悪性リンパ腫Ⅳ期 発症から15年目の回顧録

突然の死の宣告
考えてもどうにもならない
なるようになれ
ケ セラ セラと覚悟する
…あれから15年

パソコンの師Sさんを偲んで その2

2019年05月09日 | 闘病記

 

私達同好会メンバーは彼女から沢山のことを学びました最初の頃は画像入りメールの作成に夢中でした。ひな形を無料で提供してくれる〈踊る電子メール〉というウェブサイトの数あるひな形の中から気に入ったものをダウンロードして、それをメールに挿入します。音楽も入った美しく楽しい〈絵入り便箋〉のようなメールになります。このホームページを見つけた人が勉強会の担当者になり、使い方を皆に披露します。個人のパソコンを持ち寄っているので同好会を立ち上げた頃はXPのバージョンで揃っていましたが、会が経年すると違うバージョンのパソコンが混在してきました。バージョンが異なると表示を含め使い勝手が違います。担当者は自分のバージョンでの説明しかできませんが、Sさんが他のバージョンの人のサポートに回ってくれました。彼女はこの会がうまく運営でき、長く存続しうるよう陰ながら常に努力を怠らなかった。

無料のソフトをダウンロードして勉強することが多くなりました。みんながそろって勉強を進められます。メールに挿入できるように写真のサイズを小さくして額縁をつけたり、あるいは楕円に切り取ってその縁をぼかしたりしました。フォトストーリィーというソフトを使いムービーも作成しました。ワードで各自の名刺や便箋、暑中見舞いなども作成しました。兎に角みんなが楽しんで勉強できるように誘導していました。パソコンの使い方の勉強はSさん以外の人が担当することが多かった。

Sさんは主にパソコンのメンテナンスなど技術的なことを教えてくれました。パソコンの動きが悪くならないように定期的にデフラグをすることとか、大切なメールアドレスはDドライブや外付けにエックスポートしておく、知っておくと便利なショートカットキー等々。

私のパソコンが急に調子が悪くなった時も、調子が悪くなった時以前の状態に戻す〈システムの復元〉のやり方を個人的に教えてくれました。そして「次の勉強会の時にみんなに教えてあげてね。」と担当を任されます。そうすることで教わったことの復習になり、しっかり覚えられます。〈教え・教えられ・教える〉という会のモットーの実践です。とても巧みな指導でした。

Sさんが作成した〈手順書〉は、選択・決定する箇所の画像入りでとても分りやすい。私達も同様の手順書が作れるように、今開いている画面を画像に変えるPrint Screenの使い方を教えてくれました。

何のファイルを開いた時か忘れたが〈今すぐアップしてください。ダウンロードしなければファイルが壊れる可能性があります〉といった巧みな誘導メッセージが出たので直ぐにダウンロードして、実行する一歩手前で〈何だか怪しい〉と思い留まり、途中で画面の終了ボタンをクリックしたのですが終了できません。明らかに悪質なもののようです。ショートカットキー(Alt+F4)を使っても終了しないので、困った私は少し遅い時間でしたがSさんにSOSの電話をしました。「Ctrl+Alt+Delet (Win10はEsc)を同時に押すとタスクマネージャーが起動するから、そこから削除したいファイルを選択して削除 ボタンを押したら。」とたちどころに問題解決してくれました。困ったときはSさん頼み…です。ソース(プログラム)の読み方も教えてもらいましたが、不勉強な私には難しく覚えられませんでしたが。

Sさんは私と出会った3年前からパソコンを始めたといっていたが、どうやってこんなに深い知識を得たのだろう。生涯学習の講座だけでこれほどの知識が得られるだろうか。時に彼女を「先生」と呼ぶ人がいると「私は先生じゃないの。みんな平等なの。」と「先生」と呼ばれることをひどく嫌っていました。先生という呼称には上下関係が含まれる。彼女は決して偉ぶることなく〈同じ仲間〉という関係を重視していました。

Sさんはホームページの作成に意欲的でした。Webを勉強するには格好の材料です。それに加えてみんな同じソフトで勉強すれば一斉指導ができます。まずHPの扉のタイトルは何にするか、背景に何を持ってくるか、何よりもどのような内容のものを乗せるか…作成に悩みました。タイトルのロゴを作成し、披露したいファイルを扉からリンクする方法を覚え、最後はアップして公開です。

彼女のHPは素晴らしかった。半径500メートルと称して自宅周辺の四季を撮った写真集や同好会名から会員が其々に作成したHPへのリンク、県内の美術館やイベントホール、そのほかにも市のHPや市の天気と多岐に渡り、見事に構成されたそのHPは情報誌さながらでした。

彼女の死後、彼女を偲んで開いたHPは、情報はすべて削除され彼女のプロフィールだけが残されていて、そこには彼女がパソコンを始めた動機が記されていました。彼女のご主人が失明につながる眼病に罹ったとき、その眼病について調べ、知るためにパソコンを始めたそうです。彼女は情報を得ることの大切さを、身を以て感じ、インターネットが出来るか否かで生活に大きな格差ができることを憂慮し、そこで〈シニアの間にパソコンを広めたい〉という彼女の願望が芽生えたのでしょう。大学の聴講生となり勉強したことが彼女の死後分りました。私達にそのように努力した話はせず、一切報酬を受け取ることなくボランティアとして活躍し、夢を実現しました。

趣味の欄には〈読書〉とあり、彼女が読んだ本の中で特に印象に残った数冊の本の紹介がありました。その一つ〈ワイルド ソウル〉は、体制に翻弄され苦難な生活を強いられたブラジル移民が体制に一矢報いる…という痛快な顛末のハードボイルド的な小説でした。弱者が苦難を乗り切って成功を収める、といった類の小説を好んでいました。彼女もまた常に弱者に目を向け、寄り添うような人でした。

子供や孫は自分の分身でありこの世に生きたという証でもあるけれど、子供を持てなかった彼女はこの世に生きた証としてプロフィールだけのHPを残して逝った。

 


パソコンの師Sさんを偲んで その1

2019年04月30日 | 闘病記

平成という時代がまさにを閉じようとしています。

再発の治療ではベンダムスチンの酷い血管痛を耐えての治療だったが、有難い事に今は年2回の定期検診を無事に経て、私の病は再発からさらに10年が経過した。近年ではCTの造影剤の注入に苦労している。それもそうだろう、これまでに抗がん剤に耐え、採血や造影剤の注射針が腕の血管を100回は下らないと思う、刺し続けてきたのだから。結果、血管も疲労し脆くなってしまった。

私が20年もの間無事に過ごせた反面、無二の親友を5年前にJIST(消化管間質腫瘍)で亡くした。先月、歌手であり俳優の萩原健一さんと同じ極まれな癌でした。彼女は私の治療入院中幾度となくお見舞いにきてくれました。日持ちする美味しそうな焼き菓子を持参したり、抗がん剤で免疫が低下するため病室に生花は禁止されているのでドライフラワーにして持参、殺風景な病室に癒しの空間を作ってくれたりした。私より2歳若い彼女はいつも私の傍に寄り添い細かい気遣いをしてくれました。それなのに彼女のほうが先に逝ってしまった。

