わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

ギョ焚く 7. 科学的医学の宿命

2016年05月16日 | 医学と健康

 

医学は科学である

と言われていますが、ロバート・メンデルソン医博は

「医学は宗教である」と断言しています。

 

どっちなんだ!

 

その前に、科学とは一体なんなんだ?

 

一言で言えば「この世は物質オンリーじゃ」というのでしょう。

唯物思想から出来上がっちゃった(嗤い)

 つまり片輪だから、生命現象にはからっきし意気地がない(笑い

なぜなら、生命分野はもう片輪の方が主となっているので両輪あっての安定と進行もフラフラしなくなる。 (おい、このブログ主のフラフラをどうにかしろよ! ←なんて事故突っこみ)

 

片輪の物質科学で生命、健康は理解できない。タダのロボット医学になっちゃうんだ悶寝。

 

 

7. 科学的医学の宿命

https://web.archive.org/web/20050124155236/http://iryoumisu.hp.infoseek.co.jp/page8.html

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

 

音声読み上げ


7. 科学的医学の宿命

関連リンク:杉岡幹生氏『相対性理論の誤りを指摘』
1. 科学への幻想

科学の進歩はたしかに目覚しいものです。

日々、誰もが一様にその成果を十分に享受しており、生活の便利さや快適さも肌で実感しています。

そのため、人々は、科学は「万能である」と思いがちですが、もちろんそんなことはありません。

科学には多くの分野があり、それらすべてが均等に発達してきたわけではなく、分野によっては停滞や退歩を繰り返したり、完全に行き詰まった分野もあります。

ちなみに科学の体系は次のようになっています。



科学=形式科学→数学・論理学

経験科学→自然科学(天文学・物理学・化学・生物学・医学・地質学など)

社会科学(経済学・政治学・法学・社会学・心理学など)

体系ではまず、科学を形式科学と経験科学に大別しています。

形式科学とは、実体験をともなわない、単なる頭のなかの思考の組み立てであるのにたいし、経験科学とは、自然の観察や実験など、人間の経験によってわかった、たしかな事実を土台にして成り立つものをいいます。

そして一般に科学という場合、それはふつう、経験科学のなかの自然科学のことを意味します。

この自然科学のなかにも多くの分野があることがわかりますが、じつはそのために、人々が科学を誤解したり、科学者自身も、科学の本当の目的を見失ってしまう、ということがよくあります。

そして皮肉なことに、その複雑で紛らわしい分類をしたのも科学です。


第一章で、量子力学の登場によって、唯物科学は事実上終ったのだ述べましたが、それは、物事を何でも分割することによって起こる混乱のなかで、正しい方向がわからなくなる、ということをいいたかったのです。

ただし、機械面での物理学の応用は現代文明にとって不可欠であり、理論の実用化という観点から、その意義を否定するつもりはありません。

この問題について考える前に、自然科学の現況を確認しておきます。


自然科学のなかでも、物質や宇宙の仕組みを研究する物理学、およびそれによって得られる知識は、ほかのあらゆる分野に影響を与え、各時代の文明の基礎学問になるため、物理学の発達の状況は、文明を左右するほど重要です。

今日の私たちの生活を便利にしてくれているのは、物理学の発展による原子力利用技術、電子工学部門のコンピュータ技術と自動化技術、遺伝子工学部門のバイオテクノロジー技術、宇宙工学部門の宇宙開発技術などです。


しかしながら、これらの分野における科学技術の進歩や発展はいわば諸刃の剣でもあり、それらが発展すればするほど、地球環境は汚染、破壊され、エネルギー枯渇の問題が逼迫するなど、人類の生存までもが脅かされる方向へどんどん進んでいます。


