
今号もいろいろあったけど…
毎号いろいろありますけども…
『女性学年報』29号、無事に発行しました!
今号の表紙のイメージは「プリン」です♪
(編集長でもないのに選ばせてもらいました)
水島希さんの論文は、日本女性学研究会の例会発表が
下敷きになっています。
ライブ(!?)と『年報』がリンクしているのは
大変心強いことだと思っています!
* * * * *
『女性学年報』29号
水島 希
「進化生物学とフェミニズム─「ババァ発言」と「Y染色体論」を読み解く」
中西 美貴
「日本統治下の北部台湾における先住民女性と和服―タイヤル族を中心に」
渋谷 晴子
「「第三世代」フェミニストとリブとの距離とは何か」
内藤 節子
「中高年女性にとって事業型福祉NPOは職業選択肢のひとつになりえるか」
蔦枝 勇希・広目 真実
「今、男女共同参画の現場で何が起こっているのか?」
高橋友子さん追悼…
― Arrivederci さようなら、また会いましょう ―
荻野美穂・高橋静子・日野玲子・森松佳代・小山有子
『女性学年報』29号
(バックナンバーもぜひ!!)のお求めは
オフィス・オルタナティブまで
〒540-0012
大阪市中央区谷町1-6-4
MF天満橋八千代ビル10F
オルタナティブ内
「日本女性学研究会」
TEL:06-6945-5160
FAX:06-6920-8167
論文要約
水島 希
「進化生物学とフェミニズム─「ババァ発言」と「Y染色体論」を読み解く」
フェミニストにとって生物学や進化論は敵か? フェミニストが進化論に批判的なのは科学をきちんと理解していないからか? 一般社会において、性差別的な生物学的決定論が頻繁に見聞される中、フェミニストとして進化生物学や生物学そのものにどのような態度を取ればよいか迷うことは多い。一方で、ダーウィンと同時代から現在にいたるまで、フェミニスト科学者による取り組みは連綿と行われているが日本では紹介される機会が少ない。本稿では、このような取り組みを紹介し、生物学者でありフェミニストとして科学批判も行っているアン・ファウスト―スターリングの分類を基に、進化生物学に対するフェミニズムの立場を4つのタイプで説明する。さらに2000年以降、日本で進化生物学が性差別的な言説の根拠として用いられた事例として、石原都知事による「ババァ発言」と、Y染色体による天皇制男系維持説(Y染色体論)を取り上げ、進化生物学の知見からどのような反論が可能かを提示する。これらより、進化生物学的な説明がフェミニズムにとってどのように役立つか、特に女性運動での利用を念頭において検討する。
中西 美貴
「日本統治下の北部台湾における先住民女性と和服―タイヤル族を中心に」
本論考は日本統治時代の台湾において、主に北部山地に住むタイヤル族女性が和服を着ることに対して、どのような視線が向けられたのか、また何故和服の着用を選んだのかについて考察したものである。
和服を扱う意義は、そこが、和服という文化およびその着用という実践をめぐって、和服を着る被統治者や和服を着用させたいと思う統治者、そしてそれを見る者が、それぞれ異なる意味を付与しあうアリーナとしてみることができるためである。和服の着用というのは単なるある衣類の着用ではない。それは民族と文化、そして階層にまで関係した、社会における個人の選択である。したがって和服をめぐる問いを立てることは、単なる政治的文化政策を明らかにすることだけではなく、植民地を生きる個人の主体性を明らかにすることでもある。
和服の流入あるいは着用というと、統治者側からの文化の強要というイメージがあるが、実際には誰が纏うかによって、それぞれの政治的脈絡も異なってくる。タイヤル族では当初和服の着用は、日本人と同地域に居住あるいは移住した人々によって「好」まれた。ただしそれは和服だけではなく、味噌やランプといった生活全般に関わる変化の中で、選択されていったものであった。統治者側にしてもこの現象を好意的にとらえていた。
ところが30年代に入ると和服の着用と先住民の同化、進化が同義的になってくると、和服を着用率が低い地域や女性と比べると和服着用率が低い男性に対し、「進んだ・昔のまま」といった進化を計る標識とみなされてゆく。やがて日中全面戦争を迎えると、今度は女性の和服着用に対し、開化しすぎ、開けすぎだとして批判がされるようになり、正しい身体を示すものとしてモンペの着用が勧められるようになる。
ではタイヤル女性にとって和服の着用とはなんであったのだろうか。それは、進化の標識というよりは、警察官の妻という統治者側であり、かつ上位階層者である女性の真似であった。だが彼女たちが警察官の妻の真似をすることとは、たんなる物まねなのではなく、統治者側のジェンダー規範へ入りたいという欲望の表象行為であった。だがそのような行為は時局というタイミングおよび統治・被統治という植民地の構造を揺るがす思想であったため、批判され、結局モンペへと矯正される運命にあった。