そしてまた今年の2月に私のパソコンの師であり親しい友人Sさんが乳がんで亡くなった。私がSさんから病のことを打ち明けられたのは彼女が亡くなる2か月半前、2018年12月初めのことでした。発症したのは10年も前で、その時はすでに骨に転移していたという。私が再発した頃です。すでに腸閉塞や膵炎を起こし、短期間の間に入退院を繰り返すようになってから後のことでした。膵炎は胆石が原因と言っていましたがともに激痛を伴う病、さぞ苦しかっただろうと私の身も痛む思いでした。

「このことは誰にも言わないで、そっとしておいてもらうのが一番。誰かに聞かれたら適当に言っておいて。」と固く口止めされました。10年もの間、そんな重篤な病を抱えていたことなど微塵にも見せなかったSさんです。みなに心配をかけたくなかったのでしょう。

そんな身で私のことをいつも気遣ってくれていました。私だけでなく周りの人みんなに気配できる人でした。ストレスをかかえている人がいれば、おしゃべりすれば気も晴れるからとランチに誘い出したりしていました。

 乳がんと判ったときはすでに手術はできず、初期治療ははホルモン療法で癌の進行を抑える。副作用が少なくQOLがよいからです。癌は曲者です。長年同じ治療をしていると抵抗力を付け効果が薄れてしまう。次は抗がん剤治療です。2年ほど前に彼女は風邪菌が元で心臓と肺に水が溜まるようになり、これが治りきらず日常生活で無理のきかない状態になっていました。これも化学療法で抵抗力が低い時に風邪に感染し、重篤な症状に陥ったのではないだろうか。

そんな頃、彼女は私のブログを読み返している、とそっと耳打ちしてきました。その時は私のブログを大事に思ってくれているのだなと単純に思っていましたが、今思うとその頃から彼女の抗がん剤治療が始まったのでしょう。自身のこと、家庭のことでもプライバシーはほとんど語ることのない人でした。

この頃からSさんはパソコンを持ち運ぶのは大変だからと言って勉強会を欠席するようになりました。でも勉強会のあとは何時も1階のレストランでコーヒーを飲みながら雑談をしてから解散するのですが、そのティータイムには参加していました。みんなを引っ張っていくには体力の限界を感じ、思うように動けなくなった自分にストレスを感じていたことでしょう。そんな彼女にとってストレスの解消にティータイムの参加は欠かせなかったのかもしれません。また頻繁に関西にあるご実家に帰られ、勉強会の日とぶつかるとティータイムも休むことがありました。今思うと、この時は抗がん剤の治療を受け、免疫低下を起こしていて外出を控える必要上実家に帰ったことにしていたのではと思えてきました。

お正月前にまた腸閉塞を起こし入院しました。今回の入院は長引いていました。2031年2月20日、彼女はとうとう帰らぬ人となりました。彼女の訃報を受けたのは葬儀がすべて済んだ後でした。

彼女がすべてのお見舞いや面会を拒否したのは、あとに残すご主人にお返しなどの面倒事を残したくないという配慮であり、〈人に迷惑をかけない〉という彼女の強い信念の現れだと思いました。彼女からはパソコンを含め沢山のものをもらったのに、彼女には何もしてあげられなかったことが悔やまれます。

Sさんとはじめて出会ったのは2001年7月、市で開催した〈IT講座〉でした。彼女はそこでアシスタントを務め、私は受講生でした。講習の最後の締めくくりに講師やアシスタントの方たちから一言挨拶がありました。「パソコンを始めてから3年になります。」と言うSさんの言葉におおいに触発された私は、丁度その頃、県でもパソコン講座の受講生の募集があり、その受付窓口が同じ建物の中にあったので講座終了後、直ぐに申し込みに駆けつけました。その後の偶然の出会いについては〈車椅子からテニスに復帰するまで その7〉で述べているのでここでは省略することにして、2002年4月に彼女を中心に〈PCの勉強会〉を立ちあげました。

勉強会の会場を無料で借りるには市の生涯学習にグループ登録をする必要があります。それまでの喫茶店でのパソコン談義では、初心者の私は他の人の話を聞き理解に努める、一方的に教授を受ける状態でしたので、役に立てるならと登録手続きを買って出ました。登録に当たって、会の目的、会則、運営方針、予算案、代表および会員名簿の提出を求められました。代表には当然彼女がなってくれると思っていたのですが「私は絶対ダメ。」と固辞され、困った私は行きがかり上仕方なく、一番下っ端にも関わらず代表名に私の名前を記入しました。でもこれが彼女の意図する〈会員みな平等〉を示す第一歩だと後になって気づきました。

彼女は「シニアの人にパソコンを教えるのが夢なの。」と語り、ボランティア精神で〈教え、教えられ、教える〉を会のモットーとして運営し、「会員同士はみな平等なの。」と平等を強調されました。勉強会では話し合いでやりたいことを提案し合い、それを得意とする人が担当者となり他の会員に教える、といった形式で運営されました。担当になった人には自信を持ってレクチャーができるように彼女は個人的にアドバイスをして陰ながらバックアップしていました。

 彼女に一方的に教えてもらうことが多いので、会員の中から「お礼をしたほうがいいんじゃない。」という声が上がりましたが、彼女は「それはダメ、みんな一緒だから。私も勉強になっているから。」と言って決して謝礼を受け取ることはしませんでした。そう、謝礼を受け取ってはボランティアとして〈教え、教えられ、教える〉上下関係を作らずシニアの間にパソコンの輪を広げていく、という彼女の理想に反するからです。

つづく

 


念願の第九に挑戦 その2

2017年08月05日 | 闘病記

 練習に参加するときは、入り口の受付で出欠をとり、名札を受け取ります。席が隣になった人に挨拶を交わし、その時名札を見て名前を覚えました。小学生のお嬢さんを連れて参加している人、高校生、私のように高齢者も参加するなどアットホーム的なコーラス集団です。

 コンサート会場兼練習場として使われている建物は、明治31年に建てられた赤レンガ作りの元ビール工場です。基礎設計はドイツの機械製作所に依頼、施工は大蔵省など官庁を多く手掛けた建築家・妻木頼黄の手によって建てられた、当時としてはモダンな建造物です。第二次世界大戦中はこの町に戦闘機の製造工場があり、そこの衣糧倉庫として、戦後は食品会社の工場の製品保管庫として使用されてきましたが、2009年に工場が操業停止し、取り壊しになるところを、歴史ある建物なので市が買い取り保存してきました。現在は国の有形文化財に、経済産業省の近代化産業遺産に指定されています。耐震工事を契機に一般の人が利用できるようにリニューアルされ、その一角にできたカフェの閉店時間後に使用させてもらっています。このカフェでは当時のビールを再現したものが売りの一品になっています。

