馬糞風リターンズ

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敦賀市散策(3)・・・歴史散歩(その2)

2016年09月18日 | ドライブ・旅行
金ヶ崎緑地にある「敦賀港駅舎」:平成11年・敦賀港開港100周年記念として金ヶ崎鉄道桟橋駅を復元したもの。「敦賀鉄道資料館」(旧敦賀港駅舎)は平成23年に資料館として利用しています。

現在「敦賀港駅」は「オフレールステーション」という形態のJR貨物駅として営業しているそうです。嘗ての敦賀港駅は「敦賀市散策(1)」で紹介したように欧亜国際連絡列車の大陸への玄関口と云う重要な拠点駅でした。「敦賀港駅」は開設当時は「金ヶ崎駅」でした。金ヶ崎駅は明治15年(1882)敦賀に鉄道が敷設されたときに金前寺前に金ヶ崎駅として開業しました。その後、敦賀港が改修され国際貿易港となり、新橋~金ヶ崎間に欧亜国際列車が運行され、大正8年(1919)金ヶ崎駅は敦賀港駅と改称されました。
 ここ金ヶ﨑は豊臣秀吉が織田家臣団の中で確固たる地位を確立した「金ヶ崎の退き口」の戦いがあったところです。織田信長が越前・朝倉攻めの折、背後を義弟・浅井長政に襲われます。「万事休す」信長は這う這うの体で越前を脱出します。この時、決死の覚悟で「殿・シンガリ」を申し出たのが秀吉です。この功により秀吉は織田家臣団の中で確固たる地位を確立し、天下人となってゆきます。

「金ヶ崎の退き口」の戦功は秀吉に独占された格好になっていますが、徳川家康、明智光秀も信長退却本隊から取り残され「殿」を務めています。
金ヶ崎では、これより二百数十年前、南北朝の戦乱がありました。

先ほどの敦賀鉄道記念館のボランティアガイドのおばさんが「私の名前はツヌガです」と紹介されていました。恐らく「角鹿」と書くのだと思います。ツヌガは日本書紀などによると都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と云う渡来人の話があります。日本書紀垂仁紀に「額に角のある者が、 崇神天皇の時代に 越の国の笱飯の浦についた。それで角鹿(つぬが)という地名になったという。」と云うものです。この都怒我阿羅斯等は兵庫県豊岡市出石に伝わる「天之日矛」とは同一人物の伝承であろうと言われています。
 また、「気比・笱飯」(ケヒ)の由来は「古事記」によると「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したとしています。また一説には応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もあります。
 
 敦賀市にはほかにも天狗党の首領・水戸藩士・武田耕雲斎のお墓があります。耕雲斎は800名の将兵を率いて中山道を進軍、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬首されたそうです。(おわり)
 

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