Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

King

2012年03月03日 | person
Martin.Luther.King.Jr(1929-1968)は、ジョージア州アトランタのバプティスト派教会の牧師の家に生まれました。聡明に成長した彼は、父と同じ牧師の道につき、アラバマ州モンゴメリに移りそこで公民権運動に参加し始めます。
自由と平等の国アメリカ。しかし人種間の隔たりは大きく、特に南部諸州においては未だ人種隔離政策が採用されていました。1955年のローザ・パークス事件以降、公民権運動は一気に拡大し全米に広がっていきます。キング牧師を中心とした人種差別の撤廃と人種の共存を目指したその活動は非暴力による抵抗運動を展開していきました。
1961年、民主党の大統領候補であったケネディが当選し、政権が誕生したこともそれを後押ししました。ケネディ政権はそれまで手つかずのまま先送りにされてきたその最も基本的な国家課題と対峙します。1963年6月、ケネディ大統領は全米に向けて次のように語りかけました。
「我々は今、国家として道徳的危機に直面しています。リンカーンが奴隷を解放してから100年の時が経過しているというのに、その子孫はいまだに完全に自由ではありません。彼らは不正義の枷から自由にはなっておらず、社会的・経済的圧迫から解放されていないのです。アメリカが何を誇示しようが、全ての国民の自由が達成されなくては完全に自由な国家とは言えません。」
第二の奴隷解放宣言ともいわれるこの声明を受け、ついにキング牧師と大統領との面会が実現し、同年8月の歴史的なワシントン大行進に続きます。奇しくもその年はリンカーン大統領により奴隷解放宣言から100年を数える年でもありました。
11月、その志半ばにケネディ大統領はテキサス州ダラスで凶弾に倒れましたが、後を継いだジョンソン政権にその遺志は受け継がれ、1964年、ついに人種によるあらゆる差別を禁止する公民権法が制定され、翌年には投票権法も制定されました。それらの活動によりキング牧師は、1964年ノーベル平和賞を授与されています。
そのキング牧師がかつて演説を行ったのがRiverside Church(Riverside drive&W120th st)です。ロックフェラー家の寄附により建設されたこの壮麗な教会は、1927年に建設が始められ1930年に完成しています。バプティスト派の教会ですが、毎週日曜日の午前、超宗派による礼拝が行われています。そびえる尖塔と鳴り響くカリヨン、そして見事なステンドグラスも必見です。
1967年4月4日、彼はここで当時、泥沼に陥っていたベトナム戦争について反戦の立場を明らかにした上で”A time comes when silence is betrayal”それは「沈黙は裏切りである時が来た」こと、遠くベトナムに派兵されて行った兵士たちに思いを寄せ、今こそ行動を起こすことを訴えかけたのです。
生涯を通して「行動すること」を身をもって示し続けた1人の偉大な先導者の抱き続けた「夢」への旅が卑しむべき弾によって断たれたのはその1年後、1968年4月4日のことでした。

*Riverside Church... RSD&W120th st
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I have a dream

2012年03月02日 | 80th st-
アメリカの1月の祝日にMartin.Luther.King.Jr dayがあります。
黒人公民権運動をはじめとした平和活動に生涯を捧げたキング牧師を記念した日で、彼の誕生日にあたる1月15日に近い1月の第3月曜日が合衆国の祝日として指定されています。'I have a dream'から始まる歴史的な名演説は今でも語り継がれています。
その演説は1963年8月28日、ワシントンD.C.で行われました。後々機会に恵まれて、その演説の様子を最初に見た時、最も心に残ったのは有名な次の箇所でした。
“I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed, We hold these truths to be self-evident,that all men are created equal.I have a dream that one day on the red hills of Georgia,the sons of former slaves and the sons of former slaveowners will be able to sit down together at table of the brotherhood.I have a dream that one day even the State of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression,will be transformed into an oasis of freedom and justice.I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not judged by the color of there skin but the cotent of their character.I have a dream today.I have a dream that one day down in Alabama with vicious racists, with its governor having his lips dripping with the word of interposition and nullification. One day right there in Alabama, little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girl ls as sisters and brothers.”
...私には夢がある。いつの日かこの国が立ち上がり、「我々は、全ての人間が平等に創造されたという真理を自明のことと考える」という信条に本当の意味で基づくような国となることを。私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い丘の上で、かつて奴隷だった者の子孫たちと、かつて奴隷主だった者の子孫たちとが兄弟愛をもって同じテーブルにつくことができることを。私には夢がある。いつの日か、ミシシッピー州のように不正義と抑圧に満ちた州でさえも、自由と正義のオアシスに変えられることを。私には夢がある。いつの日か、私の幼い子供たちが肌の色によって評価されるのではなく、人間性によって評価されるような国で暮らすことができることを。私には夢がある。いつの日か、悪徳に満ちた差別主義者に牛耳られ、連邦の決定に対して「不当な干渉だ」とか「取り消しする」という言葉しか出てこないアラバマ州においても、幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちとまるで兄弟姉妹のように手を取り合う日が来ることを。
この箇所は特に有名で繰り返し配信されることも多く聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょう。この演説はこのあと、聖書からの引用、またその高邁な精神を神に誓い闘いを続けること、そして合衆国のあらゆる地からの「行動」への期待を謳います。そして最後は次のように締めくくられます。

