ALGOのほぼ週一日記〜愚公移山〜

−中学受験クリニック−

中学受験の由無し事を
    徒然に綴ります。


音読暗唱(1)

2011年11月02日 | 中学受験 合格力随想

アルゴでは、脳の活性化と言語認識力の増強のため、速読講座を開設しています。また、並行して音読暗唱も奨励しています。この2つの学習は一見似ているようで実は全く違うものです。今回はアルゴがお勧めする音読暗唱について少し述べたいと思います。

音読暗唱の目的は、端的に言えば読解力と表現力をつけることであり、その意義は、同じ文章を反復して覚えることによって、より深い理解に到達するということにあります。また、同じ文章を反復することで身につけることにより、高度な表現力も育つと考えています。なぜならば、音読暗唱によって、語彙がもともと持つ文化性がさらに豊かになるからです。

 文化性というものは、その語彙が持つ意味を含めた多様なニュアンスと私は捉えています。イメージとしては、水素原子が1本の手を持ち、酸素原子が2本の手を持ち、H2Oという分子として結合するというときの原子を語彙そのもの、その持つ手足を各人の文化性と考えていただければと思います。 したがって、語彙の持つ文化性の手足の数は、人によって違います。

ある一つの語彙、例えばニワトリという言葉から、子供はニワトリのイメージを持つだけでしょう。子供がニワトリという語彙に持つニュアンスはそれほど多くありません。しかし、大人は、ニワトリという言葉から「鶏口となるも牛後となるなかれ」などという意味をも連想することができます。更に、「にわにわにわにわとりがいる」というような言葉遊びを思い出すかもしれません。これが、言葉の持つ文化性の豊かさの違いです。

語彙の乏しい人は、語彙から伸びている文化性の手足の数が少ないので、他の語彙との関連を作り難くなります。それが理解力や表現力の限界に繋がります。語彙が持つニュアンスの手足を増やしていくことは、その語彙を使ってより深く理解することや、より高度に表現することになるのです。

これを図式的に説明すると、まず、海面を語彙の文化性がゼロメートルの地点とします。理解を海の底の状態とすると、海底には深さによる凹凸があります。語彙の持つ文化性の低い人は、浅い海底までししか到達できません。ですから、同じ文章を読んでも、浅い理解にとどまります。これが読解力の差として表れてきます。また、表現に関していうと、表現は山の高さのようなものと考えられます。語彙の持つ文化性の高い人は、表現の山の頂上近くまで登ることができますが、それに対し文化性の低い人は、山のふもとあたりまでしか辿り着くことができません。

理解も表現も、どちらもその人自身の持つ語彙の文化性に応じて、深いところへ行ったり高いところへ行ったりします。これは、個人それぞれの到達点なので、殊更本人はそのことに不便を感じるわけではありません。しかし、より深く潜っている人や、より高く登っている人と比較して、自分もそこまで行きたいと思ったときに、その不足が問題になってくるのです。

私は、暗唱の意義を語彙の持つ文化性を豊かにすることと考えているため、暗唱を、幼児や小学校低学年の間だけの学習とは考えていません。むしろ中学生や高校生になって、より難しいジャンルの文章を書く必要が出てきたときに、そのレベルに合わせた暗唱が必要になると考えています。ですから、音読暗唱という学習法は、中学生、高校生まで継続する学習と考えるべきだと思います。ところが、暗唱の意味を単に記憶力を育てるという面からのみ捉えているといろいろな問題点が出てきます。(つづく)

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