わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

「浄霊とは何か」

2017年04月30日 | 岡田茂吉医学論研究会用

 

肝心要の浄霊の威力は今?

 しかし、この浄霊効果が無くなったとしても、または当時よりもずっと力が減衰したとしても、病気の解剖論は役に立つと思うのですが・・・

現代医学は西洋にあった医療の一部だった「対症療法」(薬物を主とした)を柱としているので、どこまで進歩してもやはり対症療法だと思うのです。

根本は血液の清浄化で万病が治るというのが岡田論ですが、薬は毒素の素となるなる有害物質なので、その反対に毒素を取ることこそ万病治療の元であると・・・それが浄霊法だった・・・

が、その肝心の浄霊法の効果が今一だというのが現代ですか・・・?

 

なぜそうなったか?

それについては独善的解釈を書いたのでそちらを。

もっと別の理由かもしれませんが・・・・

 

当時の薬にchange(かわる)真の療法として一世を風靡した岡田式浄霊法とは?

 

 

以下転載ーーーーーーーーーーーー

浄霊とは何か

未発表『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 今まで病気の原因と、そのまた原因である薬毒について詳説して来たから、今度は治す方法とその原理を詳しくかく事にしよう。

もちろんこれこそ我浄霊法であって、その素晴しい治病効果は言い尽したくらいだが、病原とは霊の曇りにあるので、曇りさえ払拭すれば病気は治るのは当然であって、この理は科学的にも説明出来る。

しかし単に科学のように極限された小乗的のものではない。

いってみればこの世界は大別して上中下三段階になっており、これが一切万有の実相である。

ところが小乗科学においては、前記のごとく唯物的分野に限定されている以上、外形のみに捉われ、進めば進む程皮相的緻密(ちみつ)になるばかりで、その結果生れたのが黴菌医学である。

従って病理の根本から益々遠去かり、逸脱してしまったのである。

そうして大乗科学の三段階とは上段は神科学、中段は霊科学、下段が物科学となっており、この下段に生れたのが医学であるから、そのレベルが低く幼稚であるのも当然であってそのような程度の低い科学をもって、最高度の人間生命の解決などは思いもよらない話で、むしろ僭越(せんえつ)でさえあり、長竿をもって大空の星を落そうとするようなものである。


 ここで以上のごとき三段階を一層徹底してみるとこうである。

すなわち今日までの世界は物科学と霊科学との二段階のみであったがため、人間生命や病気健康等の根本まで分らなかったのである。

もちろん独り医学ばかりではない。

あらゆる文化がそうであって、永遠性のない一時的間に合せ物がそのほとんどであったのである。

という訳で治病方法にしても、前記のごとく三段階中の物科学と、そうして霊科学中の信仰療法のこの二つだけであった。

前者は略すが、後者においては治病方法としては祈り、苦行、禁厭(まじない)等であって、医学と同様見るべき効果はなかったのである。

またこれは別の話だが彼(か)の釈尊にしてもキリストにしても、なるほど見真実(けんしんじつ)の境地に達したとは云われているが、最高ではなく二段階の上位程度であり、智慧も力もそれ相応であって、絶対でなかった事は歴史の示す通りである。

これも時期の関係上止むを得なかったのである。

ところが私においては右の第一段階の最高地位に置かれている以上、無限絶対の大本元を把握しており、一切の事物に精通すると共に、病気その他万般に渉(わた)って驚異的奇蹟を現わし得るのである。

こんな事をいっても、第三者は直に信ずる事は出来まいが、これこそ真理の具現である以上、何人(なんぴと)といえども結局信ぜざるを得なくなるのは断言してはばからないのである。

しかるに今日までの人類はそこまで分らないがため、釈迦キリストを最高神仏として崇敬し信じて来たのであるが、事実がそれに伴わないため、人々は疑雲に閉ざされ、霊の実在を否定し、科学万能時代を生んだのである。