“When we allow freeedom to ring, when we let it ring from every village and every harlem, from every state and every city, we will able to speed up teh day when all of Gods Children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro Spiritual,Free at last ! Free at last ! Thank you god l mighty, we are free at last !”
.....私たちが自由の鐘を鳴らす時、すべての村々から、すべての集落から、すべての州から、すべての街からも鐘が鳴り響くのです。神の子となったすべての人々、黒人も白人もユダヤ人もユダヤ人でない人も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々がお互いの手を取り合って、あの古い黒人霊歌の中の言葉を口ずさむ日がやって来る。”ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神よ、感謝します!我々はついに自由になった!”

キング牧師の訴えかけた理想はどこまで実現されたでしょうか。
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Silent Spring

2012年03月02日 | person
ある夏の終わり、ボストンを起点にニューハンプシャー州、そしてメイン州のシーコーストを周りました。メイン州に入り、地図を広げてみるとそこに一人の女性の名を冠した公園がありました。その名はRachel.Louise.Carson(1907-1964)。
  レイチェル・カーソンは1907年5月27日、アメリカ・ペンシルバニア州に生まれました。地元の女子大学を卒業後、奨学金を得てジョンズ・ホプキンズ大学院に進み、動物生態学を学び修士号を得ています。理系分野に進む女性がまだ少数だった時代、先を切り拓くように、連邦漁業局で研究にあたり、さまざまな論文の編集を通じて人間を取り巻く「環境」の変動に焦点をあて、職を辞したあとは著作の執筆に専念しました。
「環境」という概念が未だ希薄で、それは永続的に人間に従うものであるという意識の濃かった時代、彼女がそれまで蓄積した豊富な知識と、緻密な調査の結果に基づいて発表した数々の著作は人々に大きな衝撃をもって迎えられました。その代表的なものが「Silent Spring」でした。
  雑誌「New Yorker」に連載された「Silent Spring」は、避けては通れぬ地球と人間の置かれた現実は著述し大きな衝撃をもって迎えられました。当時、夢の農薬と謳われたDDTがその実、生態系に深刻な影響を与え自然の連鎖によって人体や地球環境に致命的な結果をもたらすものであると指摘、その中で彼女は次のように述べています。(カーソンが展開した様々な提起の中でもこのDDTに関する議論には今なお決着がついていないものもあります。)

「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という2つのものが互いに力を及ぼしあいながら生命の歴史を織りなしてきた。といっても、大抵は環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力はごく小さなものにすぎない。だが、20世紀という僅かのあいだに、人間という一族が恐るべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」

 当然のことながら、それまで大きな利益をあげていた農薬製薬会社などからは猛烈な抵抗や反対が起こりました。ここで政治の力が動き出します。カーソンの著作に賛同したネルソン議員らが立ち上がり直接、大統領に働きかけます。1962年、ケネディ大統領はDDTの使用について特別委員会を設置し調査を命じます。この後、環境保護という概念は地球共通の課題として全世界に向けて発信されていくことになりました。
 カーソンはその後も環境問題に警鐘を鳴らし続けますが、1964年4月14日、乳ガンとの長い闘いの末、56年の生涯を閉じました。
 この時期は国際関係上でも新たな局面にあたっていました。米ソ2大国が冷戦といわれる緊張関係に陥り、世界が東西に二極化する中、核開発競争が熾烈を極めていました。米国内においてもキューバ危機をはじめ、ベトナム戦争への介入など先行きの見えぬ混迷の時代の入り口に対峙していました。ケネディ大統領は1963年7月、アメリカン大学での講演の中で「世界の現在」を次のように語りかけています。