科学は本来、自然の原理を解明し、その結果を人間の幸福のために役立てる、いいかえれば、人類に夢と希望を与えるものでなければならないはずです。

そのような考えからすれば、科学(つまり現代物理学)は決して万能ではないばかりか、逆にどこかに矛盾をはらんだ、欠陥科学でもあるのです。

このことは最近、多くの人々も明らかに実感し始めています。

ではいったいなぜ、科学は欠陥科学になってしまったのでしょうか。

それは一言でいいますと、科学が本来の領域を逸脱してしまったからなのです。


デカルトやニュートンによって確立された近代科学は、今からおよそ半世紀ほど前から、すでに古典物理学と呼ばれています。

今日、「古典物理学」という言葉に出会ったら、それはニュートン力学のことを指していると思えばいいでしょう。

「近代」なのに「古典」とは妙ですが、それはつぎのようないきさつによるものです。


ニュートン力学の真髄は、「物質現象はすべて解明できる」とするもので、この理論が1世紀ばかり、つまり19世紀末ごろまで主流を占めました。

その後、測定機器の発達とともにミクロの領域が研究されるようになり、ニュートン力学では説明不可能な現象がつぎつぎに観測され、多くの科学者が、それらの現象の解明に乗り出しました。


光が波の性質を持つことを発見したトーマス・ヤング、電磁波を研究したマイケル・ファラディやジェームス・マックスウエル、光はつぶつぶの「量子」であると発表したマックス・プランク、さらに、「個々の粒子は確率的にしか存在しない」という驚くべき考え方を提示したマックス・ボルンをへて、ミクロの物質はつまるところ、「粒子であると同時に波でもある」というのが、物理学の考え方の基本になりました。


そして、ハイゼンベルグの「粒子と波の姿を同時に見ることは絶対にできない、したがって物質(粒子)の位置とスピードを同時に測定することはできない」とする『不確定性原理』や、後世になって「量子力学の父」と呼ばれたニールス・ボーアの『相補性の原理』(一方を知ろうとすると他方が不明確になる、つまり互いが互いを排除するという逆の意味)などによって、ついにニュートン力学の土台は、根底から崩壊することになったのです。


これが20世紀のはじめに近代量子論へと発展していくわけですが、そのような考え方に疑義を呈したのが、古典物理学の理論を進化・発展させて、『相対性理論』を発表したアインシュタインです。


「科学はあくまで理論的であるべきだ。

いかなる自然現象の神秘も、科学的研究による理解の延長線上にある」との信念に固執したアインシュタインは、マイケルソンとモーレーの実験結果にわが意を得たりとばかり、のちに重要な概念として論争の中心となった『エーテル概念』を、一刀両断に切り捨ててしまったのです(次節を参照)。


それ以降、エーテルは存在しないと固く信じられるようになったため、『特殊相対性理論』の基本となる、「光のスピードは観測者の運動に関係なく、常に同じ値をとる」とする『光速度不変の原理』が定着することとなり、これが今日までずっと、科学の主流概念となっているわけです。


しかしながら、ごく最近になって(20年足らず前に)、アラン・アスペやハンス・クラインポッペンが、エーテルは立派に実在すること、量子力学の主張は正しいことを、十分信頼に耐えうる見事な実験によって証明するに至って、アインシュタイン理論の崩壊が真剣に議論されるようになった、これが昨今の科学界の現状です。



2. 「仮定」で成り立つ机上の空論

科学はいかにあるべきかという点で、アインシュタイン理論の成否を明確にすることは、大変重要な問題だと思います。

アスペらの実験によって、その間違いが明らかになったとはいえ、今なお量子力学を認めようとしない科学者が多く存在し、それが原因ゆえに、量子力学へのパラダイムシフトが遅々として進まないからです。


とくに日本では、一流の科学者が相対性理論の熱烈な信奉者であり(なぜかよくわかりませんが)、それらの科学者がアインシュタインを礼賛するあまり、その理論に問題があることを、一般の人々に率直に伝えようとしません。