そうして『聖書』には再臨のキリストを予言してあり、仏教は弥勒下生を唱えており、ユダヤ教やその他の教派にしても救世主(メシヤ)降臨を待望している。

というようにそれぞれ昔から期待はかけられていたが、ただその時が明示されていなかったため、大衆はそれらの説は理想の表徴(ひょうちょう)くらいにしか思わず、いつとはなしに忘れられたのが現在の世界である。


 私は今更自分が救世主だとも、再臨のキリストともいわない。

なぜなれば昔から今日まで随分そういう名乗を上げた者もあったが、みな煙のごとく消えてしまったからで、今日それを唱え出したところで、偽キリスト、偽救世主か大山師くらいにしか見られないのは分り切った話であるからである。

要は実際問題であって、今後私の仕事の上において、救世主的救いの力を発揮するか、キリスト再臨的威力を表わすか、弥勒や観音の力徳を顕現するか、天照大御神としての光明を放つか等によって、信ずる信じないを決めればいいであろう。

つまり全世界の人々が公正なる批判の眼をもって観てくれれば私は満足であり、それ以外の望みはないのである。


 話は戻るが、以上のごとく物の科学、霊の科学、神の科学の三段階の原則こそ大乗科学であるとすれば、これこそ今後の時代をリードすべき最高学問であるといってよかろう。

ゆえに今日までの科学がいかに程度の低いものであったかは充分判るはずである。


 従って我救世教こそ、最高最貴の主神が経綸し給うところの神科学の具体化であり、それから生れた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。

何よりも事実が遺憾なく証明している。

例えばキリストの治病奇蹟にしても、一人対一人であったに対し、私は私の弟子をして、キリストと同様の奇蹟を日々無数に顕わしつつあり、その数も数十万に及んでいるので、言わば現在すでに数十万のキリストが日本に生れている訳である。

この神力こそ主神以外にあり得ない事は、常識で考えても分るはずである。


 ここで浄霊について一層詳しくかいてみるが、まず私は一枚の紙片に「光」という文字を書き、それを畳んで御守として入信者に渡すと、それを懐に入れて手を翳(かざ)すや、たちまち掌から光が放射され、霊の曇りは解消し病は治るのである。

この光とは私の腹中に在る玉の威力であって、この光は無限に放射され、霊線を通じて御守に伝達する。

この理はラジオを考えればすぐ分る。

放送局、アンテナ、受信機の関係と同様である。

以上長々とかいた事によって、読者は病気の根本が分り、医学の誤謬が明らかとなり、治病の根本も会得(えとく)されたであろうから、これが世界的に拡がるにおいては、病無き世界の実現は敢(あえ)て難事ではないのである。


 右のごとく、黴菌の原地を潰滅する手段としての、術者の掌から放射される光としたら、この光は何かというと、これを科学的に説明してみると、すなわち曇りの中に含まれている不純粒子が光に会うやたちまち焼尽され、純粋水素のみが残るのである。

それは光に含まれている火素という熱の力であって、これを説明すると、火素とは光に含まれている太陽熱の精で、言わば陽粒子ともいうべきものである。

だが科学では水素はいうが、火素を言わないのは不思議である。

しかし火素は熱の霊であって体ではない。

体は吾々が使用する熱い燃える火であるが、霊の熱は超稀薄のものであって、体の熱に比べれば比較にならない程の強力なものである事は、実験によっても明らかである。

すなわち濃厚な膿に向かって浄霊するや、回を重ねる毎に漸次薄くなり、ついには清冽な水になってしまう。

これこそ火素の熱力によって毒粒子だけが焼尽されるからである。

この理によって体内いずれの深部にある膿や濁血といえども全然身体に触れずして、浄霊によって溶解し、大部分は漿液となり、濃厚な分だけ排泄物となって出てしまうのであるから、最初手術の項にかいたごとく、機能を何ら損じないで、病気だけを除去する事が出来るのであるから、これこそ最も進歩せる文化的医術でなくて何であろう。

そうして私の腹中にある光の玉というのは、仏教においては如意宝珠(にょいほうじゅ)、神道においては麻邇(まに)の玉〔摩尼の珠〕の名によって、昔から知られているものである。



(注)
如意宝珠(にょいほうじゅ)
思いどおりに宝を出すといわれる珠のこと。サンスクリット語のチンターマニcintmaiの訳。如意宝、如意珠ともいう。

いかなる願望も成就し、意のままに、宝や衣服、飲食を出し、病気や苦悩をいやしてくれるまさに空想上の宝珠であり、また悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ功徳があると信じられている。
如意輪観音、馬頭観音、地蔵菩薩などの持物とされる。
とくに真言宗などの密教で重んじられる。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 その無数のキリストたちはどこへ行ったのでしょうか?