  本番1週間前にリハーサルがありました。受付でコンサート当日のスケジュール表とステージの並び順と氏名が書かれた資料が渡されました。練習場には実行委員の方たちの手で、すでにひな壇が設えてありました。その日はまず資料どおりにパート別に整列した後、観客席からどの人の顔も見えるように立ち位置が調整されました。舞台への入退場の説明の後、ソロの歌手4名が最前列に入りました。それまでは部分的に練習していましたが、リハーサルでは初めてプロの歌手によるソロも加わり、全曲通しての合同練習です。私は出だしをミスらないか、緊張して歌いました。

 7月1日(日)、いよいよ本番の〈七夕コンサート〉です。七夕にちなんで全員浴衣姿で歌います。結婚してから一度も着たことのない浴衣ですが、晴れの舞台に着る衣装です。幸い友人に着物の着付けの先生がいるので、特別に彼女の1日生徒になり、着崩ずれしない着方のポイントや半巾帯の結び方などを教えてもらいました。

 開演は午後5時からですが、その前に最後の練習をするため2時に集合です。いまだ自信のない私は昼食のときも練習用のCDをかけ、脇に譜面を広げ、それを横目で見ながら食事をしました。早めに食事を済ませるとすぐ身支度です。慣れない手つきで浴衣を着終わると、もう出かける時間でした。

 コンサート終了後に打ち上げがあるので着替えの包みを抱え、急ぎ車に乗り会場へ向かいました。ところが少し走ったところで大事なアンチョコを忘れたことに気づき、慌ててUターンをして楽譜を取りに戻りました。会場にはぎりぎりで間に合いましたが、汗っかきの私はスタート前なのにもう一汗かいてしまいました。

 本番前の練習では舞台にコーラス隊が入場するところから始まり、私達が整列すると次にソロの4人が舞台の最前列に並びました。さらに舞台下に観客と肩を並べる形でセントラル愛知交響楽団のメンバーによるアンサンブルとピアノが入りました。最後は指揮者の入場ですタクトに合わせて前奏が始まり、それが終わるとバリトンのソロが高らかに歌声を鳴り響かせました。その声はついに第九の舞台に立って歌おうとしている私の胸に深く呼応し鳴り響いていました。

 まだ練習というのに観客がちらほら見え始めました。奥さんが出場しているのでしょう男の子を連れた父子が、孫が出場しているのか初老のご夫妻が中央前列でカメラを構えていました。

  いよいよ本番です。コンサートの前半はアンサンブルで映画音楽、昔懐かしい唱歌やアニメなどポピュラーミュージックの演奏があり、その間私達コーラス隊は、薄暗い通路で入場順に整列して出番を待っていました。演奏が終わり、いよいよコーラス隊の入場です。拍手の中舞台に整列し、観客席を見ると会場は立ち見がいるほど超満員でした。主人の姿も後方の座席に見受けられました。

  最後に指揮者の入場です。先生もいつになく緊張した面持ちで、しかし熱くタクトを振っていました。60人くらいのコンパクトなコーラス隊ですが、この日はみな口を大きく開けて、お腹の底から声を出して歌い上げました。

 先生の寛容な後押しのお陰で、わずか3ヶ月の練習で舞台に立たせてもらい、感謝の気持ちでいっぱいでした。来年は譜面なしで完全に歌えるよう、引き続き頑張らなくては…。

*6月8日に定期検査がありました。ここ半年足らずの間に少しずつ体重が減少していま  す。私の濾胞性リンパ腫は治らないタイプです。今年は再発から10年目にあたる。再々発の兆しではと、今回は心配しながらの受診でしたが無事通過、いつも高めだったコレステロール値も抑えられ、心配は払拭されました。


念願の第九に挑戦 その1

2017年07月20日 | 闘病記


1999年11月、がんの治療で半年間の入院を経て一時退院していた時のことでした。NHKテレビの年末特集番組で〈ベートーベンの生涯〉を放映していました。番組の最後に毎年のように年末には必ず演奏される彼の代表作〈交響曲第9番〉の演奏があり、その中の〈歓喜の歌〉を聴いたとき、生死をかけて治療をしてきたばかりの私に、その旋律はかつてないほど熱く心に響きました。苦難を通り抜け一条の希望という光を見出した、曲の中にそんな情景が感じとれ、私のその時の心情に共鳴したからでしょう。
 
それまでにも第9は何度か聴いている。素晴らしい曲と感銘を受けていましたが、その時は心が震えるくらいに全身で感動を受け止めていました。まさにその当時の私の琴線に触れたのでしょう。何時しか〈私も一生に一度でいい、この《歓喜の歌》を歌ってみたい〉と思い始めました。

元気を取り戻してから何度か第9を歌うコーラスの団員募集のチラシを目にしました。
しかし現実の私と言えば、高校の選択科目で音楽を専攻しただけで、卒業してからは音楽を聴きに行くことはあっても歌うことなどほとんどありません。20代の頃、当時流行っていた歌声喫茶へたまに行き、ロシア民謡などを歌ったくらいです。
 友人を誘っても「全然歌ったことのない人はダメじゃない。」と心もとない返事です。歌ってみたいという気持はあるが、躊躇する気持ちのほうが勝りここまできてしまいました。

 今年の3月の市報に〈第9を歌ってみませんか〉という団員募集の記事を見つました。私もいつしか70を越し、もう躊躇している余裕はありません。これは〈ラストチャンス〉と、思い切って応募の電話をしました。
「今までに第9を歌ったことはありますか? コーラスは?」という問いに、「いえ、初めてです。歌は高校の時の選択科目で音楽を取りました。」と正直に答えました。
「一生に一度は第9を歌ってみたいという人もいます。」という声に、「そうなんです。」とすかさず返答し、第1と第3月曜の夜、月2回の練習に参加することになりました。
 
 4月の第1週目、初めての練習参加です。年齢とともに声が低くなってきているのでパートはアルトにしました。見渡すと団員の大半は中年の人なので、私は少し安堵しました。隣席した人に「何年くらい歌っていますか?」と尋ねると、「4年です。主人も一緒に歌っているのよ。」という返答に、私は〈やっぱりベテランばかり〉と思う。
 いざ練習が始まると歌詞はもちろん原語のドイツ語です。音符もほとんど読めない私は、途中で何処を歌っているのかもわからなくなり、オタオタしているうちに練習は終わりました。2回目の練習でもしかりでした。噂通り私は大変なところに飛び込んでしまったようです。本番では暗唱が原則です。おまけに〈七夕コンサート〉と称して本番は7月初め、あと2か月しかありません。3回目の練習の時に主催者で指導者の先生に「今回は無理です。」と辞退を申し出たのですが、「大丈夫、本番で本を見てもいいから。わからないところは口パクでいいのよ。」と優しく励まされました。

 幸い私は英会話の勉強をしているので、ドイツ語には英語にはない音が幾つありますが、ルビがふってあるので発音はそう難しい事ではありませんでした。しかし文字を読むことはできてもやはり未知の言葉、これを丸暗記することは、すでに脳が固くなりだした私の頭には至難の業でした。おまけにほとんど音符の読めない私にとって、音の高低差が激しいベートーベンの曲を、CDの聴き取りだけでメロディーを覚えなければならない、これまた至難の業です。もっと早くに始めるべきだったと悔やまれました。