そのため、この理論が、本質的には唯物科学の所産であるということが理解されていないのです。

そして現代医学の問題点も、じつはこのこととは深い関係があるのです。


科学評論家のコンノケンイチ氏が、相対性理論の矛盾についてわかりやすく解説されています。

要点をつぎにご紹介しましょう。



現実の事象を追求する科学には、たとえ一つといえどもパラドックスは許されない。

万一パラドックスが出現したら、すぐに究明して正しい結論を出さねばならない。

最も有名な科学のパラドックスといわれるのが、『アインシュタイン特殊相対性理論』の双子のパラドックスである。


1905年に発表された『特殊相対論』(光速度不変の原理)は、運動する系によって時間の進み方が異なってくるとした。

停止している人の時計よりも、運動している人の時計のほうがゆっくり進むというのである。


このアインシュタインの主張は、時間にたいする人々の常識を根本から覆したが、逆に深刻なパラドックスをもたらした。

こちらが停止して、あちらが運動しているのなら、あちらが停止して、こちらが動いているという逆も成り立つというパラドックスである。


宇宙に、太陽と地球しか存在しないとする。

この場合、地球の周りを太陽が回っていると考えても一向にかまわない。

宇宙には運動を決定する、絶対静止の基準座標が存在しないからである。

私たちが、地球が太陽の周りを回っていると定めているのは、多くの惑星が地球と一緒に太陽を回っていることが、観測で確認されているという理由でしかない。

(むろん正しいが、しかし、太陽系も銀河円盤の縁をものすごいスピードで突進しているのである)。

しかし、「双子のパラドックス」となると、そうはいかないのである。


ここに双子の兄弟がいて、兄のほうがロケットで宇宙へ飛び出す。

ロケットは徐々にスピードをあげながら宇宙を突進していく。

アインシュタイン特殊相対論によれば、ロケットが地球から発進したとき両者の時計はピタリとあっていたが、ロケットがスピードを増して宇宙を突進するほど、地球にいる弟から見ると、兄の時計の進み方が遅くなって、その差は徐々に大きくなっていく。

そして兄の乗ったロケットが目的を達成して地球に帰還すると、じつに妙なことが起こる。


弟より兄のほうが時計がゆっくり進んだので、地球で兄弟が再会したときは、兄より弟のほうが老人に(年齢が上に)なっていた。

まことに奇妙だが、『アインシュタイン特殊相対論』によれば、そうなるのである。


しかし先述のように、宇宙には運動の基準となる絶対的な座標系は存在しない。

弟から見て、兄のほうのロケットが遠ざかっていくように見えるなら、兄から見れば、逆に地球の弟のほうが遠ざかっていくように見えるはずである。

となると地球で兄弟が再会したとき、いったいどっちが多く年を取っているだろう?
『アインシュタイン相対論』は、20世紀の革命的な科学理論といわれてきたが、「双子のパラドックス」の本質は100年近くも放置されたまま、いまだにスッキリと解決されないのは、科学者の怠慢といわれても仕方ないだろう。

というよりも、誰も解明できなかったというべきかもしれない。


『アインシュタイン相対論』の間違いが証明されたら、科学の権威が崩壊するともいわれる。

しかしパラドックスが存在することじたい、すでに『アインシュタイン特殊相対論』の間違いが示唆(決定)されていると考えるべきではないだろうか。

もし正しければ、このようなパラドックスが導き出されるわけもないのである。



じつは、双子のパラドックスは光速度不変の原理から推論され、光速度不変の原理は、マイケルソンとモーレーの実験を根拠にしています。

この実験が見事なものだったため、「どの方向に発射した光にもスピードの差はなかった」という実験結果は無条件に信用され、アインシュタインがこれを根拠に双子のパラドックスや、「物体の運動が光速度に達すると質量は無限大になる」、「光速を超えると因果関係が逆転する」などの荒唐無稽な理論を考え出したのです。


そのような現象が宇宙のどこにも存在しないことは明らかです。

第一、無限大の質量など、現実の世界には存在しえないことは小学生でもわかりますし、子供が親より先に生まれるがごとき理論など、オカシイと思わないほうがどうかしています。


