狭間に揺れて

どうか英雄とならぬように。英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守りくださいまし。‪‬‬‬‪‬(芥川龍之介)

JR山手線: 10の秘密 毎日乗ってるアナタも知らない 「昔は黄緑色じゃなかった」(サンデー毎日 2017年10月8日)

2017-10-08 | 虚しきもの(時事・国内)


東京を代表する鉄道路線はというと、JR山手線だろう。とはいえ、よく乗る人さえも深く知らないのではないか? たとえば、起点が品川駅で終点が田端駅であることすら分かっていない人が珍しくない。身近な山手線の意外な秘密を明かそう。



「やまのてせん」、それとも「やまてせん」?

正しくは「やまのてせん」なのだが、東京在住者でも「やまてせん」と口にする人が珍しくない。誤称されるようになった背景には、日本の敗戦がある。

山手線の前身である「品川線」(品川駅から赤羽駅、現在の山手線に赤羽駅は含まれない)が開通したのは1885年。山手線という路線名が制定されたのは1909年で、読み方は「やまのてせん」だった。東京の山の手(武蔵野台地の端)を走っており、また、皇居から見て山側に位置する路線だったからだ。

命名された当時は、烏森(からすもり)(現・新橋)駅から池袋駅などを経由し、上野駅までを走っていた。環状線でなく、「C」の字のような路線。現在と同じく、円を描くような路線になったのは、25年のことだ。

読み方が2通りになってしまったのは戦後。日本を占領した連合国の指示で、各路線をローマ字でも表記するようになったためだった。山手線は「YAMATE=Loop=Line」と表記された。和訳すると、「やまて環状線」だったのだ。

71年、旧国鉄(現JR)が誤称を是正しようと、あらためて「やまのてせん」とふりがなを振り、ローマ字表記も「YAMANOTE LINE」にあらためられた。が、いまだ誤称する人が多いという次第。鉄道関係者たちが通称として「やまてせん」と呼んでいたことも影響したらしい。

歌詞内に山手線と中央線が登場するヨドバシカメラのCMソングも実は90年代前半まで「やまてせん」だった。誤解していたようだ。もちろん現在では正しい読み方にあらためられている。



2020年に30番目の新駅。「高輪駅」か?

山手線に新駅が誕生すると発表されたのは、2014年6月。場所は品川車両基地跡地。駅名は決まっていないが、今年2月には工事が始まった。

山手線に新しい駅が誕生するのは、1971年の西日暮里駅の開業以来で49年ぶり。30番目の駅となる。開業は東京五輪・パラリンピックの開催に合わせた2020年の予定だ。

地上3階、地下1階となる駅舎のデザインは、新国立競技場を設計した建築家の隈研吾さんが手がける。ただし、20年の開業は暫定的なもので、駅前広場のオープンなどを含めた本格開業は24年となる。

新駅は品川駅と田町駅のほぼ中間地点に誕生する。現在、この区間は約2.2キロあり、山手線内の駅間で最も距離が長いのだ。とはいえ、単に距離が長いから新駅ができるわけではない。新駅誕生の背景には今後予想される品川駅の利用客増加がある。

品川駅は山手線のみならず、JR東日本の東海道線や横須賀線・総武線、京浜東北線、常磐線、JR東海の東海道新幹線、京浜急行電鉄などの停車駅だが、さらに2027年にはリニア中央新幹線の東京側の始発駅となる。その上、六本木などの都心部と品川を結ぶ新たな地下鉄の建設計画も浮上中。今後、品川駅の利用客はますます増えることが確実視されている。このため、利用客分散のためにも新駅は不可欠なのだ。

新駅の駅名を決めるのは、もちろんJR東日本。現時点では選考方法など、何も発表されていないが、開業の1、2年前に地元自治体や地域住民などの意見を聞いた上で決めるのが一般的だ。

地域住民が望む新駅名の一つは「高輪駅」である。それを望む一部住民の請願書が既に港区議会に提出されている。新駅の住所は「港区港南」なのだが、地名として知名度の高い高輪と芝浦が隣接しているのだ。このため、「芝浦駅」を望む声も上がっている。