 毎朝晩、ごはん支度をしながら練習用CDを聴く。家事の合間に譜面を開き、ゆっくり音を取りながら歌ってみる。紙に歌詞を書きうつしてバッグに入れ常に持ち歩き、電車の中やクリニックの待合などの空き時間があるとその紙をみて暗記するようにしていました。
1か月を過ぎてもほとんど暗記ができない。楽譜を見、歌詞を見ながらでもCDに合わせては歌えない。特にスピードがあり、しかも高低差のある個所は目で追うことすらできません。コンサートの日が近づくにつれ焦りを覚えてきました。
 コンサートの10日ほど前から、朝目が覚めるとすぐ寝床で楽譜を開き、難しい個所をゆっくり言葉と音を合わせるように歌いました。これは意外なほど功を奏した。いままで飛ばしていたところが曲がりなりにも口ずさめるようになりました。しかしいざみんなと歌う段になると、スピードかつ高低を繰り返すような難所ではみんなについていくことは難しい。もうここまで来たら〈参加することに意義あり〉と開き直るしかありません。  

〈つづく〉div>


友との別れ その6

2015年08月24日 | 闘病記
その6
春子さんは癌患者特有のすっかり痩せ細った姿になり、目を閉じてベッドに横たわっていました。ご主人が「誰だか分る?」と彼女に声を掛けると、かすかに目を開き、か細い声で私たちの名前をいいました。うれしくなりました。
しかし次には朦朧とした状態で手を突出し、脇の壁を指さしながら「あっちへ行きたいの。」と駄々っ子のようにしきりに繰り返す。ご主人が「だめ!」と言うと「だめ~?」と何とも愛らしく甘えた声で聞き返し、そしてまたすぐ繰り返し言い続けていました。今まで見たことのない春子さんの一面を垣間見た思いでした。春子さんの脳裏の向こうには〈彼岸〉が見えていたのだろうか。
その2日後の週明けに退院し、家に帰ることになっていました。

驚いたことにもう時間の問題ではと思われた彼女でしたが、家に帰ってから意識もはっきりとし、みるみる元気を取り戻していった。電話での受け答えも以前と変わらない、しっかりとした声に変わっていました。

2014年3月、春子さんの誕生月です。胆汁もれでたびたび入退院を繰り返している和江さんはそっとしておいて、3人で花篭を持って、ご主人が出かける日に春子さんを訪ねることにしました。ご主人に迷惑をかけないように、それと私達も気兼ねなく話をしていられます。みさ子さんは腕によりをかけてお昼に食べるお惣菜を作り持参しました。幸子さんはご主人が釣り取った新鮮な魚を、私は3人で割り勘の誕生祝いの花篭を持ち、お昼は彼女の家で食べることにしました。

私たちが春子さんの家にお邪魔すると、リビングに介護用のベッドが置かれ、そこに彼女は横になっていましたが、私たちを見るなりひょいとベッドから起き上がったのです。あの現世と来世の間を彷徨していた彼女がです。その回復ぶりに思わず私たちは驚きの声を上げてしまいました。 
少し離れた所に住んでいる長女が手伝いに来ていました。彼女とは久しぶりの再会です。みんなで食卓を囲み賑やかな食事をしました。春子さんの口から「年金をもらわなくちゃね。」と頼もしい言葉も飛び出しました。彼女が年金をもらうまでにあと1年。すかさず「そうしたら一番に奢ってね。」とみさ子さんが合いの手をいれ、皆で笑い転げた。春子さんを交えたそんな楽しいひと時もこれが最後でした。

2014年9月、テニスの練習をしている最中に携帯のベルが鳴った。春子さんのご主人から、危篤の知らせの電話でした。
私たちは直ぐに連絡を取り合い、彼女が入院している病院へ急ぎ駆けつけました。彼女は誕生祝いに訪れた時よりさらに痩せ、点滴などいくつもの管につながれていました。

それから2週間後の9月末日、24年間の闘病の末、彼女は年金をもらうことなくこの世を去っていきました。


2014年 友との別れ その5

2015年07月08日 | 闘病記
2013年も初夏に入りました。その後の春子さんのことが気になり電話をしたところ「何かあるといつも電話してくるわね。」と電話の向こうで笑いながら話はじめました。「実を言うと、大腿骨骨折をして退院してきたばかりなの。」と。びっくりして理由を尋ねると、「片足立ちで靴下を履こうとしたら、体が崩れて折れてしまったの。」と言う。

彼女は再発が判った時はすでに骨に転移していました。最初の治療はホルモン療法でした。ホルモン療法は強制的に閉経させ、それによって細胞の活性化を押えます。しかし副作用は骨密度を低下させるので、ホルモン療法と並行して骨粗鬆症の治療もしていましたが、その時の影響もあったのでしょう。
まだ立って歩くことができないと言う彼女に、家の中は車椅子代わりにデスク用のキャスター付きの椅子を使うことを提案しました。足で蹴りながら椅子を動かせば、一人でも自由に移動できます。車椅子ほど幅を取らないので、家の中で使うには便利だ。

この事件をきっかけにもう隠しきれないと思ったのか、春子さんはとうとうみさ子さんに抗がん剤治療をしていることを打ち明けました。今まで治療は順調に行っているとばかり思っていたみさ子さんにとって、寝耳に水のこの話にかなりのショックを受けたようで、あたふたとした様子で私に電話をしてきました。そして彼女の体調がよければ家へお見舞いに行こうと言うことになりました。
9月に入った頃、3人で春子さんの家にお見舞いに行くことになりました。私達3人は社宅を出た後、会社と同じ市内に家を建てていました。春子さんの家まで電車を使って1時間以上かかるので、入退院を繰り返している和江さんには無理をさせないように、声を掛けませんでした。

内心私は自分の時のことと照らし合わせ、彼女がこのまま車椅子の生活になってしまわないか心配していましたが、ご主人の案内で家に上がると、彼女はリビングの椅子にステッキを持ったまま座った状態で私達を待ち受けていました。私達を見ると嬉しそうに立ちあがり椅子を勧め、みんなでテーブルを囲んで座りました。彼女が歩けるまでに回復していることに私は驚きました。彼女は理学療法士によるリハビリ以外にも自助努力でしっかり歩く訓練をしていたのでしょう。
ヘアースタイルをベリーショートにして、すでに癌が肝臓に転移しているせいでしょう、顔色は少し茶褐色でしたが元気そうでした。ご主人が傍らでかいがいしく紅茶を入れ、みんなにケーキを出してくれました。
彼女の元気そうな姿に私たちは一様に喜び、ことにみさ子さんは安心したことでしょう。
彼女が後で疲れを出さないように、1時間程で話を切り上げて帰りました。

その後も私は彼女が元気で過ごしているか様子窺がいの電話をしました。がん患者同士ということもあり、彼女は私には隠すことなく本音の話をしていました。みさ子さんは彼女とどう向き合ったらよいか、電話することにためらいがあったようで、お嬢さんに手紙で彼女の様子を尋ねたりしていました。