因果関係の逆転についていえば、それが可能となるためには、物体の運動スピードが無限大、つまり到達時間が完全なゼロを超えることが絶対条件で、たかが秒速30万キロメートルを超えただけで、時間の反転など起こるはずがないのです。


もともと、マイケルソンとモーレーの実験には、致命的な欠陥があったとされています。

それは実験装置や測定方法のことではなく(それはほぼ完璧だった)、実験の前提となる想定が間違っていたのです。

目的そのものは、光が波なら何を媒介として遠くまで届くのか、その媒介物として考えられる仮称エーテルは果たして存在するのか、それを検証するというものでした。

実験のもととなる原理について、先のコンノ氏はつぎのように解説しています。


「マイケルソンとモーレー、そして当時の科学者は、光の波を媒介する物質(仮称エーテル)は、地球を取り巻く空間の中にビッシリと充満し、地球はそのなかを突進していると考えた。

したがって地球軌道(東西方向)に向けて発射した光のスピードと、それと直交する南北方向に発射した光のスピードには、当然、所要時間の差が認められるはずであると考えた。

しかし実験では、光のスピードには何の変化もなかった。


わかりやすい譬えで説明する。

コーヒーカップの中のブラックコーヒーをスプーンで回転させ、上からクリームをたらす。

すると白いクリームはコーヒーの回転運動に同化されながら、瞬間的だが渦状銀河そっくりになる。


おわかりいただきたいのは、クリームの渦巻き運動は、コーヒーぜんたいが回転運動をしているからこそ生じるわけで、誰もクリーム独自で渦巻き運動をしているとは思わないだろう。

しかし現代天文学は、ブラックコーヒー(空間)という宇宙の運動の主役を無視して、クリーム(銀河)独自で渦巻き運動をおこなっていると考えているのである。


このコーヒーカップの中のクリームによる銀河のそっくりさんを、私たちの渦巻銀河と考える。

私たちの太陽系はコーヒーカップのなかで回転しているクリーム(銀河の全恒星)の微細な一粒(1,000億分の一個)であり、ブラックコーヒー(空間エーテル)ぜんたいの渦巻き運動に完全に同化して回転している。


地球(クリームの微細な一粒)は、マイケルソンとモーレーが考えていた地球を取り巻く静止エーテルの中を突進しているのではなく、クリーム(銀河)全体を巻き込んでいる、ブラックコーヒー(空間エーテル)という渦巻き運動に同化されながら宇宙を突進していたのである。

大事な点はつぎである。


その運動状態を地球を中心に微視化すると、地球は空間(エーテル)のなかに完全に停止しているのと変わらない状態にある。

たとえば、アマゾン河全体の流れをエーテル流とする。

その流れと遊離してボート(地球)が突進していたのではなく、アマゾン河という全体の流れにまかせてボートは進んでいただけだった。

したがって、ボートと周辺の水流部分とを微視化すると、アマゾン河の流れに対してボートはまったく動いていないことがわかるだろう。


マイケルソンとモーレーの実験で、どの方向に光を発射してもスピードの差が生じなかったのは当たり前だったのである」
数年前、日本で爆発的なブームを起こした『ビッグバン宇宙論』のことは、ご記憶の方も多いでしょう。

じつは、この宇宙論はアインシュタインの『一般相対理論』から導き出されたもので、これもやはり、大変な偏見と誤謬に満ちた噴飯ものだったのです。

バカバカしくなるほどの内容なのでここでは詳しく取り上げませんが、深層心理学者の第一人者である、スイスのユングのつぎの言葉をご参考に、こういった理論の意義をお考えいただきたいと思います。


「西洋人の神話への希求は、初めと終わりという目標を持った進化的な宇宙論を必要とした。

西洋人は、静的な事象の永遠の繰り返しという観念を受け入れることができないと同様に、初めと終わりのない宇宙論に反逆したのだ。

抽象的にいえば、西洋人の自我は《切断》する力が強く、何かにつけて明確に区分し、分離していくのに対し、東洋人の自我はできるだけ切断しないで、《包含》することに耐える強さを持っているといえる」
ビッグバン宇宙論の「宇宙全体を占める空間と時間のなかから、空間と時間そのものである宇宙が誕生した」という、じつに矛盾きわまりない暴論に対し、ユングは明らかに疑問を感じたようです。



3. 科学なのか、数学なのか?