"For, in the final analysis, our most basic common link is that we all inhabit this planet. We all breathe the same air. We all cherish our children's future. And we are all mortal."
ケネディ大統領がその47年の生涯を閉じたのはこの演説から僅か4ヵ月後のことでした。
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Spice

2012年03月01日 | South of Washington SQR
Sohoといえば、すっかり日本でも定着進出した感のあるDean&Deluca。
NYらしいという形容は日常のさまざまな風景に自分なりに感じることがありますが、私にとってはこのDean&Delucaも“NYらしい”風景の一つです。
「食の美術館」というのがコンセプトらしいのですが、その通りに高品質でハイセンスな店内には高感度を漂わせた人々が集まります(もちろんお値段もそこそれなりですが!!)。ただそこにいるだけでセンスアップのキーワードがちりばめられ、ヒントをたっぷり享受しているような…。生鮮食品はもちろん、素晴らしい完成度のデリ、見るに艶やかなスウィーツたち、そして食材をよりひきたてるための選りすぐりのスパイスもたっぷり、お店の一角にはカフェがあり一休みにも最適です。世界中から集められた食材の数々は、その土地土地からのパワーもそのままにやって来たような店内はそれなりに制御を効かせてはいますが、やはりパワフル!
 その名のとおり、ここはMr.DeanとMr.Delucaが始めたお店。もともと歴史の先生でもあったMr.Deanが始めた世界各国からのチーズを集めたセレクトショップが評判を呼び、雑誌編集者であったMr.Delucaとの知遇を経て1977年お店はオープンします。現在の場所に移転したのが1988年(cnr Spring st&Broadway)、今では珍しくなくなったさまざまな食材を各地から取り集め売り出し着実に評価を得ていきます。「値段は恐ろしく高いけれど、値段など構わないから本物を食したい」人々の熱意と支持を受けお店は発展、マンハッタン内のさまざまな場所でその名を見かけます。歩みは今日も続いています。

*Dean&Deluca(CNR Spring st&Broadway)
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Yorkville

2012年02月29日 | 80th st-
マンハッタン歩きの楽しみの一つはエリアごとに異なる空気を感じられること。北に歩を進めたり、南に向って海の風を感じたり、東に歩いてはまた西に向ったり。「どこかで見かけたような」景色ではあれど、流れる空気はそれぞれはっきりと異なります。さて、そんなエリアのいろいろを少したどってみましょうか。
東79丁目から東96丁目、アベニューは3rd aveから1st ave。その中心は東86丁目あたり…(とします)、この界隈がYorkvilleと呼ばれるエリアです。もともとドイツ系移民が多く暮らしていたことがあり、Little Germanとも呼ばれていたそうです。
 欧州からの移民たちが最初にたどり着いたのがLower Eastside。現在のEast village、アルファベット地区のあたりです。その中でLittle Germanは現在のTompkins Square Parkあたりに築かれていました。19世紀に入り鉄道が整備され始め、交通の発達が進みます。1835年にハーレムとマンハッタンをつなぐ蒸気機関車が通り、東86丁目にも停車駅が建設され、一方、駅馬車がダウンタウンまで開設されました。交通の便の確保は当時、テネメントで最貧困の生活を強いられていた移民たちにとって一大転機ともなりました。
 ドイツ系移民たちをはじめ、ユダヤ系、アイルランド系移民たちは現在のヨークヴィルあたりにその拠点を移しますが、その中核はドイツ系移民だったようで、1850年頃にはドイツ人の街として確立されました。第2次大戦中にはナチスのシンパたちもこの地域には現れていたようで、あらゆる意味においてドイツ人街であったといえます。アッパーイーストに隣接するこのエリア、レキシントンアベニューがその緩衝地帯とされ、そこには「社会的、経済的に東へ転居しない」という不文律の見えない大きな壁がありました。
 ヨークヴィルの名は第1次世界大戦で数々の戦功をたてたアルヴィン・ヨークの名に由来します。その生涯は映画「ヨーク軍曹」にも描かれ、主演のゲーリー・クーパーに初のアカデミー賞をもたらしています。2度の世界大戦でいずれも敵性人種とされたドイツ系移民たちが自らの「アメリカ市民・アメリカ国民」としてのアイデンティティを示すため、この英雄の名をあえて掲げたのかもしれません。
  第2次大戦後、中核をなしたドイツ系の人々は郊外に移り、ハンガリーやチェコなどからの移民が増えLittle Bohemiaが形成される一画もあります。今では盛時の面影を残す建物も少なくなりましたが、それでもやはり独特の味わいのあるエリアです。