腫瘍マーカーが再び上がってきた時などは「もういいと思っちゃう。」と、先の見えない治療を続ける辛さに弱音を吐くこともありました。こんな時に見え透いた慰めの言葉はかえって不快に響く。返す言葉もない私は、ただ話を聞いてあげ、彼女の辛さを受け止めるしかありませんでした。
ある時は「娘が『お母さん、王道を行ってるじゃない。』って言うんだわ。」と言っていた。何と大胆で冷静な言葉か。進行していく病を嘆く母へ、このような言葉をさらりと言ってのける、娘にしか言えない慰めの言葉だと思った。

2013年12月、みさ子さんと私は茂木大輔のベートーベンのレクチャーつきコンサートを聞きに来ていた時、主人から〈春子さん危篤〉のメールが携帯に入ってきました。私たちはコンサートが終わるや急いで家に帰りました。私はみさ子さんのご主人が運転する車に便乗させてもらい、春子さんの入院している病院へ急ぎ向かいました。黄昏時から暗闇につつまれようとする頃でした。
病院には結婚して今は横浜に住んでいる次女も駆けつけていました。
つづく


友との別れ その4

2015年05月21日 | 闘病記
翌年の春、大手術を受けた和江さんは「一度に沢山は食べられないけれど食欲がでてきた。」と言い、それでも「手術の痕が引っ張られるとまだ痛いけど。」と言う。
彼女を励ますため、みんな揃って会食することになりました。彼女の家からあまり遠くなく、胃に優しい和会席のお店に集まることにしました。乳がんの春子さんも1時間以上かけて車でやってきました。彼女は最初の抗がん剤は分子標的治療薬でしたが、今はそれも効かなくなり新たに別の抗がん剤に変わっていました。

GISTの和江さんは親の面倒を看るようになってから、泊まりがけの旅行はしなくなりました。家で何もしないで居ることが嫌いな彼女は、病気になる前はピアノ、飾り雛作り、それにご主人と一緒に歌や卓球、社交ダンスも習っていました。これ等は彼女のストレス解消法でもあったのでしょう。
手術を受けてからまだ1年も経っていなかったが歌と卓球を再開したと言いました。
「歌はともかく、卓球なんて大丈夫? 痛くないの?」と聞くと、「あの姿勢は痛くないんだわね。」と言う。卓球の姿勢は少し前かがみなので傷口が引っ張られることがないようだ。でもラッケットを早く振り上げる瞬間はどうなのだろうか。
「まだしばらくはおとなしくしていた方がいいんじゃい。」と言ったが、聞き入れる様子はありませんでした。彼女にとって何もしないでいることの方が生きている実感がもてず苦痛のようだ。多少の痛みがあっても楽しさの方が先行していたに違いない。

女5人の話は尽きない。何時の間にか店内のお客は私達だけになっていました。喫茶店に場所を変え、自分の事に限らず子供の事、ご主人の事とさらにお喋りは続きました。
春子さんは今度こそ治療が化学療法に変わったことを公表するかなと期待したが、最後までその話はでませんでした。

和江さんはおしゃれをして出かけるのが好きな人だが、私は美味しいお店を探して食べ歩くグルメの方に興味がある。病気をしてからはおしゃれが出来ないと嘆く彼女のために、栄(名古屋の繁華街)にある老舗の料亭でお値打ちランチがあるのを見つけた私は早速皆に声をかけました。
まず和江さんに栄まで出られるかどうか聞き、次に春子さんに伝えた。前回のランチからまだひと月しか経っていなかったが〈和食の老舗のランチ〉と聞いて喜んでOKしました。
私もそのお店へ行くのは初めてなので、予約した日の1週間前にお店の所在確認と、地下鉄を降りてからお店まで、どう歩いたら一番体への負担が少なく済むか、エスカレーターの場所を確認し、最短距離のコースを下調べしてきました。

ところが直前になって和子さんから「手術の痕の傷口が開き、胆汁漏れを起こしたので行けなくなった。」と電話がありました。胆汁は肝臓で作られ、いったん胆嚢に貯蔵され胆管を通って十二指腸へ運ばれる。彼女は肝臓の切除の時に、この胆嚢も切除しています。胆汁は蛋白質を分解する消化液なので、それが外へ漏れると周りの組織を溶かし、非常な痛みをともなう。肝臓の手術後、まれにこうした胆汁漏れを起こす人がいるそうです。
「溜まった胆汁を体外へ出し、後は傷口が自然に閉じるのを待つしか方法がない。」と医師から言われたそうです。しかし、これ以降たびたびこの〈胆汁漏れ〉に悩まされるようになりました。

この事態に和江さんを抜きでもランチへ行くかどうか私は迷いました。老舗のランチを楽しみにしていた春子さんもだいぶ前から化学療法に移行していたので、このような食べ歩きは何時できなくなるかわからないからです。みさ子さんに和江さんが行けなくなったがこのままランチを続行するかどうか尋ねました。
みさ子さんは筋の通らないことは許せないタイプの女性です。「それはないでしょう。」と春子さんの現状を知らされていない彼女としては当然と言える返答でした。私は彼女に春子さんの現状を知らせるべきか迷いました。知らせれば別の答えが返ってきたかもわかりません。しかし春子さんの意思を尊重し、このことは当人の口から伝えるべきことと、私から伝えることは止めました。
春子さんに事の次第を話し、ランチは中止になったことを伝えると「そうか~。」と少し残念そうに、でもその言葉の裏にはみさ子さんならそう言うだろうな、というニュアンスも含まれていました。

春子さんとみさ子さんは私達5人の中では格別な関係でした。結婚前の二人は同じ職場で、二人ともに職場結婚でしたが、ご主人同士もまた同じ大学を出、会社の中でも同じ職場の同年です。さらに二人は子供ができたことをきっかけに退社し、社宅に入りました。モルタル2階建て8世帯の古い建物が5棟あり、その中で二人は同じ棟の上下に住むことになりました。そんな深い繋がりがあり、二人はファミリーの付き合いをしいていました。
みさ子さんは春子さんの姉貴分のようなもの、そんなみさ子さんに余計な心配をかけたくなくて、化学療法に変わったことをひた隠していました。
つづく

コメント

2015年05月05日 | 闘病記
Unknown (プーシキン)2015-04-20 14:15:38はじめまして。
一昨年末に腫瘤が発覚し、昨年2月に濾胞性リンパ腫と告知を受けました。
昨年、リツキサン単剤で4クール治療しましたが功を奏さず、来月からベンダムスチンでの治療になりそうです。
ベンダムスチンで検索してここにたどり着きました。
いろいろ教えていただければ嬉しいです。