じつは、科学理論には二つの種類のものがあることは、案外知られていません。

一つは、じっさいの観測や実験で得られたデータに基づいて構築されるもので、もう一つは、単なる仮定、または推論を、数値や数学的な解釈によって積み重ね、拡大していくというものです。

この定義によっておわかりのように、前者が本来の正当な自然科学から導き出される理論であるのに対し、後者は現実の事象から離れた、ややもすると机上の空論になりかねない、きわめて危うい性格のものです。


そしてなんと、今日主流としてまかり通り、もてはやされているのがこの後者の理論なのです。

そう、もうお気づきのように、アインシュタインの相対性理論と、スティーブン・ホーキングのビッグバン理論がそれです。

いずれも仮定を発展させただけの、事実とは無関係の理論であるにもかかわらず、その点を表立って指摘する科学者がほとんどいないのです。


しかし最近になって、当然のことながら、これらの理論に矛盾する現象が続々と観測されるようになり、相対性理論もビッグバン理論も、崩壊の寸前にあることは先述のとおりです。

相対性理論については、すでに光速度を超える現象が確認されており、「物体は光速度に近づくほど質量が増大し、光速では無限大になる」を数式化した、かの有名な<E=MC2>も、今や無意味なものになってしまいました。


ビッグバン理論では、『宇宙の赤方偏移』という現象を、「銀河どうしが互いに遠ざかっている」と誤って推理し、ハッブル定数を利用して宇宙の始まりを逆算し、宇宙は150億年前、超ミクロの粒子が突然爆発して誕生したとしていたのが、精度の高い天体観測機器の発明によって、これと大きく矛盾する現象が確認されています。


たとえば、その代表的なものにグレート・ウオールという、ハッブル望遠鏡による宇宙の大規模構造の発見があります。

これによって、グレート・ウオールが形成されるには、なんと1,000億年もかかることがわかりました。

子供の年齢が親の年齢を上回るはずはありませんし、地球上の山や川が地球より先に誕生するわけがありません。

さらに、ハッブル望遠鏡の新しい観測結果によりますと、もし、ビッグバン理論の基本とされてきた赤方偏移説が正しければ、宇宙の年齢は150億年の半分くらいになってしまうのです。

グレート・ウオールだけではなく、宇宙には年齢が100億年というパルサーのような天体は無数にあり、7,80億年しかたっていない宇宙のなかに、100億歳や1,000億歳のパルサーやグレート・ウオールが存在するなど、矛盾もいいところです。


ようするにこれらの理論は、「人を煙に巻くマヤカシ」であることが暴露されたわけです。

それを認めようとしない科学者が伝統に固執したり、居心地のいい閉鎖的な科学界で、無関心を装っているというのが実情です。

このような科学者がアインシュタインやホーキングをやたら賞賛し、それらの理論を紹介する本を出版したり、何も知らない大衆がそれに殺到し、ベストセラーになったりしているわけです。