*Yorkville
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Hollywood in 1999

2012年02月28日 | person
1950年代、米ソ冷戦の激化によりアメリカに吹き荒れたこの赤狩りは、共産主義者の疑いのある者を糾弾し社会的に抹殺するに至らしめました。やがてこのあまりに極端で煽動的な風潮は収束に向かいますが、この時代がハリウッドに、アメリカに遺した傷はあまりに深くあまりに残酷なものでした。
赤狩りにより社会を追われた人々の名誉回復は、それからかくも長きをおいてようやくなされることになりますが、絶望と失意の中で心身を病む者、またその人生を閉じた者も少なくありませんでした。
世に名作を送り続け、新たな才能をスクリーンに送り込み続けたその卓越した映画人としての功績。彼によって見出された多くの才能の中の1人でもあったスコセッシやベイティは「功績は功績として認めるべき」と判断しました。映画人として彼がなしてきた称賛されるべき偉業、それらがスクリーンに映し出され、アメリカ映画を支え続けた巨匠カザンが紹介されていく中、それと同じ、いやそれ以上に思い起こされたあの「裏切り」の瞬間だったのかもしれません。
 スコセッシ、デニーロらに壇上に招かれオスカー像を手にしたカザン、客席と向き合う彼に向けられたのは賞賛と非難を混然とした場内の反応でした。ニック・ノルティやエド・ハリス夫妻は立ち上がることなく祝意を表すこともなく壇上を睨み続けました。

「そうすべきだったのか、そうすべきでなかったのか」・・・その当時を知らず、過去の歴史の一時期として捉える立場にあるものにとっては、共産主義に対し、制御不可能なほどのヒステリーに陥っていた当時の社会において、彼がとった行為とその後の「裏切り者」としての彼の人生、もしかしたら彼もまた犠牲者であったのかもしれない、そう考えることも出来ます。

あの日、受賞を敬意と賛意をもって応じた人々はそうした認識と、映画史にカザンが標した稀有な貢献に対して立ち上がり拍手をしたのでしょう。しかしながら、ではカザンを”犠牲者”というならば、時は経て世は変わったとはいえどあの時代、彼の行為によって苦痛と絶望の中に落とされ、その生涯を突然にそして大きく暗転させられた人々を何と称すべきなのか。あの日、受賞を侮蔑と非難をもって応じた人々にとっては、時は経て世は変わったとしても「1952」は終わっていなかったのです。

「....私はこれで静かに消えていきます」
オスカー像を手にしたカザンは受賞に際してのスピーチをこのように結び舞台を去りました。最後まで「1952」に触れることはないままに。
2003年9月28日、エリア・カザンはニューヨーク・マンハッタンの自宅でその94年の生涯に幕を閉じました。

*115.Central Park West(at W72nd st)
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Hollywood in 1952

2012年02月28日 | person
 「紳士協定」、「欲望という名の電車」、「波止場」、「エデンの東」、「草原の輝き」 など映画史に残る不朽の名作の数々を世に送り出し、その社会性で世を斬った人。ジェームズ・ディーン、マーロン・ブランド、ウォーレン・ベイティ、ナタリー・ウッドらいずれも映画・演劇史に残る俳優たちを発掘し世に送り出した人。アーサー・ミラー、テネシー・ウィリアムズら名戯曲家たちの作品に息を吹き込み見事に花開かせた人。これらは全てある1人の人物がなしえたこと....