*コメントの返事の書き方がわからず遅くなりごめんなさい。
あくまで私の場合ですが、ベンダムスチンの副作用では白血病の低下、薬物アレルギー、血管痛、胸痛がありました。
薬物アレルギーは2回目の薬剤投与から赤い蕁麻疹が全身に現れ、プレドニンでこれを押さえながら投薬を続行しました。内心ではアナフィラキシーショックが起こらないか心配でしたが、赤疹以上に悪化することもなく無事に投薬は済みました。
投薬中の血管痛はかなり大変でした。患部を温め、血管を広げることで痛みをやわらげていました。薬によって血管が傷んだのでしょう。次第に点滴の針が入りにくなりましたが、今でもCTの造影剤の針を刺すのに苦労しています。 
投薬中のこと、通常では何ともないのですが、坂を上ると胸痛がおこりました。治療終了から半年後に間質性肺炎を起こしましたが、この事が引きがねだったのではと思われます。間質性肺炎は死に至る病なので、体に負荷がかかった時に息苦しさを覚えたときはすぐに病院へ行ったほうがいいでしょう。
ベンダムスチンは副作用が少なく普通に日常生活ができるといわれていますがやはり抗がん剤、投薬中は感染症に気を付け(外出時はマスク着用、口腔内は常に清潔を保つようこまめに歯磨きを)無理のない生活をしてください。
最後に、濾胞性のリンパ腫は再発はまぬがれないようです。投薬はその医師の裁量によるようです。罹られている医師がリンパ腫の専門医でなかった場合は、一度専門医のセカンドオピニオンを受けられることをお薦めします。く

友との別れ その3

2015年05月04日 | 闘病記
それより少し前の2011年に、社宅時代の仲間がもう一人「肉腫」になり、胃と肝臓をそれぞれ3分の2切除するという大手術を受けていました。
その頃彼女は、ご主人と母親の3人で暮していました。彼女は物事の白黒をはっきりさせるてきぱきとしたタイプの女性です。一方、お母さんは自分を出さず、あるいは出せずにすべてお父さんの言う通りの生活をしてきた人でした。そんな彼女にとって時として母親の態度が気に障ることがあり、母親に詰め寄ることがあったりしました。「母を泣かせてしまった。」と私に後悔と反省の言葉を漏らすこともありました。ご主人と母親の間に入って気を揉むことも多かったのでしょう。

初めは胃の不調を訴えていました。近くの医院では胃潰瘍と診断され薬を飲んでいたが、症状はよくなるどころか徐々に悪化していく。「原因のストレスがなくならないから無理だわ。」と一向に改善しないことを納得していました。
胃痛と食欲不振が半年以上続いたある日、激痛に襲われ救急車で病院に搬送されました。搬送先の病院の検査で、これまでの不調の原因は十二指腸にできた肉腫と判りました。GISTという消化管間質腫瘍で、発症率は年間10万人に1~2人という希少な腫瘍です。

彼女が胃や肝臓を3分の2切除するという大手術をした後、一度に沢山は食べられないけれど食べられるようになったと言うので、久々に彼女の家の近くのレストランに皆で集合することになりました。この日は彼女と私の誕生月で、生まれた年は違いますが私達は奇遇にも同じ誕生日です。
退院祝いと誕生会を兼ねた会食でした。
車から降り、レスランに入るわずかな距離を、「歩くときの振動が傷に響く。」と言ってお腹をかかえるようしてゆっくり歩いていた。

乳がんで化学療法に踏み切った彼女も、みんなに会うことを楽しみに、車で1時間かけてやってきました。実は彼女は健常な他の二人にはホルモン療法から抗がん剤治療に変わったことを伏せていました。余計な心配をかけたくなかったのでしょう。
治療で頭髪が抜け落ち、鬘をつけていましたが、彼女にとてもよく似合った髪形で、そのことを知らなければ鬘とはまったく気付かせませんでした。
電話では、今回皆が顔を合わせたところで化学療法に変わったことを明らかにすると言っていたのですが、女ばかり5人が揃い、終始賑やかで楽しい談笑の中では、とうとうその話はなく解散になりました。
つづく





友との別れ その2

2015年03月24日 | 闘病記
乳房の摘出手術を受けた時、腫瘤はピンポン玉くらいの大きさだったそうだ。リンパにも転移があったと引き続き抗がん剤治療も受けました。彼女が入院中、社宅時代の仲間と一緒にお見舞いに行った時「頭を洗うと髪の毛が側溝に塊になってあるの。ぞ~っとするわ。」と副作用の強さを語っていた。退院してからも「口内炎が酷くて食べられないのよね。」と治療の大変さをこぼしていました。
医師との関係を気遣い「抗がん剤をやめたい。」と言えず、彼女は秘かに抗がん剤を飲むことを止め、替わりに漢方薬を処方してもらって飲んでいました。結果、口内炎は治まり食事も摂れるようになったそうです。漢方薬は保険がきかないので薬代に月4万円位かかると言っていました。何時まで漢方薬を続けていたかはわからないが、それから14年間は無病でした。

ご主人が中国に転勤になり、当初はお義母さんと同居していたので単身赴任でした。しかしご主人の健康を心配した彼女は、娘夫婦に家に入ってもらうことで、何とか折り合いをつけて中国へ行きました。
私の初発の治療が終了して1年経った頃に彼女が中国から一時帰国してきた。彼女の家から私の家までは車で1時間以上しかかるが会いに来てくれました。彼女の歓迎と私の回復祝いを兼ねて社宅時代の仲間が集まりランチの会食をしました。
「中国に遊びに来ない。」とその時笑顔で言っていた。私はツアーで観光するより現地に住んでいる人に案内してもらう方がはるかにその国の本当の姿を垣間見ることができるので、彼女がいる間に中国へ行ってみたかったのだが、他に行こうと言う人はいませんでした。それからあっという間に3年が過ぎ、実現することなく彼女は帰国してきました。
中国での生活はストレスが多かったのでしょう、彼女は帰国後間もなく、初発から14年目にして再発、すでに骨にまで転移していて手術可能の段階は過ぎていました。

「お金なんて何にもならないわね。」と彼女は言う。その言葉から絶望感がひしと伝わってきた。確かに死を目前にしたとき、すべての物が無意味に、無力に思えたかもしれない。
「そんな事ないんじゃない。」と私は言いたかった。彼女の投げやりになっている気持ちを否定したかったけれど、今の彼女にはどんな言葉もうつろに聞こえるだろう。彼女のそんな気持ちも解らなくはないので、私は何も言えませんでした。

初めはホルモン療法が施されました。細胞の活性化をおさえるために強制的に生理を止めると言う方法です。この治療では生活に支障をきたすようなひどい副作用はなく、とても順調でした。彼女は気持ちを立て直したようです。
私達は社宅を出て散々になりましたが、子供が成長して少し手が放せるようになった頃から、年に1~2回集まって食事をしたりしていました。まだ彼女が再発する前のことでした。私が「今しかないのよね。明日があるか判らないもの。」と言ったことがある。その時彼女は笑いながら「今しかないのね。」と軽く受け流していました。
しかし再発した後で「今しかないのよね。」といった言葉には実感がこもっていました。
〈元気なうちにしたいことは何でもしよう〉と思ったのでしょう、英会話の勉強を始め、ご主人や英会話仲間と海外旅行をし、ニューヨークの街を自力で歩いてきた、と楽しそうに話していました。