以上のことからおわかりのように、自然科学であるはずの物理学が、いつの間にか、形式科学のなかの数学に成り代わってしまったのです。

物理学も観察や測定を必要とすることから、数学的な要素があり、理論を記述するさい、あやふやな直感に頼るより、数式で表現したほうが正確な印象を与えることがあります。


その点で、物理学も数学も同類だと錯覚しがちですが、両者には決定的な違いがあります。

それは、物理学が認知可能な対象を研究するのに対し、数学は現実的な存在には依存しないという大きな違いです。

数学ではゼロやマイナスという概念が堂々と登場しますが、自然界にはそんなものは絶対にありえないのです。

ホーキング宇宙論の特徴は、「虚時間」や「虚空間」が随所に記述されていることですが、そんなものは、宇宙のどこにも実体として存在しません。


これについてコンノ氏は、つぎのように述べています。


「われわれの身の回りにおいて、マイナスという事象が現実存在だと錯覚することがある。

バッテリーのマイナス記号や、寒暖計のマイナス表示などである。

しかしバッテリーのプラス・マイナスといっても、それは単なる電極の記号であるという意味だけで、マイナス(負)の電気がそこに存在するわけではない。

寒暖計のマイナス表示も同じで、絶対零度(マイナス273.15度)にいたるまで、零下100度といえども、温度そのものは有(プラス)として立派に存在する。

数学でいうゼロ・マイナスという独立した存在や現象など、自然界に絶対ありえない。

こうした数学と物理学の基本的な異質さに、妙なことに、一流といわれる物理学者さえ気づいていないどころか、完全に混同視しているのは、まことに憂慮すべき事態だといえる」
アメリカの著名な科学評論家ジョン・ボスロウは、「宇宙論は混迷の真っ只中にあり、ビッグバンは危機的状況下にある。

そしてこの間に得た教訓といえば、われわれを幻滅させる以外の何物でもなかった。

ようするに、近代科学が立てた目標はめったに達成されないということが、またしても確認されたということだ」、と述べています。


また天文学博士で、『ネイチャー』の編集員でもあった科学ジャーナリストのデビッド・リンドリーも、アインシュタインについてつぎのように語っています。


「相対性理論もまた、空間の幾何学や重力の規則を説明する手段として、数学をエレガントに利用した。

こうした理論の形、つまり、まぎれもない数学であり幾何学であるというところが、それだけで説得力を持っていたのだ。

相対性理論を直接実験で検証することなど、今日ではほとんどない。

物理学者をこの理論に惹きつけるのは、一見理論が生まれもっている魅力、つまり、これほど心底満足できるものならば、深遠な真理を必ず含んでいるに違いない、という錯覚である」

4. ニュー・エイジ・サイエンス

1970年代に、「現代物理学は、研究手段の限界からこの世界の現象を解明できておらず、今後も解明の見通しはほとんどない」と宣言し、アメリカを中心にいわゆる『ニュー・エイジ・サイエンス』運動を始めた少数の科学者がいました。

アメリカの核物理学者フリッチョフ・カプラ、イギリスの理論物理学者デビッド・ボーム、アメリカの大脳生理学者カール・プリブラム、イギリスの物理学者ブライアン・ジョセフソン、日本の通産省電子技術総合研究所の猪股修二などで、これらの科学者は異口同音に、「現代科学の欠陥や行き詰まりは、世界を細かく分割して扱うデカルト哲学に原因がある、また、この世には物質世界(明在系)のほかに人間の意識を含む多次元世界(暗在系)が存在し、物質世界は多次元世界がこの世に投影されたものである」、と主張しました。

そして科学本来の発展のためには、意識のパラメーターを導入して多次元世界を解明しなければならず、そのような研究ができるパラダイムの確立がどうしても必要であると、世界の科学者に訴え続けてきたのです。


自然現象を探究して真理を窮めようとする、その過程でさまざまな矛盾が生じるのは、じつはこのパラダイムに問題があったのです。

パラダイムとは、一つの分野における科学者の考え方の基本となっている、支配的な理論の枠組みのことです。

パラダイムは一度確立されると、後に間違いが立証されても、これを変更するには長い年月がかかります。


過去においては、天動説から地動説への転換が、約二世紀もかかって達成されたという例がありますが、ニュートン力学以降は、古典物理学といわれるその多くの理論的欠陥にもかかわらず、パラダイムシフトは現在まで行われていないのです。

