あまがさき情報局

尼崎在住40年。尼崎に関する話題その他をご紹介したいと思っています。

日本の道100選

2012-11-30 08:48:51 | まち情報

 Pb280011
アルカイック・ホールが日本の優良ホール100選に選ばれていると書きましたが、尼崎にはもう一つの100選関連があります。

 それは「日本の道 100選」です。「日本の道 100選」は1986年に「道の日」(8月10日)が制定されたことを記念して、建設省と「道の日」実行委員会によって制定されたそうです。1986年に歴史性と親愛性を基準に53本、そして翌年美観性と機動性を基準に51本選ばれ合計104本の道路が建設大臣から顕彰され、記念のプレートが交付されています。

 その「日本の道 100選」に尼崎市役所の南側の道路「橘通り」が哲学の道や御堂筋とならんで選ばれています。
 この通りは市役所と橘公園に接し、小学校や幼稚園なども近接していて、ケヤキ並木が四季美しい景色を作っています。
 橘の名称は平安時代にこの地が橘の荘園だったことに由来しています。駅名、町名の「立花」も「橘」が由来です。
 かつて橘の木が香る荘園だった頃のことを偲ぶのはちょっと難しいバスや車の往来の多い道路ですが、数多い日本の道から選ばれているということは知っていてちょっと自慢したくなります。Pc223777_2


追記:後日顕彰碑を見つけました。橘公園の南側にあるのでご紹介します。

下のロゴをクリックしていただくとランクが上がります。できれば一日一回クリックして下さい。

人気ブログランキングへ

コメント

アルカイック・ホール

2012-11-27 22:28:56 | まち歩き

Pb093477 庄下川と国道2号線の交わるところにかかる玉江橋。そのそばに建つアルカイック・ホール(2012~2015の3年間はネーミングライツを取得した尼崎信用金庫の名前を冠してあましんアルカイック・ホールと呼ばれています。)
 かつてこの地には尼崎市の社会公共福祉施設として尼崎文化会館がありました。ホールや会議室、結婚式場などを備えたものでしたが、1975年に今の総合文化センターが建設され、1982年にその横に音楽・演劇などのためのホールが出来上がったのが、今のアルカイック・ホールです。
 アルカイックという言葉は古代ギリシアの彫刻に見られるアルカイックスマイルからとられたそうです。その後1993年にホテル・ニューアルカイックがオープンしこの辺りは尼崎の文化・芸術の発信地になっています。
 このアルカイック・ホールは日本音響家協会が優良なホールを称賛するという「音響家が選ぶ優良ホール100選」に選ばれています。全国2500以上あるホールから設備、技術、運用などが優れていると評価されているのは嬉しいことです。オペラの公演も多く、結構遠くからファンが訪れるということです。
 オペラやバレエの公演に先立って行われるゲネプロ(公開リハーサル)を市民が申し込むと鑑賞することもでき、普段はハードルの高いものも身近に感じられる機会があってお得です。

下のロゴをクリックしていただくとランクが上がります。できれば一日一回クリックして下さい。

人気ブログランキングへ

コメント

庄下川

2012-11-25 07:17:29 | まち情報

P9112587a  庄下川(しょうげがわ)は尼崎市内を南北に流れる一級河川で、なじみがあるのは山手幹線新庄下橋から国道2号線玉江橋(アルカイックホール横)までの間でしょうか。

 尼崎に住むようになった1975年(昭和50年)前後は工場排水によりこの川は汚染され、玉江橋近辺でも川の水が濁り、臭いもひどいものでした。
 apedia(web版尼崎地域史事典)によると1988年建設省による「ふるさとの川モデル河川」の指定を受け、整備工事を進めるなか水質の改善を見たそうです。
  現在は水質も良くなり、水辺には遊歩道も設置され(一部はつながっていませんが)朝夕を問わず散歩やジョギングなどまた釣り糸をたらす人など市民の身近な癒しの空間になっています。