ホルモン療法を始めて7年経過した頃、腫瘍マーカーが徐々に上がりはじめました。とうとう免疫はホルモンを外敵とみなし、体への侵入を防ごうと排除するようになったようです。
彼女には初発のときにした化学療法では副作用が強かったので、化学療法に対して一抹の不安があったようです。それでもしかたなく1クール3週間を6クールの化学療法をすることになりました。

この頃、社宅時代の仲間がもう一人癌になりました。なんと5人中私を含め3人も癌患者になってしまいました。
つづく





2014年 友との別れ その1

2015年03月04日 | 闘病記
悪性リンパ腫に関しては、再発から6年目に入いり、CTと血液検査による経過観察は年2回になった。6月と12月に検診があり、共に中性脂肪が高い数値を示していたが他は正常範囲内、再再発の兆しはなく、この年も無事に過ごすことができました。

近年は癌の羅漢者が著しく増加しているが、私の近辺でもこの例外ではなく、この年に癌で二人の友人との悲しい別れがありました。年が明けたばかりの1月と9月に、しかも二人とも私より若かった。

1月に他界した友人は前年の夏に“沈黙の臓器”と言われている膵臓がんを告知され、判った時はすでに肝臓と骨に転移していてⅣ期だった。「何も治療をしなければ余命3か月」と医師に宣告されたそうだ。

彼女は数年前にご主人を肺がんで亡くしていた。ご主人の自覚症状は私同様腰痛から始まり、判った時はすでにⅣ期、手術はできない状態でした。
彼は化学療法で劇的に回復した私と会って “希望だ”と言い、頑張って抗がん剤治療を受け、さらに免疫療法や漢方による治療も受けていました。しかし、かつて私が治療に音を上げた時に「肺がんの人はもっと苦しいんです。」と主治医に叱責されたように、その治療の副作用は壮絶だったようだ。
ご主人の苦しむ様を傍で見守っていた彼女は「抗がん剤治療はしたくない。」と抗がん剤治療を放棄し、そして免疫力を活性化させると言われている体にやさしい民間療法を選択した。

10月になって彼女から「お喋りしながら食べた方がよく食べられるから。」と言ってランチの誘いがありました。以前よりいくらか頬がこけ、肝臓の機能が低下してきたのか顔色は少し黒ずんでいました。
スパゲッティを注文し、今どんな治療をしているかなど話しながら大方お皿をたいらげていた。そんな彼女を見て私は少し安堵した。食欲は生命維持にほかならない。
血液からリンパ球を取り出し活性化させて再び血液にもどすという免疫治療や、岩盤浴、そしてラジウム鉱泉と同様の効果をねらった微量のラジウム光線を浴びるという、いささか眉唾っぽいことも含めて、彼女なりに癌と戦っていました。
別れ際に「会えるのもこれが最後だと思う。」と言い残して解散した。

翌年1月に彼女の訃報が知らされた。広い自宅に一人で暮くらしていた彼女は、いよいよ自力で生活することに限界を感じて、終末期に対応してくれるというケアハウスに入居を決めた矢先のことでした。享年65歳、まだ天寿を全うしたというには少しはやい年齢でしたが、幕引きさえも自分で演出し、最後まで彼女らしく生き抜き、逝った。
会葬のBGMには自分の好きだった曲を流し、祭壇にはいつもの溌剌とした笑顔の彼女の遺影が飾られていました。そして花で「ありがとう」と綴り、私たちに最後の言葉を投げかけていた。
何とも彼女らしく、粋で素敵な告別式でした。

9月に亡くした友人は乳がんだった。彼女とは社宅時代から、ということは私がこの愛知県に来て以来の付き合いでした。40歳になったばかりで乳がんを発症、14年後に再発し、初発から24年後に他界した。
つづく



2013年~

2014年04月30日 | 闘病記
 友人からオーロラを見にゆく話がありました。オーロラツアーはそれを目的に見に行っても必ずしも見られるという保証はない。でもその年はオーロラ年といわれ、行けば大抵見ることができるといわれている。世にも不思議なあの幻想的な宇宙現象が観られる。次にそのような年が来る時は、私は存在しないだろう。2013年3月、フィンランドへ行くことにしました。
 実は、私は北欧の銀世界にオーロラの他にもう一つ、美しい霧氷を期待していました。うかつにもここフィンランドに来て気が付いた。ここはツンドラ地帯なのだ。落葉した木の枝に雪が降り積るあの繊細な霧氷の姿はなく、一年中葉をつけた針葉樹を雪が覆う、ぼってりとした樹氷だった。
 
 オーロラの観賞は3日間です。観測地点は宿泊のホテルから歩いて10分の所にある凍った湖上です。深夜10時にホテルを出発。-20度という初めての体験にしっかり着込み、目だけ残して顔の肌もすべて覆うようにして外出です。歩いている時の寒さは殆ど感じませんでした。街灯の光を受けてダイヤモンドダストがキラキラ輝いていました。
 湖岸には民家が数軒とレストランが1軒ありました。周囲の光や建物に邪魔されないように、私たちは湖岸から20メートル程湖上に入り、そこでオーロラの出現を待ちました。さすが-20度の世界、5分もじっとしていると寒さが堪えてきました。
 1日目は湖上で1時間程待ちましたがオーロラは出現しませんでした。2日目も現れる様子がなく諦めかけた時、夜空の正面に明るい星の様なものが現れ、みるみるボール球くらいになってきた。間もなく縦に筋状の雲が延び、そして横へ、瞬く間に夜空一面に広がりました。
「きれい!」「緑色だ!」など皆は口々に言っています。でも私の目には夜空に薄い雲がかかっている、としか見えない。オーロラのその色は私には判りませんでした。私は色盲というわけではないのにショックでした。訳がわからず、落胆しました。3日目の観測は行くのをやめ、ホテルに残った。

 日中のフリータイムは村の観光案内所へ行き【トナカイのそりと原住民との1日生活体験ツア-】に参加申し込みしました。バスでラップランドの森の奥深くへ行く。何もかもが雪の綿帽子を被り、穏やかな銀世界が広がっている。森にはいろんな動物の足跡が見られ、まさにここはムーミンの世界でした。

 帰りの飛行機の中では、あちこちから咳が聞こえました。風邪に感染しないようにマスクをしましたが、長時間密閉された中に閉じ込められ、飲食の時はマスクを外さなければならない。避けようもなく風邪を引いてしまった。
 帰国して3日目くらいから体調が悪くなる。疲労もオーロラショックも加わって倍増したと思う。体がだるく熱がでる。咳も酷くなり、咳をするたびに喉がヒューヒュー鳴っている。また気管支炎をおこしたようです。夜は一段と咳と痰がひどくなる。クリニックでもらった薬の他に、夜はアロエの果肉を食べました。そのお陰か、今回は1か月半ほどで咳も痰も引き、収束に向かっていきました。

 5月9日検診。 なぜかアルカリフォスファターゼ(骨などの炎症反応)が449(103~355)と高い。
 11月19日検診。 コレステロール値以外、CTもすべて正常。

