狭間に揺れて

どうか英雄とならぬように。英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守りくださいまし。‪‬‬‬‪‬(芥川龍之介)

ナガサキ、フィルムの記憶(朝日新聞 2017年8月9日)

2017-08-09 | 虚しきもの(時事・国内)
1945年8月9日、一瞬にして長崎の街や人々を焼き尽くした原爆。投下直後、朝日新聞社のカメラマンが撮影した貴重なフィルムや、米軍の記録写真で被爆の実相に迫ります。



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原爆で破壊された長崎・浦上天主堂。爆心側の南入口に立つ聖ヨハネ像(右)と悲しみのマリア像。熱線で剥離(はくり)した白いところと溶けた黒い部分がある。右側れんが壁の台石が爆圧で動いたのが見える。1973年に返還されたアメリカ軍資料カラー写真=1945年、アメリカ軍撮影



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原爆で破壊された長崎医大付属病院。内部が爆風と火災で壊滅。入院、外来患者約500人が死亡。手前の三菱長崎造船所浜口町工場は338人全員が死亡した(1973年返還のカラー写真)=1945年、アメリカ軍撮影



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原爆で破壊された長崎医大付属病院。内部が爆風と火災で壊滅。入院、外来患者約500人が死亡(1973年返還のカラー写真)=1945年、アメリカ軍撮影



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長崎・東ながまち教会付近(1973年返還のカラー写真)=1945年、アメリカ軍撮影



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被爆後の長崎市内(1973年返還のカラー写真)=1945年、アメリカ軍撮影



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被爆後の長崎市内。長崎医大病院から城山方向を望む(1973年返還のカラー写真)=1945年、アメリカ軍撮影



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被爆後の長崎市内。長崎・三菱浦上工場跡か(1973年返還のカラー写真)=アメリカ軍撮影



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被爆後の長崎市内。三菱浦上工場跡か(1973年返還のカラー写真)=アメリカ軍撮影



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被爆後の長崎市内。長崎・城山国民学校南棟。2、3階に疎開していた三菱長崎兵器製作所給与課の66人が死亡した(1973年返還のカラー写真)=アメリカ軍撮影



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長崎で被爆、脱毛した男性(1973年返還のカラー写真)=アメリカ軍撮影



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1960年12月6日、アメリカ政府が公開した1945年広島と長崎に落とした初期の形の原爆写真のうち、8月9日長崎に投下された原爆「ファット・マン(愛称)」。重さ4.5トン、直径1.5メートル、長さ3.25メートル。8月6日に広島で使用された原爆は「リトル・ボーイ」=アメリカ政府関係者撮影



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テニアン基地のティベッツ大佐に出された広島、小倉、新潟、長崎いずれかへの原爆投下命令書=1945年7月、アメリカ軍撮影



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長崎原爆のキノコ雲=アメリカ軍撮影



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長崎原爆が爆発した瞬間。連続写真=1945年8月9日、アメリカ軍撮影



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長崎原爆が爆発した瞬間。連続写真=アメリカ軍撮影



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原爆さく裂から数分後、1万メートル前後の上空に達したキノコ雲(連続写真)=アメリカ軍撮影



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長崎市上空でアメリカ軍が撮影した原爆のキノコ雲=1945年8月9日



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長崎県の大村海軍病院から望めたキノコ雲。アメリカ軍が投下した原爆により生じた。終戦直後、アメリカの原爆災害調査団が広島、長崎で収集、撮影し、ワシントンの陸軍病理学研究所に保存されていた写真類が日本側の長年の要望により返還された=1945年8月9日、長崎県大村市、アメリカ軍撮影



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一面焼け野原となった長崎市。中央部分に浦上天主堂の廃虚が見える=アメリカ軍撮影



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配給の米袋を肩に仮住居へ帰る少女ら(右の女性は、写真展が縁で1981年に長崎市の中崎郁子さんと判明した)=朝日新聞社・松本栄一撮影