「高輪駅」か「芝浦駅」か、それとも本来の所在地である「港南駅」か。あるいは地名と無関係の駅名となるのか? 地域住民ならずとも気になる。



山手線は黄緑色じゃなかった

シルバー世代ならご存じだろう。かつての国鉄の車両は大半が濃い茶色(ぶどう色)だった。

山手線も例外ではない。

ただし、山手線の塗装は1948年から緑色に。当時は京浜線(現・京浜東北線)と一部区間の線路を供用していたので、乗客が乗り間違えるのを防ぐためだった。しかし、これは一時的な措置にすぎなかった。

そして、高度成長期に入っていた57年、大量輸送に耐えうる高性能の新車両「101系」が登場。オレンジ色で塗られ、まず中央線での運転が開始された。61年には山手線にも導入されるが、この時、中央線と区別するため、カナリア・イエローで塗られた。JIS規格で「明るい緑みの黄」とされる色。当時の山手線は「黄色い電車」だったのだ。

2年後の63年、今度は101系の改良型後継形式「103系」が山手線を走り始める。このころ、各路線別のシンボルカラーが取り入れられることになり、山手線はウグイス色(黄緑色)に決まったのだ。

それでも一度に色を合わせるのは難しく、山手線を走るすべての車両がウグイス色となったのは、69年のことだった。



山手線にも上りと下りがある?

都まで向かうことを「上る」、その逆は「下る」と言う。江戸時代まで都は京都だったが、明治以降は東京なので、通常は東京へ近づく列車を「上り」、離れる列車は「下り」と呼ぶ。

山手線の起点は品川駅で、新宿駅や池袋駅を経由し、終点は田端駅。田端駅から品川駅へ向かう場合が「上り」と考えられそうだが、実際には進行方向によって「内回り」「外回り」という呼び方を用いる。混乱を避けるためである。

しかし、内回りと外回りの意味がよく分からない人、乗降時に区別が付かなくなる人もいるのではないか。単純に言うと、時計回りに進行するのが外回り、反時計回りに進行するのが内回りだ。また、それぞれ実際に内側と外側を走っている。

簡単に区別する方法もある。現在、山手線29駅のうち、24の駅にホームドアが設置されているが、内回りのホームドアにはウグイス色のラインが1本、外回りには同じく2本引かれている。一目瞭然なのだ。

ちなみに山手線は通常、一日に外回りが328本、内回りが322本、計650本が運行している(平日)。その数は同じではない。



乗務員はどこで交代?

通常、鉄道は運転士と車掌がペアで、一定の間隔で違うペアと交代している。

さて、ぐるぐる回る環状線の山手線では、どこで交代するのだろう?

結論から言えば、乗務員が交代しているのは大崎駅と池袋駅。両駅にはそれぞれ大崎運輸区と池袋運輸区があり、そこに乗務員の詰め所が設置されている。

乗務員は原則的に山手線を1周するたびに交代することになっている。山手線1周に要する時間は60分強なので、乗務員は約1時間おきに別の乗務員と代わっている。

ただし、運転士と車掌は同時に交代するわけではない。基本的に大崎駅で交代するのは内回りの運転士と外回りの車掌。同じく池袋駅では外回りの運転士と内回りの車掌が交代する。



ラッシュ時に最も混雑する区間は?

国土交通省によれば、鉄道における混雑率の目安は次のように定義されている。

180%は「折りたたむなど無理をすれば新聞が読める」。まだ余裕があるのだ。200%も「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」。だが、250%となると、さすがに苦しく、「電車がゆれるたびに体が斜めになって身動きができず、手も動かせない」。

山手線の混雑は相当なもので、2003年度には外回りの上野駅-御徒町駅間で混雑率223%を記録した。この数字は午前8時から9時の平均値だが、8時30分から40分という最ピークには300%を超える車両もあったという。

こうした状態を緩和する目的で15年に開業したのが上野駅と東京駅を結ぶ上野東京ラインだ。これにより、常磐線や宇都宮線、高崎線の乗客は上野駅で乗り換えることなく東京駅まで行けるようになった。その分、山手線の乗客は減った。

16年度の山手線の上野駅と御徒町駅間の混雑率は159%(午前7時40分~8時40分)にまで下がった。一方、上野東京ラインが開業するまでは山手線で2番目の混雑率だった内回りの新大久保駅から新宿駅間は165%(同)。今はこの区間が最も混む。



落とし物はどこへ?