とはいえ彼女たちの行為は、決して被統治者という弱者の位置を甘んじて受け入れるようなものではなく、むしろ積極的に統治者側がもたらす和服をめぐる言説に参与することで、自らの位置の改善を図り、最終的には統治者側の言説の正統性を覆すような行為なのであった。
渋谷 晴子
「「第三世代」フェミニストとリブとの距離とは何か」
本稿では、「第3世代」フェミニストを「フェミニズム理論と体験との乖離」を問い、自らの問題経験に即した新たなフェミニズムの方向性を模索している「若い世代」のフェミニストと定義し、彼女達の抱くリブ運動への共感と近づきがたさ(=距離)について議論をした。まず,両者の距離を「理論」と「実践」という方法論の違いによる距離、「観察する側」と「観察される側」という立場の違いによる距離として示した上で、両者の距離を生み出すものとして「リブとしてのアイデンティティ」を提示した。「リブとしてのアイデンティティ」とは、「きつさ」を伴うリブ運動体験を基礎として築いた、「私がリブ」であることの自負や意識を指すものである。これは、「第3世代」フェミニストにとってはリブへの近づきがたさを生み出すものである一方で、リブの担い手にとっては運動後の人生を生きる糧となっているという両義的側面がある事を描いた。今後、「第3世代」フェミニストが、過去の女性達から学びつつ新たな展開をしていく為には、自らの体験と立場についての多くの語りが必要なのではないだろうか。
内藤 節子
「中高年女性にとって事業型福祉NPOは職業選択肢のひとつになりえるか」
2000年の介護保険制度施行後、事業型福祉NPOの事業拡大はめざましく、新たな労働市場として雇用の創出も期待されている。
一方、長命化により女性の人生は長くなり、中高年女性の就業意欲も高い。しかし男性中心の労働市場においては雇用のミスマッチが生じている。
また、近年の非正規雇用の実態は、労働者を人間扱いしているとは思えない。という忸怩たる思いから、事業型福祉NPOでの正規雇用の実態を明らかにするとともに、新しい就労の場として持続可能性を考える。
毎号いろいろありますけども…
『女性学年報』29号、無事に発行しました!
今号の表紙のイメージは「プリン」です♪
(編集長でもないのに選ばせてもらいました)
水島希さんの論文は、日本女性学研究会の例会発表が
下敷きになっています。
ライブ(!?)と『年報』がリンクしているのは
大変心強いことだと思っています!
* * * * *
『女性学年報』29号
水島 希
「進化生物学とフェミニズム─「ババァ発言」と「Y染色体論」を読み解く」
中西 美貴
「日本統治下の北部台湾における先住民女性と和服―タイヤル族を中心に」
渋谷 晴子
「「第三世代」フェミニストとリブとの距離とは何か」
内藤 節子
「中高年女性にとって事業型福祉NPOは職業選択肢のひとつになりえるか」
蔦枝 勇希・広目 真実
「今、男女共同参画の現場で何が起こっているのか?」
高橋友子さん追悼…
― Arrivederci さようなら、また会いましょう ―
荻野美穂・高橋静子・日野玲子・森松佳代・小山有子
『女性学年報』29号
(バックナンバーもぜひ!!)のお求めは
オフィス・オルタナティブまで
〒540-0012
大阪市中央区谷町1-6-4
MF天満橋八千代ビル10F
オルタナティブ内
「日本女性学研究会」
TEL:06-6945-5160
FAX:06-6920-8167
論文要約
水島 希
「進化生物学とフェミニズム─「ババァ発言」と「Y染色体論」を読み解く」
フェミニストにとって生物学や進化論は敵か? フェミニストが進化論に批判的なのは科学をきちんと理解していないからか? 一般社会において、性差別的な生物学的決定論が頻繁に見聞される中、フェミニストとして進化生物学や生物学そのものにどのような態度を取ればよいか迷うことは多い。一方で、ダーウィンと同時代から現在にいたるまで、フェミニスト科学者による取り組みは連綿と行われているが日本では紹介される機会が少ない。本稿では、このような取り組みを紹介し、生物学者でありフェミニストとして科学批判も行っているアン・ファウスト―スターリングの分類を基に、進化生物学に対するフェミニズムの立場を4つのタイプで説明する。さらに2000年以降、日本で進化生物学が性差別的な言説の根拠として用いられた事例として、石原都知事による「ババァ発言」と、Y染色体による天皇制男系維持説(Y染色体論)を取り上げ、進化生物学の知見からどのような反論が可能かを提示する。これらより、進化生物学的な説明がフェミニズムにとってどのように役立つか、特に女性運動での利用を念頭において検討する。