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原爆で亡くなった親の遺体を荼毘にふす子供。死者が絶えず市内各所の焼け跡などで、毎日のように荼毘の火が燃え上がった=1945年8月、松本栄一撮影



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銭座町付近で、がれきの間の道路を歩く赤ちゃんを背負った女性=1945年8月、松本栄一撮影(松本氏が1995年8月に写真の女性と対面)



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背中にやけどを負って新興善国民学校救護所に収容された被爆者=1945年8月下旬か9月上旬、松本栄一撮影



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新興善国民学校救護所に収容された少女は髪がほとんど抜けてしまっていた=1945年8月下旬か9月上旬、松本栄一撮影



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新興善国民学校(臨時救護病院)で手当てを受ける男性被爆者=1945年8月、松本栄一撮影



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長崎の被爆直後、爆心から3.5キロの要塞司令部で。防空監視兵が監視所のはしごを下り、帯剣を羽目板にかけたところに爆発のせん光を浴びた。倉庫の板壁に、せん光の当たった部分だけ、塗ってあったタールが焼けて剥げ、影になった部分が黒く残っている=1945年8月ごろ、松本栄一撮影



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臨時救護所となった新興善国民学校の床に敷かれた布団に横たわる女性。顔や腕に重度のやけどを負ってぐったりしている=1945年8月、松本栄一撮影



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県立瓊浦中学校(現在の県立長崎西高等学校)の玄関付近に散乱した図書=1945年8月下旬か9月上旬、松本栄一撮影



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下の川鉄橋を過ぎた松山町寄りのところで、爆圧により破壊された市内電車。車体の一部が吹き上げられ架線電柱にひっかかっている。爆心地から150メートル付近=1945年8月末か9月上旬、松本栄一撮影



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床の部分が、かろうじて残った市内電車の残骸。車体の一部が吹き上げられて架線電柱にひっかかっている。爆心地から150メートル付近=1945年8月、長崎市松山町、松本栄一撮影



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長崎原爆の爆風で破壊された長崎電気軌道の木造単車。後方は浦上駅付近の国鉄長崎線。山の麓は長崎市立淵国民学校(現・淵中学校)。爆心地から近く、校舎は全焼して多数が焼死した(1973年返還の写真)=1945年、長崎市川口町付近、アメリカ軍撮影



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正面から見た崩壊した浦上天主堂。爆心地から500メートル=1945年8月、松本栄一撮影



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爆心地に近い現在の長崎市城栄町、若草町付近の惨状。近くに住んでいた富重の義兄の家族6人が爆死した(2枚つなぎ写真)=1945年8月下旬、朝日新聞社・富重安雄撮影



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原爆は中央後方の立ち木の上空約500メートルで爆発した=1945年8月、長崎市山里町、富重安雄撮影



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一瞬にして焦土と化した被爆後の長崎市浦上の爆心地付近。すでに白骨化した遺体が散乱し、無惨な姿をさらしていた。正面は浦上天主堂=1945年8月27日、富重安雄撮影



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学校の仮病室に収容され、手当を受ける顔を焼かれた女性被爆者。被爆者の多くは収容後、4,5日のうちに亡くなった=1945年8月、長崎市本興善町、富重安雄撮影



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特設救護病院になった新興善国民学校で手当を受ける被爆した子供。熱傷を負った少年はガーゼ付け替えの苦痛に泣く=1945年8月、長崎市本興善町、富重安雄撮影



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長崎に投下された原爆で長崎医科大学病院が全損したため、急ごしらえの救護所で治療を受ける被災者=1945年9月、富重安雄撮影



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被爆した長崎市の浦上駅でベンチに座り込む人々。プラットホームは建物の裏側にあたる=1945年8月、長崎市本興善町、富重安雄撮影



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長崎原爆の爆心から1.5キロ、井樋ノ口付近で全焼した電車。長崎方面に向かって走っていた電車で、乗客は電車と一緒に焼死したのだろうか、白骨がまだ電車に残っている=1945年9月1日、長崎市井樋ノ口、富重安雄撮影



