きりはりへりをり

あまねそうの短歌ブログ。歌人集団「かばん」副編集人。歌集『2月31日の空』アマゾンkindleストアにて販売中

『いま、社会詠は』について思ったこと。

2007年10月04日 | 短歌を語る

 昨年の秋から冬にかけ、青磁社ホームページの週刊時評の欄において、小高賢氏、大辻隆弘氏、吉川宏志氏が、社会詠についての論争を行なった。それを受ける形で今年の2月にシンポジウムが開かれ、実際に3氏が顔をつきあわせて討論を行なった。表題の『いま、社会詠は』は、その全記録を本にしたものである(青磁社刊 2007年)。

 シンポジウムのようなものを批評するのは非常に難しい。パネリストごとに主張が違い、多岐の論点について話し合いが行なわれているからだ。よってここでは各氏の主張などをまとめるのではなく、全体を読んだ感想だけを書くことにする。といっても僕自身、歌壇や短歌史に詳しくないので、短歌論としてというよりも、あくまで思ったことを思いつくままにということで。。。


1:「詠む」と「読む」が混同しているから議論がややこしい

 社会詠をどう作歌しているかいうことと、他の歌人の社会詠をどう読むかということが混ざっていて混乱があったように思う。この点を明確にすれば、議論はもっとスムーズだったのではないか。

 大辻氏は「歌の初発の大切さ」ということを主張している。これはどう詠い始めるかということだ。よって読む場合にも、そこに照準を合わせることが大切になると氏は主張する。吉川氏は、自分が詠うときは生活と社会のつながりの部分を大切にするという。また、社会詠には「対話可能性」が必要だという。当然社会詠を作る場合も読む場合も、対話可能性を考えているということになるだろう。

 小高氏はこの点、『バグダッド燃ゆ』の読みを中心に、あくまで読むことからくる「照り返し」を主張していて、自分が社会詠を作る際にどうするかということがほとんど語られていない。よって議論がかみ合わなかったということもあるのではないか。


2:歌壇では「反米」が共通の「場」なのか。

 小高氏は、岡野氏の反米の歌について「私たち日本人の心情がよく出ている作品だ」という。ここで注意すべきなのは「私」ではなく「私たち」になっているところである。また大辻氏も、岡野の歌を評価する際に「手をふりながら衆愚に媚びるブッシュの映像を目にしたときの憎悪の迸りは、私たちの胸を確実に打つ」として、憎悪を迸らせる主体=「私たち」としている。大辻氏の「歌そのものを言葉に即して読む」という方法でも、反米がベースにあることは避けられないということになるだろう。

 これに対し吉川氏は、「アメリカを批判する気持ちはもちろんよくわかりますけど、今まであれだけアメリカの民主主義を称揚してきたのに、手のひらを返すように、多くの人々がアメリカを単純に否定する論調に走っているのにはかなり疑問を持ちました」と述べ、反米という姿勢に客観性をもって向き合おうとする姿勢がみられる。

 しかし吉川氏は「多くの人々がアメリカを単純に否定する論調に走っている」と事実関係を捉えており、ここから反米という歌壇特有の「場」が透けてくるように私は思うのである。実際反米と言い切れるのは、新聞の場合には朝日新聞や東京新聞くらいなもので、「多くの人々がアメリカを否定」というのは一般的には誤認である。世論調査においても、自衛隊の給油活動について賛成は反対よりも多いのだ。それゆえ吉川氏がこのように事実誤認するような場が、歌壇にはあるのではないかという疑念を持つのである。「歌壇は狭い世界なので、お互いに主義主張や気持ちは通じ合っていると錯覚しやすい」と吉川氏自身がいっているように。

 私自身もアメリカの戦争には大反対であるし、その点では3氏とかわらないのであるが、この「反米」そのものが歌の読みに先行しているというのは、政治学的にみて客観的ではなく問題があるのではないか。アメリカが好きな人が歌を詠んだら全部悪い歌になってしまう恐れがある。


3:「いい歌かどうか」と「好きか嫌いか」というのは全く別である。

 小高氏の主張に従えば「価値観が違うから良い歌ではない」という判断もありうるということになる。大辻氏はこの点を批判して、小高氏がいい歌として挙げているのは反米のものばかりだと指摘している。一方、吉川氏は、馬場あき子氏の歌を引き合いに、一方的な押し付けるような歌は対話可能性が無いと批判する。

 ただこれは「良い悪い」ではなく「好き嫌い」の次元の話ではないのか。特に選者となっている歌人には大きな問題だと思う。自分と違う価値観の歌であっても、歌としていい歌は選ばなければならない。いい歌の中には、親米的な歌も自分の価値観を打ち出したような歌もあるはずだ。個人レベルで好きな歌をチェックするのは全く構わないが、評論や選歌となるとこれではまずいだろう。


4:言論の自由と責任について

 最後に、社会詠を発表した後の社会の反応など、責任の引き受け方について。この辺は僕も社会科の教員として敏感に反応してしまう。言葉には、差別語・人を傷つける言葉というのがある。この辺、大辻氏は「自己保身の問題」といっているが、自分が歌を作って発表したということだけで「傷つきショックを受ける人もいる」ということを認識していないのではないかと疑問が残る。社会詠に限らないが、人権を否定するような言葉を歌に詠み込む場合には、それによって生ずるさまざまなリスクを負ってまで歌うべき強い信念があるかどうか、が問われるのではないだろうか。

 以上、思ったことを書いてみた。ちょっと散漫になったかな。。。僕自身の社会詠に対するスタンスはどうかといわれると、まだこれだということはいえないけれど、また日をおいて考えてみたいと思う。

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