岡田教祖と一緒に逝ってしまったのでしょうか?

 

全部を信じる必要はありませんが、もしもこの浄霊法が当時のまま威力を発揮していたら、今では医学の革命は成されて、医療費も年間40兆円などどこ吹く風で、その10分の一、いや50分の一位は軽く、もちろんその医療費は無料、浄化者(病人)はその期間はお国からの生活援助を受けて安心して浄化を済ませられるはずだった・・・

なのに、逆にいまは現代医学の進歩という逆様の言葉に、年々医療費は上昇の一途。

年間40兆円突破は前々年で、これからも上昇し続けるのは目に見えているわけで、この浄霊法がもしもあのまま効力が持続していたら・・・・

と、歴史に「・・たら」は通用しないとは言え、なんとも情けない日本の医療事情である。

いや、たとえその浄霊法がまったく消滅したとしても、自分自身の治癒力が柱なのだからと気づけばよいのだと思う。

如意宝珠だろうが浄霊法だろうが、肝心要の鬼に金棒は自分が持っている力なのだ。

そういう意味では浄霊の効果が減衰したというのは宇宙の原則から言えば正当なのかも知れない。

もともと薬で治るわけでないのだが、その錯覚が長い歴史のなかで勘違いされた薬迷信で、その迷信を覆すには、手っ取り早い効果をみせて回心を促したのが浄霊の効果であったのだろう。

だが、それも一種の他者依存となり得るので、宇宙の法則はそれを許さなかったのだろうか?

薬も他者依存、浄霊法も他者依存

同じ依存でもその質は正反対なのだろうが、、 依存は同じ。

ゆえに、浄霊が効かなければ再び薬に頼る。その依存性は同じなのだろう

 

だが、神を自分の内に在ると認識して

主は自分、客は浄霊と心すれば、そのまま原理は今でも使えるのではなかろうか?

一切の組織、一切の信心などを無視してやってみてもよい時代だろう。

 

しかし、

何が何でも浄霊とかではなく、やはり自分が病を創って自分が病を治すということに気づくことが大切なのだろう・・・

古い信者さんはこういう疑問を持っていた

 岡田教祖の腹中にあるという光の球はいまいずこ・・?

その光の中心が無くなったら浄霊法はどうなるの?

どこに、誰に頼るったらいいの?

 

そういう時代は終わって、個々のひと自身の内に神をみつける・・・

救世主は外に顕れる者では無い、内に現れる(気づく)ことである。

 メシヤ信仰は世界じゅうの宗教にある一種の物語だが、これは物語ということで「二元性の世界」の上で創られた夢物語に過ぎないのである。

(初期のバシャールが言っている。人類は二元性の舞台で神とひとを分離させて、内なる神を忘れ、外に神を創りだした・・そうだ。それが宗教を生み、救世主という空想を産み出した)

メシヤとか救世主という人物は古来からもこれからも絶対に顕れないのである。

そういう点では岡田茂吉氏も二元性の時代の思想で宗教を創ったのです。
贖罪とか許し主とか主神とかいうのも、そういう古い観念から創られた物語なのです。

そこにどっぷりとはまり込んでシマッタ永い長い時代はもう終わりになります。

「霊性の時代」というサイトを熟読して確信に近づいています。

人間は争い、貧乏、病気を創ってそこで遊んでいた神の分身だったのです。

 そして、今でエロ動画を見て嬉々としている輩も神の分身のひとりなのです(アレ?

 

う・・・ん、たぶんそうです・・・(苦笑

 

 

 

 

 

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