傘から携帯電話、バッグまで、山手線に落とし物がない日は皆無。さて、一日中回っている山手線で落とし物をすると、どうなるのだろう。

その落とし物に気づいた別の乗客が下車駅に届け出ることもあるが、多くの場合、職員が車両点検を行う池袋駅、大崎駅で発見されることが多い。

見つけられた落とし物は専用のデータベースに登録され、オンラインで管理される。結果、山手線のどの駅に問い合わせても、容易に照会できるようになっているのだ。

山手線内での落とし物は原則的に発見された駅で2日間保管される。その後、トラックに載せられて車庫で1泊した後、東京駅あるいは上野駅に設けられた「忘れ物承り所」に運ばれる。そこで2日間、保管。その間に落とし主が現れなかった場合、警視庁の遺失物センターへ送られる。

つまり、落としてから6日目にはJRから警視庁へと管理が移されるというわけだ。



電子看板付き新型車両「E235系」

15年末に1編成のみ先行して運行していた山手線の新型車両「E235系」が、今年5月から本格導入された。17年度末までに15編成が投入される予定だ。

シンボルカラーのウグイス色を大胆に配色。車内の背もたれや吊(つ)り革にもウグイス色を配した。すぐには気づかないかもしれないが、荷棚の高さも変更されて、約5センチ下がった。乗客の使いやすさを考えた末の改良だ。

車内にはデジタルサイネージ(電子看板)が登場。1両あたり最大36台設置される。一日中、同じ内容の中吊り広告と違い、デジタルサイネージは「朝はサラリーマン向け」「昼は主婦向け」といった具合に、時間帯によってターゲットを変えられる。

が、デジタルサイネージより中吊り広告のほうが目を引くという分析もあるため、中吊り広告は消えず、現在も紙とデジタルが共存している。



「鉄道遺産」が見られる駅とは?

日本初の鉄道が新橋駅 から横浜駅間で産声を上げたのは1872年。当時はもちろん、その後の鉄道黎明(れいめい)期も日本はレールを製造する技術を持たなかった。もっぱら海外からの輸入に頼っていた。

レールは丈夫な鋼材でできているものの、数トンもある列車を支え続けるのだから、やがて限界を迎える。新しいレールに取り換える必要がある。しかし、せっかく輸入したものを廃棄するのは惜しいと当時の鉄道マンたちは考えた。

「レールとしては使えなくても、建材の一部としてなら十分な強度と耐久性をもっている」。そんな考えを抱いた当時の鉄道マンたちは一時期、古レールを駅の建材として再利用した。

現在、田端駅のホームの屋根と屋根とをつなぐ部分や、目黒駅近くの白金桟道橋などに用いられている古レールは、その名残なのだ。



幻の第2山手線計画

1926年、山手線のさらに外を走る環状線を敷設する計画が具体化した。その後の東京への人口集中を見越したような案だった。

そのプランを実現させようとしたのは東京山手急行電鉄。完全な環状線ではないが、大井町駅を始発として、目黒、駒沢、代々幡、杉並、中野、南綾瀬を経由して、洲崎(現在の東陽町)へと至る壮大な計画だった。

反対派もいたが、翌27年には敷設許可が下りる。いよいよ着工の運びとなったものの、その矢先に昭和金融恐慌が起こり、資金面で計画はストップした。もしも昭和金融恐慌がなかったら、東京の鉄道路線図は現在とは違ったものになっていたはずだ。

計画を実現できなかった東京山手急行電鉄はのちに帝都電鉄と改称し、現在の京王井の頭線を建設。40年には小田原急行鉄道(小田急電鉄の前身)に合併された。
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