中西 美貴
「日本統治下の北部台湾における先住民女性と和服―タイヤル族を中心に」
本論考は日本統治時代の台湾において、主に北部山地に住むタイヤル族女性が和服を着ることに対して、どのような視線が向けられたのか、また何故和服の着用を選んだのかについて考察したものである。
和服を扱う意義は、そこが、和服という文化およびその着用という実践をめぐって、和服を着る被統治者や和服を着用させたいと思う統治者、そしてそれを見る者が、それぞれ異なる意味を付与しあうアリーナとしてみることができるためである。和服の着用というのは単なるある衣類の着用ではない。それは民族と文化、そして階層にまで関係した、社会における個人の選択である。したがって和服をめぐる問いを立てることは、単なる政治的文化政策を明らかにすることだけではなく、植民地を生きる個人の主体性を明らかにすることでもある。
和服の流入あるいは着用というと、統治者側からの文化の強要というイメージがあるが、実際には誰が纏うかによって、それぞれの政治的脈絡も異なってくる。タイヤル族では当初和服の着用は、日本人と同地域に居住あるいは移住した人々によって「好」まれた。ただしそれは和服だけではなく、味噌やランプといった生活全般に関わる変化の中で、選択されていったものであった。統治者側にしてもこの現象を好意的にとらえていた。
ところが30年代に入ると和服の着用と先住民の同化、進化が同義的になってくると、和服を着用率が低い地域や女性と比べると和服着用率が低い男性に対し、「進んだ・昔のまま」といった進化を計る標識とみなされてゆく。やがて日中全面戦争を迎えると、今度は女性の和服着用に対し、開化しすぎ、開けすぎだとして批判がされるようになり、正しい身体を示すものとしてモンペの着用が勧められるようになる。
ではタイヤル女性にとって和服の着用とはなんであったのだろうか。それは、進化の標識というよりは、警察官の妻という統治者側であり、かつ上位階層者である女性の真似であった。だが彼女たちが警察官の妻の真似をすることとは、たんなる物まねなのではなく、統治者側のジェンダー規範へ入りたいという欲望の表象行為であった。だがそのような行為は時局というタイミングおよび統治・被統治という植民地の構造を揺るがす思想であったため、批判され、結局モンペへと矯正される運命にあった。
とはいえ彼女たちの行為は、決して被統治者という弱者の位置を甘んじて受け入れるようなものではなく、むしろ積極的に統治者側がもたらす和服をめぐる言説に参与することで、自らの位置の改善を図り、最終的には統治者側の言説の正統性を覆すような行為なのであった。
渋谷 晴子
「「第三世代」フェミニストとリブとの距離とは何か」
本稿では、「第3世代」フェミニストを「フェミニズム理論と体験との乖離」を問い、自らの問題経験に即した新たなフェミニズムの方向性を模索している「若い世代」のフェミニストと定義し、彼女達の抱くリブ運動への共感と近づきがたさ(=距離)について議論をした。まず,両者の距離を「理論」と「実践」という方法論の違いによる距離、「観察する側」と「観察される側」という立場の違いによる距離として示した上で、両者の距離を生み出すものとして「リブとしてのアイデンティティ」を提示した。「リブとしてのアイデンティティ」とは、「きつさ」を伴うリブ運動体験を基礎として築いた、「私がリブ」であることの自負や意識を指すものである。これは、「第3世代」フェミニストにとってはリブへの近づきがたさを生み出すものである一方で、リブの担い手にとっては運動後の人生を生きる糧となっているという両義的側面がある事を描いた。今後、「第3世代」フェミニストが、過去の女性達から学びつつ新たな展開をしていく為には、自らの体験と立場についての多くの語りが必要なのではないだろうか。
内藤 節子
「中高年女性にとって事業型福祉NPOは職業選択肢のひとつになりえるか」
2000年の介護保険制度施行後、事業型福祉NPOの事業拡大はめざましく、新たな労働市場として雇用の創出も期待されている。
一方、長命化により女性の人生は長くなり、中高年女性の就業意欲も高い。しかし男性中心の労働市場においては雇用のミスマッチが生じている。
また、近年の非正規雇用の実態は、労働者を人間扱いしているとは思えない。という忸怩たる思いから、事業型福祉NPOでの正規雇用の実態を明らかにするとともに、新しい就労の場として持続可能性を考える。