 1999年3月、映画の都ハリウッド最大の祭典であるアカデミー賞授賞式の会場、その中も外もを穏やかならぬ空気が支配していました。1人の映画人への名誉賞授与をめぐって。それはハリウッドが経験した最も困難で最も忌まわしく、未だ癒えぬ痛みの記憶を人々に再認識させることになりました。ある者は式への出席をボイコットし、ある者はその功績に対しては敬意を表すべきと式に祝意をもって出席し、ある者はその受賞の眼前でその沈黙をもって抗議の意を表明しました。名優リチャード・ドレイファスはこう声明を発表しました。
「カザンは賞賛を受けるべき人物ではない。彼は無害だったようにも見えるし、ひょっとすると正しかったように見えるかもしれない。でも本当は、彼は間違っていたし無害ではなかった。」と。

 エリア・カザン(Elia.Kazan.1909.9.7-2003.9.28)はオスマン帝国の首都であったイスタンブールにギリシャ人家庭に生まれ、政情の悪化を受けて家族と共にアメリカに渡りました。ウィリアムズカレッジからエール大学演劇科に進み、俳優としてそのキャリアをスタートさせます。その後、キャリアの幅を広げ、演出家、映画監督として華々しく活躍、特にユダヤ人問題に正面から切り込んだ「紳士協定」(1947)でアカデミー賞を受賞したことは、カザンにハリウッドでの揚々たる前途を約束するものでした。そして黄金期を謳歌していたハリウッドにあって彼は社会派監督として不動の地位を築きます。
 一方で彼が取り組んだのが演技を理論として捉え、その技法「メソッド」を教授するというシステムでした。そしてそれは従来のハリウッドスターシステムに一石を投じることになります。ブロードウェイの劇場街を抱えるニューヨークにリー・ストラスバーグらとアクターズスタジオ(432,W44th st)を設立、ここからジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドらが巣立ち、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロら現代の名優と称される多くの俳優がそれに続いています。
 
 これほどの功を成し遂げた彼に、何故に人々はあれほどの複雑な反応をあえて示すことになったのでしょう。その答えは1952年4月にありました。

第二次世界大戦後、世界は東西対立という新たな局面にさしかかっていました。米ソ2大国を軸とした対立と緊張関係は「冷たい戦争」と呼ばれました。その中でアメリカにおいて吹き荒れたのがマッカーシズムでした。マッカーシズムはウィスコンシン州選出のジョゼフ・レイモンド・マッカーシー上院議員(R)が共産主義者によるアメリカの破壊を声高に訴えて共産主義者の排除を叫び、それらが冷戦の渦中にあって共産主義への疑心暗鬼と恐怖にとり憑かれたアメリカ国民の心理に深く作用したことから全米に拡大、その狂気を過激なまでに演出しました。後に20世紀の「魔女狩り」と称されることになる狂気の時代でした。

それに恰好の対象がありました。ハリウッドです。大衆への働きかけ、反共意識の浸透をはかるのにあらゆる階層に受け入れられていたエンタテイメント産業を標的にすることで、この明らかな偏向に劇的な意味づけを、「見せしめ」をなすことに成功しました。
非米活動委員会(House Un-American Activities Comittee)で行われた聴聞会で多くの文化人、映画人たちが喚問と追及を受けました。彼らの選択肢は限られていました。1つは自ら共産主義者であることを認めること、或いは証言を拒否すること、そしてもう1つは自らへの疑念を払拭するため他に知る共産主義者の名を密告することでした。カザンはこの後者にあたりました。彼は自らの過去の一時期、共産党員であった過去を持ち、このことから召還を受けます。1952年4月、彼は自らが潔白であることを証明するため、共産思想の疑いのある11人の名を委員会において表明しました。そう、彼は「仲間」を売ったのです。

*Actors studio(432.W44th st)
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Neighbor