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爆心地の浦上天主堂。東洋一の大聖堂も一瞬にして崩壊した=1945年10月、富重安雄撮影



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被爆した藤崎歳子さんは頭髪がみな抜け、ガラスの破片が顔面や腕に刺さっている。大村海軍病院にて(写真の下部が破損)=1945年9月、長崎県大村市、富重安雄撮影



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原爆で破壊された長崎の浦上天主堂。爆心は前方の丘、山里町住宅街の向こう側。天主堂は爆心から約500メートル。入り口の像は「悲しめる聖母像」=アメリカ軍撮影



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爆心地の浦上天主堂付近。数軒バラックが立っている=1945年8月、アメリカ軍撮影



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爆心地付近の焼け野原にはがれきの堀っ立て小屋ができた。上は浦上天主堂=1945年8月、アメリカ軍撮影



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爆心地・浦上を撮影するニュース映画班のアメリカ兵。後ろは浦上天主堂=1945年9月8日、アメリカ軍撮影



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焼け野原の惨状を撮影するアメリカ軍カメラマン=1945年9月、富重安雄撮影



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長崎原爆が半分ちぎった鳥居=アメリカ軍撮影



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長崎原爆・焼け跡に置かれた消息を伝える伝言板(1973年返還の写真)=アメリカ軍撮影



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雨上がりのがれきの中を歩く5人の男女。女性と見られる4人は頭にタオル、うち2人は白いマスクをし、男性は帽子をかぶっている。説明には「空気を吸うと、髪の毛や歯が抜けるという噂から、マスクをしたり帽子をかぶって歩く人たち」とあり、原爆に対する当時の市民の意識を知るうえで貴重な資料だ=1945年9月16日、アメリカ軍撮影



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長崎原爆で焼け野原になった長崎・浦上教会下地区(1973年返還の写真)=アメリカ軍撮影



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長崎原爆で破壊された県立聾唖(ろうあ)学校と玉浦中学校。爆心地から800メートル=アメリカ軍撮影



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廃虚と化した長崎の爆心地を長崎駅に向かう列車。焼けた木立に囲まれた中の○印はアメリカ側がつけたもの。その内側に1メートル足らずの白い標識が立っている所が、日本側学術調査団で測った爆心地点=アメリカ軍撮影



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原爆で破壊された長崎医科大学=1945年、アメリカ軍撮影



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原爆の爆風で曲がった長崎市内の鉄橋の橋げたを調べるアメリカ兵。右上は城山国民学校=1945年、アメリカ軍撮影



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原爆で破壊された長崎市内の鉄筋コンクリートの建物。城山国民学校と思われる=1945年、アメリカ軍撮影



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原爆の爆風で破壊された長崎市の城山国民学校=1945年、アメリカ軍撮影



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原爆投下後の長崎市内の写真。被爆を免れた横穴式防空壕=1945年8月、アメリカ軍撮影



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原爆で破壊された兵器工場=1945年10月14日、アメリカ軍撮影



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爆風で全部同方向に倒れている県立瓊浦中学校の校庭の樹木。瓊浦中学校では、教職員、生徒約400人が犠牲になった。戦後、学制改革により長崎西高となった=1945年、アメリカ軍撮影



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原爆で背中を焼かれた被爆直後の谷口稜曄さん。奇跡的に生存した。被曝2、3カ月後の写真=アメリカ軍撮影



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原子爆弾で顔の左半分がケロイドとなり引きつった被爆者の女性=1945年12月~46年4月頃、アメリカ軍撮影



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無傷だった人も放射能の影響で吐き気・下痢をおこし、やがて紫色の斑点がでて髪の毛が抜けた=1945年頃、アメリカ軍撮影



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原爆投下後の長崎市内の写真。原爆で焼けた栗の木にも2カ月後には新芽が出た=1945年10月1日、アメリカ軍撮影



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原爆から1年後の長崎市の航空写真=1946年8月3日、アメリカ軍撮影
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