

何故他者を苦しめ続けて「幸福になりたい」などと願い続けているのか。
何故今苦しんでいる者たちに目を向けようとはしないのか。

自分の力で助けることができるということに何故無関心でいながら、都合の良い自分の幸福を追い求めるのか。

そうして幸福を追い求めたところで待っているのは「老いとハゲと肥満と成人病」なのである。

「肉食はすべての苦しみの元凶」であるということに私は早く人類が気づいて欲しいと思う。

家畜たちを拘束し、苦しめている間、その人間たちも拘束され、苦しめられることだろう。

奴隷のように働かされ、病気に苦しめられ死に至る。

宇宙の法則は真に正確だ。

何の狂いもなく、人々は自分で何を選択するか自由である。

家畜たちを救うと同時に自分を救い、世界を救うか、
家畜たちを苦しめると同時に自分を苦しめ、世界を滅びへ向かわせるか。
すべて自由だ。
多くの人間が後者を選択すれば地球は滅ぶだろう。

地球の未来がどうなるかは人類の今にかかっている。

私は信じている。
近いうちに人類は皆、完全菜食を選ぶだろう。
動物たちを解放し、人々は動物たちを可愛がって愛するようになるだろう。

私にはその未来がありありと見える。
何故ならそうしなくてはもう地球を存続させることができないと人々は知るときが近々来るからである。

バシャールは言う。
「今の地球は夜明け前であり、夜明け前が一番暗い」と。

もし恐れることがあるなら、何も恐れることはないような変化を自分自身に与えればいい。

人は罪を知るから罰を恐れる。
ならば自分には罪はないと言える生き方に変えればよい。

ただそれだけ、それだけなんだ。
そうすれば一人の幸福が世界中の幸福と繋がる。

罪悪感を持って何かをしているならば、それを変えれば恐れ続けなくていい。

恐れは具現化する。
この世の人類の悲劇の大半がその恐れの具現化であると私は思う。
恐れは「罪悪感」から生み出される。
それは無意識のところからも引き起こされる。

肉食をすることは全ての人類の意識と無意識の領域に罪悪感を生み出しているはずだ。

罪は罰されるべきであると人が無意識にもあるのはそれが生命の愛というものだからだと思う。
自分への愛と自分以外全てへの愛、それは必要だからある。

自分を罰すること、自分を苦しめる未来を自分が作り、その未来へ向けて生きること。
これを望まないというのなら、自分が生み出している罪の行いをやめたらいいだけだ。

肉食を断つことがとても難しいことだと思っている人たちは多い。
しかしそれはやってみないとわからない。
やってみないうちから思っているのはただの思い込みだ。

それはただの作られた観念で、事実ではない。

だからこの世のほとんどの人は夢遊病者らしい。
「作られた観念で見ている世界」に住み、「作りたい観念で見ている世界」には住んでいない人間たち。
ふわふわと流されるように自分で作り上げた見たくない観念世界に生きている人間たち。

夢から覚めないまま幸福を探して見つけても、それは実感に貧しいだろう。

だから次から次へと次の欲望が生まれる。

本当の幸福の中に生きていないから、人は様々な欲望に支配されてしまう。

それが本当に苦しくなったとき、人は気づくことができる。
「他者への奉仕に生きること、自分が苦しめている者を救うこと」が自分の本当の幸福であるのだと。

そこに気づくことができればまず生き方が変わる、心が変わり観念が変わる、意識が変わる、そして自分の周りが変化してくる。
1人の力で人は世界を変えることができる。

たった一人の力がどれほど大きな力であるか、人々は信じようとしない。
でもたった一人でも変化すれば、それが地球全体の大きな変化に繋がる。

自分はこの悲劇で溢れたこの世界に生きることがもう本当に苦しくて仕方がなかったので、やっと長年罪悪感を持ちながら続けてきた肉食をやめることができた。

それは本当にものすごく大きな変化だった。
それはいわば昏睡状態にあった自分の意識が初めて智恵の実を授かることができたような感覚であった。

今はじめて自分は生きたのだ、という感覚だった。
それまで自分は死にきっていたように感じた。

まるで自分の愛する家族を自分が苦しめて殺し食べ続けてきたような感覚で今もいる。

だから後悔はそれは凄まじいものだった。

「愛する家族を苦しめて殺し食べ続けるということ」というこの人間の最も悲しい悲劇を自分は伝えていく使命にあるように思う。

自分の中でたくさんの葛藤はある。どのような伝え方が良いのかという葛藤だ。

ただ情報が必要だ。
自分もスピリチュアルな考えを記した本の内容と場のビデオという情報源がなければ、肉食を断つことはできていなかったと思う。


自分は今でもずっと苦しみの中を生きている。
でも苦しいからこそ他者の苦しみの叫びを敏感に察知し、それを伝えていくことができると思っている。

生き方の変化というのは、目に見えるものだけではない。
目には見えない深いところで、大きな変化が起きていることがある。
私はそれほどの目に見える変化は起きていないのかもしれない。

でも確実にこの世界から耐え切れないほどの苦しみがなくなるようにと願う気持ちの強さはとても大きくなった。
真実を知ることがとても大事だった。
この世界でどのようなことが行われているか。
人々はその全てを知る権利があるし、知る必要性もあると思っている。
どこで誰が苦しめられ、どこで誰が愛されているのか。
どれほどの苦しみとどれほどの慈しみがあるのか。
知りたいと願う気持ちが大切なんだと思った。

それらに「無関心」でいることは、実は人間のとても深い苦しみにあると思う。
そして知ることを恐れているのも苦しみだ。

知るのを恐れるのは罪悪感を感じるから。
他者があれほど苦しんでいるのに何故自分は楽に生きていられるのか、という罪悪感が苦しいために、知るのを恐れ、それに無関心でいようとする。

他者の苦しみを知ることが苦しいのはそれが自分の苦しみになることの恐れではなく、その苦しみをどうにもできないと思い込んでいることから起きる。

知っても自分の相手への愛が足りないので相手をどうにかするために自分を変化させられないことの苦しみを感じることを恐れる。

実は「無関心」というものの中には「無関心でいざるを得ない愛」というものがある。
人々は無関心を装い、自分の中に浅い愛しかないと自分に対して罪悪感を感じているのではないだろうか。

自分自身、実はこの何週間と、ニュースを見るのが怖い。
見ると、その悲劇だらけの世界を目の当たりにしてただただ落ち込んでしまうからだ。
と同時に、他者の苦しみを知ろうとしない自分に対して罪悪感を感じる。

これは「無関心」というものではなく、愛したいと願うあまり自分の至らなさに痛感する苦しみに向き合うことのできないほど自分が苦しみ疲れきっている状態であるのかもしれない。

私はこのような状態が多くの人の中にあるように感じる。
皆、疲れきって、傷つき果てている。

まず自分を癒すことが必要だ。
自分を赦すこと。
今の自分を受け入れ、ありのままの自分を認めること。

今の自分が良いか悪いかで判断せず、ただ今苦しみ疲れきっている自分の存在があるということを受け入れる。

そして何を自分が望んで、何を望まないかを考えるより感覚で感じ取ろうとする。

正解も不正解も存在しない世界で何を自分は選びたいのか。



一体自分が何を一番に望んでいるか、自分とこれからも何万年何億年と向き合って生きたい。



つうか、無限に、永遠にすべてが生きていくのです。




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