2012年02月28日 | 80th st-
ニューヨーク、アッパーイースト。マンハッタン屈指の高級住宅街には世紀を経て、いまなお美しく並ぶタウンハウスを眺めることが出来ます。富豪たちが競って築いた彼らの夢の邸宅の建設、邸宅は時の流れと共に姿を消し、やがては売却され、またやがては取り壊されアパートメントに姿を変えていきました。
東93丁目、マジソン街とパーク街の間にそんなかつての'夢'の邸宅の跡を今も見ることが出来ます。それらは時代の大きな変わりめにあって築かれました。
 1930年、東93丁目の54番地から58番地を購入したのがウィリアム・ゴドビー・ロウ夫妻でした。ロウ夫人フローレンスは銀行家として知られるベイカー家の出身でした。夫妻がウォーカー・ジレット事務所に依頼したのがリージェンシースタイルの石灰岩の美しい邸宅。内に浅くカーブしたエントランスをくぐったのは夫妻と16人の召使いでした。
 同じ年、その邸宅のお隣、60番地から64番地の建物を購入したのが、ヴァージニア・バンダービルド。夫は鉄道王ヴァンダービルト家のウィリアム・K・ヴァンダーヴィルト・ジュニア。夫と離婚して新たな人生を歩むのに彼女が選んだのが東93丁目のその土地でした。ジョン・ラッセル・ポープを雇い、51室を持つフレンチクラシックの邸宅を建築しました。ロウ家とヴァンダービルト家は1931年に完成しました。もともとベイカー家、ロウ家とも親しくしていたヴァージニアにとってこの邸宅での暮しは穏やかなものであったのではないでしょうか。
 東93丁目66-68番地は作曲家アーヴィング・ベルリンが購入、ベルリンの妻エリン・マッケイは隣人となるバージニア・ヴァンダービルトともともと縁がありました。彼女の祖父ジョン・W・マッケイはネバダシルバー商会を、バージニアの父ジェムズ・フェアと共同経営していたのです。ベルリンは邸宅建設に向けて計画を進めていましたが、ニューヨークから世界に波及した経済恐慌がそれらを断念させることになりました。彼の娘メアリ・エリン・パレットは後に記した回想録の中で邸宅は建設を申請することもなく、一家はワーウィックホテルに住むことになったと記録しています。ベルリン家は土地の所有権だけは1950年代後半まで維持していたといいます。
 東93丁目67番地からパーク街までの土地にはゴドビー夫人の弟ジョージ・F・ベイカー・ジュニアの邸宅が建てられました。67番地のエントランスにはドルフィンを形取ったモチーフが取り付けられています。ヨット愛好家で海をこよなく愛していたベイカー・ジュニア氏の趣味だったのでしょうか。
 そしてそれら彼らが謳歌した日々にも終わりが訪れます。1935年、ヴァージニアが交通事故で早世した息子のあとを追うようにこの世を去ります。フローレンスは1936年に、そしてベイカー・ジュニアもその翌年1937にこの世を去りました。1955年にロウ家は邸宅を売却、ベイカー家もその後に倣いました。現在はそれぞれ宗教施設、教育施設として利用されています。
 これら人物の更なるエピソードは別の機会に…。

*Townhouses(E93rd,BW Park&Madison ave)
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Unsinkable Molly

2012年02月28日 | person
Margaret.Tobin.Brown(1867.7.18-1932.10.26)の名を知らない人もタイタニック号の悲劇の中、果敢に救命活動に協力した不沈のモリー・ブラウンのことをご存知の方はいらっしゃるかもしれません。1960年代にヒットしたミュージカル「Unsinkable Molly」の主人公であり、映画「タイタニック」では名優キャシー・ベイツが演じたMolly.Brownは実在の人物であり、Mollyは彼女の生涯を通じた愛称でした。

 1932年7月18日、彼女はミズーリー州ハニバルにアイルランド系移民の貧しい家庭に生まれました。コロラド州に移り、後に夫となるJames.J.Brownと出会い結婚します。夫ジェームズが鉱山を掘り当てたことから、彼らは一躍大富豪の仲間入りを果たします。華やかな上流社会に憧れたマーガレットは夫と共にデンバーに移り、そこに大豪邸を建て、豪奢に飾りたてた社交を繰り広げていきました。しかし有り余る財だけで、閉鎖的な社交界には受け入れられることはなく、「成り上がり者」として陰口はやみませんでした。マーガレットはその壁を突破すべく社交術の教えを請い、また欧州に旅行を重ね、飽くなき上昇志向をもって社交界に受け入れられるべく努力を重ねますが、その固い扉が開かれることはありませんでした。
 夫の心はやがてマーガレットから離れて行き、別居に踏み切ります。夫妻は離婚こそしませんでしたが、和解のときを迎えることもありませんでした。
 1912年、パリでの滞在を終えシェルブール港に寄港したタイタニック号に乗船したマーガレット自らが乗船していた船の沈没という惨劇に見舞われたのが1912年4月14日。救命艇のオールを自らとり、パニックとショックに陥る乗客たちを叱咤激励し生きながらえたことから彼女はUnsinkable Molly(浮沈のモリー)と呼ばれるようになります。
タイタニックの悲劇の後もマーガレットは変わることなく「それまでのように」生き続けます。世界を旅し、慈善事業家としての活動や女性の権利の拡張を目指した活動も続けていきました。第1次世界大戦の際には従軍看護婦の募集に応募し戦地に赴くことを熱望しました。しかし拒否されたマーガレットは自腹をきってヨーロッパへ渡り前線で闘う兵士のもとへ駆けつけたといいます。疎遠になっていた夫の死後もそれは変わらなかったようです。