相対性理論がニュートン力学を変えたという科学者もいますが、相対性理論は単なる仮定であり、唯物科学の産物であることに変わりはありません。


相対性理論を筆頭とする、これまでの科学常識のすべてを覆し、ミクロ世界の本質を明らかにした量子力学への転換を図らなければ、現代科学が抱える矛盾を解決することはできないのです。


こういった科学の矛盾が最悪の形で反映されているのが、じつは現代医学なのです。

つまり医学は、物質先行型の西洋思想に傾倒し(森下先生は"西洋かぶれ"していると批判)、ミクロの波動現象が人体の生理機能を瞬時に統括していることに気づかず、組織や細胞を部分的に固定して観察・分析し、局所的な処置をする、いわば生きた体をロボットとみなすこの考え方や手法が、多くの問題と禍根を残しているわけです。


そういいますと、いや、そんなことはない、医学は遺伝子やヒトゲノムなどミクロ現象を解明しつつあり、今現在は研究途上にあるため、いろいろ問題があるかもしれないが、やがて近い将来それらも克服して、安全で確実な治療法がきっと実現される、またそれができるのは科学しかないではないか、と反論されることは承知しています。

しかしこれは、「ミクロ」の意味を本当に理解していないために生じる錯覚です。

いったい科学は、ミクロの世界をどの程度まで検知できるのでしょうか、物質の究極にどこまで迫り、解明できているのでしょうか。


超ミクロなもの、つまり素粒子などは、真空中で正面衝突させるというのが一般的な研究方法です。

そのために、素粒子の速度をできるだけ上げる装置が『粒子加速器』です。

粒子加速器にはリニアックという線形のものと、シンクロトロンというリング型のものがあり、線形のものは長さが長いほど、リング型は半径が大きいほど、素粒子の速度を上げることができます。

こうして少しでも性能のいい加速器を目指して、日本をはじめ、世界各地でより大きな装置を作ろうとしていますが、何しろ、建設費が一基一兆円以上という巨額になるのが難点とされています。

現在のところ、ドイツのHERAという大型円形加速器が、10のマイナス18乗センチメートルの粒子を検知することができます。

これは1センチの10億分の1のさらに10億分の1という極小ですが、最小ではないのです。

これよりさらに小さな素粒子の存在が予言されており、超ミクロ世界の探求はまさに底なしなのです。


なお、現在アメリカがテキサス州に建設中のSSCは、周囲が87キロメートルもある巨大なものですが、それが完成したとしても、最小の素粒子(クオーク)は検知できないことは前もってすでにわかっているのです。

もうお気づきのように、ミクロの世界はマクロの宇宙と同様、どこまで行っても際限がなく、その実態を捉えることは、人智ではまず絶対に不可能なのではないでしょうか。


ちなみに宇宙の広さとは、一説では5、000?6、000億光年だといわれています。

じつに幻想的ともいうべき壮大なスケールであることがおわかりでしょう。

宇宙は無限大のようだから無理だとしても、極小世界のほうはいつの日か解明できるかもしれないという幻想と夢を追い求めて、いつの日か水泡に帰するであろう努力と投資を続けている、というのが正直なところ科学の現状です。

世界の頭脳と称されるライアル・ワトソンは、「科学はその目的を正当化できる根幹の部分がわかっていない。

今後も何もわからないであろう」と、謙虚に語っています。



5. 生命は空間の「ゆらぎ」だ

ワトソンがいうこの根幹の部分こそ、ミクロ世界のなぞのことで、そこはあらゆる科学常識を逸脱する超常現象のカオスであるため、科学が暗在系として匙を投げている世界です。


ところが、そのなぞを解く鍵が、じつは、『空間』というものに対する解釈の仕方にありました。

空間とは空っぽのことではありません。

アインシュタインがエーテル概念を認めなかったことは先述のとおりですが、そのために科学は空と無の区別があいまいになってしまい、むしろ空も無もまったく同じもの、数学的な表現でいうなら、単なるゼロと解釈してしまったのです。