Pb223481a
 「ショウゲガワ」という語感と、昔の汚いときのイメージがあって今一つおススメできなかったのですが、語源が「荘園のふもとを流れる川」ということを聞いて、「あっそうだったんだ」と悪いイメージが払しょくされました。
 この近辺は古くは東大寺の荘園や立花の語源にもなった橘の荘園があり、その中を曲がりながらゆったりと流れていく川をイメージしたら、この川も結構ステキな川だなと思えてきました。単純な思いですがご紹介しました。

下のロゴをクリックしていただくとランクが上がります。できれば一日一回クリックして下さい。

人気ブログランキングへ

コメント

紅葉

2012-11-23 10:37:36 | まち情報

Pb153541 暑い夏が終わると秋は駆け足で過ぎ去り、最近口から出るのは「寒い寒い」と言う言葉です。
 尼崎市内のといっても近辺ですが秋の紅葉風景をご紹介します。

 左はご存じ市内中央を流れる庄下川(園田女子大裏側)の風景です。写真にはサギも写っています。Pb113501

市内あちらこちらの風景です。

Pb183552







Pb133534



下のロゴをクリックしていただくとランクが上がります。できれば一日一回クリックして下さい。


人気ブログランキングへ

コメント

尼崎城ーつづきー

2012-11-21 07:06:19 | まち情報

 P2199561尼崎藩は広大な所領を持ち、大坂城を守る重要な役目を持っていました。江戸時代大坂城に緊急事態がおきた時、尼崎藩と岸和田藩に限っては幕府の指示がなくても手勢を率いて大坂入りをすることが許されていたそうです。実際、天保8年(1837年)の大塩の乱の際にはいち早く大坂入りをしています。
 そのような尼崎城は戸田氏鉄の後、青山氏が4代、松平氏が7代続いて明治維新を迎えました。ちなみに松平氏は徳川の分家で三河の桜井を発祥としているため桜井松平氏と言われ、最後の藩主は松平(桜井)忠興です。余談ですが、東京の青山の地名は青山氏の江戸屋敷があったことが由来だそうです。
 明治以降廃藩置県があり、廃城令によって建物などが取り壊されたり、土地も払い下げられました。現在城のあったという名残りはほとんどありません。中央図書館の石垣や隣の城址公園は城跡の雰囲気をだしていますが、どちらも後世に造られたものです。
  以前某講座を受けた際に講師の方が「明治維新の際に日本全国にお城は180余りあった。現在跡形もなくなっているのは尼崎城ぐらいである。」と言われました。ある意味ショッキングな話で、しかも一時町議会で保存が決定されたことがあるそうです。それがいつの間にか今のように痕跡もないほど壊されてしましいました。
 最近「尼崎城の城跡が何の痕跡もなくほぼ完全になくなっているのはなぜか?
他の城下町の城跡と比較して、ここまで遺構が消え去っているのはめずらしいのではないか?」
という文書を読ませていただきました。

これによると理由は2つ。
1 大阪近郊に立地し、明治中期以降は急速に都市化・工業化が進展した尼崎町・市域において、早くから都市化にともなう住宅地需要や公共用地不足が生じ、旧城地における濠埋め立てと用地転用が進められたこと。

2 明治前期の経済変動のもと、旧藩士家の多くが早期に経済的に没落したこともあり、旧城の遺跡保存に関心を持ち、それを行動に移すだけの政治力や経済力を兼ね備えた旧士族層の顕著な動きがなく、それに替わる士族層以外からの城跡保存の声もごく小さかったこと。
    ということのようです。

 日本全国お城を壊すことになった時、それぞれ有志が保存に向けて動いたとか、後世再建を果たしたとか、何らかの形でお城が残っていることがおおいのですが、このように尼崎のように痕跡もほとんど残っていないのが珍しいということです。これは財政がとことん窮乏していたということもあるかもしれませんが、この地の人は古いものや過去の遺物にそれほどこだわりを持たなかったのではないかと思えます。
 結構ある意味ドライな気質があったのではないかというのが私的な思いです。

下のロゴをクリックしていただくとランクが上がります。できれば一日一回クリックして下さい。


人気ブログランキングへ

コメント