 1932年10月26日彼女はニューヨークのBarbizon Hotel(E63rd st&Lexington ave)で息を引き取ります。騒々しくも、全身でその人生を生きた女性の最期は、看取る者1人もいない静かなものでした。彼女は今、生前ついぞ理解し合うことのなかった夫の墓石の隣に眠り、ようやく邂逅のときを迎えています。
人は彼女の「飽くなき上昇志向」を時に侮蔑し敬遠しました。しかし、それは時に今なお語り継がれる彼女の’生き抜く力’に根ざした「飽くなき探究心」への称賛と表裏一体でもある、そんなふうにも思えてなりません。

* Barvizon Hotel(NE)...E63rd st&Lexington ave)
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Barbizon

2012年02月28日 | 60th st-
“自由と平等の国アメリカ”、私たちが目にする、また接するアメリカ社会の女性像は、現在もなお日本社会におけるそれの遙か先を行き、男女平等の理念を基として社会で活躍する姿を見ることが出来ます。しかし実際のところ、自由と平等が完全であることは大抵の場合において困難であることも事実で、男女平等という理念は継続的に存在してきたものでも、また保障されていたものでもありませんでした。
 かつてアッパーイーストにその宿泊を女性に限定したホテルがありました。男性が立ち入ることを許されるのはロビー階のみ。それがBarbizon Hotel(140E,63rd at Lexington ave)。306室を擁したこのホテルは、イタリアンルネサンス様式を主にした中にゴシック、イスラム様式の影響を受けた美しい建物でNYの歴史的建造物の指定も受けています。
 開業は1927年。このホテルは大都市ニューヨークに降り立った女性たちが利用した滞在施設でした。その利用には複数の身元保証人が求められ、男子禁制、服装や行動にも厳しい制限が設けられ、エレベーターの前には寮母さながらの監視人がいたといいます。ようやく男性の宿泊が認められたのは1981年のことであったといいます。
 変革と進取の地ニューヨークに、旧時代の遺物が頑なに存在していたことに驚きすら感じます。その開業の頃、時は1920年代。時代の変遷と共に女性の権利拡張にようやく光があてられようとしていました。極端に制限され、また限定された選択肢の中で生きてきた女性たちが従来の枠を飛び越え、「開拓の時」に達しようとしていました。
 女性たちは自立に目覚め、古くから自分たちを支配していた旧い価値観に疑問を持ち始めます。やがて自ら”職”を得て社会の一構成員として認められることを望んだ多くの女性たちが、その機会を求めて大都市に舞い降りたのもこの頃のことでした。とはいえ、何世紀にもわたり受け継がれてきた観念は一瞬にして激変するものでもなく、それは幾多の人々の、幾多の労苦と弛まない闘いが重なり続けた結果、社会に変革を働きかけ小さな歩みが確実に重なり今に至るのです。そしてそれは今なお続き、まだ見ぬ未来にまで続いていく、いや続けていかなければならない壮大な作業でもあります。
 20世紀、女性にとって劇的な変化の訪れたその世紀の証人でもあったバルビゾンホテルはMelrose Hotelと名を変えホテルとしての営業を続けます。しかしその日はやはり訪れました。幾つかのマンハッタンの歴史あるホテルがたどった道と同じく、ホテルとしての営業を終え、コンドミニアムとしての再開発が発表されました。2005年夏、その稀有な歴史の証人はその目をゆっくりと閉じました。

*Former Barbizon Hotel(140E,63rd at Lexington ave)
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