しかし量子力学は、宇宙空間もあらゆる物質の内部も、すべて空間が占拠しており、その実態は単なる空ではなく、極小微粒子がぎっしり詰まった状態であると説明しています。

たとえば、1立方センチメートルの物質の塊(固体、液体、気体に関係なく)のなかには、宇宙全体の星の数に匹敵する超微粒子が充満している、というのです。

つまり厳密な意味での真空、いいかえれば無など存在しないわけで、空間は万物の母体であるというのが、量子力学のもう一つの主張です。


現代医学が研究している遺伝子やDNAは、あくまで実体のある物質レベルのものです。

しかし、その働きをコントロールしているものの正体は、そんなマクロレベルの物質ではない、いや物質というより、それこそ宇宙全体に非局所的、同時的に遍満する波動にほかなりません。

そして波動の実体というか、正体は、科学的な手段では絶対に捉えることはできないのです。


ヒトゲノムをすべて解読するという作業は、とくに実用的な意味があるわけではありません。

また、たとえいつの日にかそれができたとしても、予想だにしなかった障壁が出現する可能性は十分考えられます。

遺伝子の解明などというと、いかにも科学的なムードいっぱいの、楽観的な希望を抱かせるような響きがありますが、実際問題として、そんなものは早晩壁に突き当たり、「新たな問題が生じた」、「もっと研究を深める必要がある」などといって、適当にお茶を濁すことになるのは目に見えています。


ところで仏教の代表的な経典の一つ、般若心経に、有名な「色即是空」、「空即是色」のくだりがあります。

「色」とは宇宙の森羅万象、つまりあらゆる物質存在のことで、「空」とはズバリ空間のことです。

なんと般若心経は、この世のすべてのものは空間から生じてくるものであると、簡潔明瞭に教えているのです。

今からほんの一世紀ほど前に登場してきた量子力学がついに掴んだ宇宙の実相を、二千年以上も前の仏教がすでに知っていたとは、じつに驚くべきことではないでしょうか。

カプラが、量子力学は仏教思想に通ずるものといったのは、まさにこのことだったのです。


長々とあれこれ述べてきましたが、いよいよ結論です。

簡単にいえば、生命は、物質の根源の、またその根源から生じてくるものです。

私たちが健康体でいられたり、病気になったりというさまざまな人体の現象も、物質を通り超えた、いわば形而上の世界からの、「ゆらぎ」の発生と深くかかわっているように思われます。

「ゆらぎ」とは、量子力学的にいえば、粒子と反粒子が対生成・対消滅している現象、また、それによって生まれる空間エネルギーの状態のことです。

ようするに、生命現象はすべて実体のないものが作り出している現象であり、元来、「目に見えないものは信じない」西洋思想の、科学的機械論で太刀打ちできるものではなかったのです。


フィルヒョウの細胞理論、メンデル・モルガンの遺伝理論がその科学的思考の典型であり、これらの理論を医療の根拠としている限り、現代医学は宿命的に、永遠に病気を克服することはできないでしょう。

この厳然たる事実に背を向け、危険極まりない毒(薬品)や放射能(放射線)やメス(外科手術)で生命を脅かしたり、しばしば抹殺さえしてしまう現代医学にたいし、私たちは、断固として決別を宣告すべきであると考えます。


一介の素人に過ぎない私が、声を大にしてこのことを訴えてもたかが知れています。

共感していただける方のご意見やご忠告を賜りながら、少しでもできることを実行していくしかありません。

どうぞ何なりと、掲示板に書き込んでいただければうれしく思います。

よろしくお願いいたします。

 ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 なるほど~~~~

アインシュタインが古い科学だったとは・・

高等な詐欺じゃないのか?

あ、

そうか;;;

長い舌をベロ~んと出している写真があったな。

そうか;;;  

「みんなだましてゴメンね♪」

という表示だったのか~~

 

ま、物質科学のなんたるかもよく知らないボクには上記の文が高等すぎて・・・

読者諸君のセルフサービスでよろしく

 

 

 

 

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