 2014年4月、初発から紆余曲折しながらもまる15年が経過しました。
 1999年3月、あまりの体調の悪さに総合病院へ行き精密検査をしてもらい、ようやく本当の病気である濾胞性悪性リンパ腫が判明した時は、すでに臓器や全身の骨に病巣が広がり、一般的に言えば手遅れ状態でした。しかし「5年生存率は40%です。」と言われた先生の言葉に、幾度か大きな選択を迫られる場面があったが、死を覚悟をしつつ、可能性に賭けた。その都度自分にとって何がベストか考え、選択してきました。勿論、選択するに当たっては、いい事も悪い事も含めての情報が必要です。自分で納得して選んだ事の結果はどうあれ悔やまない。あとは〈ケセラセラ〉だ。

 癌細胞は自身の変異細胞だ。言い換えれば癌細胞も自分の一部です。同じ親から生まれた兄弟姉妹を比べ見ても異なった顔、異なった性格をしているように、癌細胞も又、分類上では同じタイプの癌だとしても微妙に異なる性質があり、従って抗がん剤に対する反応の仕方は人によってそれぞれ異なります。同型の癌に同様の治療を施したからといって、同様の結果が得られるというものでもない。
 
 最後にこれからがん治療を受ける方に、現在のがん治療は日進月歩、日々新しい治療法や新薬の研究がなされています。〈可能性を信じ、自分の納得したよりよい選択をしていくこと〉を私からのメッセージとしたいと思います。




退院後(2009/4/5~) 肺炎(2010/3/15~) そして気管支炎(2011/5/22~)

2014年04月22日 | 闘病記
 カビが原因で間質性肺炎をおこした人の中には家を引っ越した人もいるという。そこまでは出来ないが我家も何らかのカビ対策をしなければならない。かなり前に水道管の接続部分から水漏れをおこし床下全体に浸透した水は抜けず、床下はかび臭く、この湿気が一因と思う、
 30年経った家なのでそろそろ手入れ時にきていた。2年前にリビングのフロアーの一部がふかふかして浮いてきていたので、1階部分の水回りとすべてのフロアーを改装しました。今回はこの床下からくる湿気対策に重点を置いて改装計画をたてました。

 床下の湿気対策をインターネットで調べてみる。コンクリ―を流してベタ基礎にする方法、これは新築でないと難しい。床下に炭を敷く方法、これはかなりコストがかかる。一番安価で簡単な方法の防湿シートを敷く方法ですることにしました。それと共に前回やり残した和室2部屋もリニューアルすることにした。畳は湿気に強く、抗菌性のある畳に入れ替えました。
 今は床下収納の蓋を開けても、カビの匂いはしなくなりました。
 掃除機も噴射口からダストが出ないよう、濾過するようにしました。

 2010年3月、インフルエンザの予防接種の効果が切れた頃、風邪を引きました。微熱でしたが咳がひどく、前年に間質性肺炎を患っているので、呼吸器を専門にしている医院を選んで行きました。
 その日の夜、就寝中に突然強い吐き気をもよおし目が覚めた。起き上がろうとしてもふらついて起き上がれません。這うようにしてトイレまでいきました。体温は39度にまで上昇していた。
 翌朝、再び医院へ行きました。症状の急変に採血とレントゲンを撮り、肺炎と判ると1日分の解熱剤が処方され、間質性肺炎を治療した日赤にアポイントを取り、紹介状を書いて下さった。

 3月17日、9時の予約に合わせて主人が運転する車で病院へ行きました。痰を採取し、レントゲンと採血をしてその結果を待つが、ここからが長時間待たされる。前日にもらった解熱剤が効き、気分は良くなっていたので助かりました。診察に呼ばれた時はすでに11時を回っていた。
 今回は懸念した間質性肺炎の再発ではなく、細菌性の急性肺炎でした。内心では入院を覚悟していましたが、1週間分の薬が処方され、次の予約は1か月後と以外に軽い扱いでした。
 病院で待たされたことが祟ったのか、その晩から絶え間ない咳と、喉に痰がからまり眠れなかった。薬を飲んでも咳も痰も一向に治まる気配は無く、苦しい1週間が過ぎました。再度病院へ薬をもらいに行き、また1週間分の薬が処方され、これで肺炎は何とか収束しました。

 2011年5月22日、風邪がきっかけで気管支炎になる。これも肺炎の時のように激しい咳と痰が連日連夜続き、安静を保つように体を横にすると更に咳が酷くなる。胃の辺りに筋肉痛がおこるほどでした。2か月が過ぎ、日中の咳はかなり少なくなりましたが、夜中は相変らず咳込む。この状態が3か月以上続くと喘息に移行するという。そうなる前に治したい。
 以前テレビでアロエは〈抗菌作用のほかに組織を再生する効果がある〉と言っていた。気管支にまで効果があるか分らないが、少なくとも食物が通過する喉には効果があるだろう。庭に植えてあるアロエで試してみました。緑の表皮は苦いので皮をむき、中のゼリー状の部分を、お刺身を作る時の要領で削ぎ取って食べました。その部分は少しの滑りと歯ごたえがあり、苦味はなく無味無臭で食べやすかった。正解でした。これを毎晩寝る前に食すると、寝ている時にでていた咳は徐々に治まってきました。

 2012年、年3回のCT検査もクリアした。この年は特記するよう出来事は無く、ようやく健康体なれたかのようでした。
つづく


間質性肺炎治療

2014年04月15日 | 闘病記
 入院治療計画書に提示された2週間の入院期間はとうに過ぎている。長引く入院に筋肉の衰えを警戒した私は、出来るだけ立つことを心がけました。
 病室は9階にあるので見晴らしは最高です。入院当初は廊下側のベッドでしたが、窓側の隣の人が退院した後に移動させてもらいました。窓際に置いてある物入れのトップがカウンターになり、立食するのに丁度いい高さで、夕食以外は外を眺めながら立ったまま食事をとるようにしました。よく晴れた日は遠くに御在所や八ヶ岳、雪を被ったアルプスまで望めました。
 息子がお見舞いに買って持ってきてくれたポータブルのDVDプレイヤーでCDをかけ、窓際に立ち、ヘッドホーンで聴き、そんな外の景色を眺めながら病院の所在ない時間をやり過ごしました。
 パソコン仲間がお見舞いに来た時、風邪を引いて一緒に来られなかったメンバーの一人が、お見舞いにとCDを託して持ってきてくれました。少し前までテレビ放映されていて、緒方健の遺作となった「風のガーデン」のBGMに使われた曲入りのCDで、イングリシュガーデンに咲く花々をモチーフに作られた曲はどれも美しく、心癒されるものでした。中でもテーマソングになっていたショパンのノクターンがよい。

 炎症反応を表すCRPについていえば、入院前の11月の血液検査で2.82(基準値<0.30)とすでに高く、しかし12月は<0.2と正常値になっていた。2月12日の入院当初は3.35とまた高くなり、軽い呼吸困難をおこしていた。
入院から11日後の2月23日データーでは0.31に下がり鎮静したかのように見えたが、2月26日は再び3.84に急上昇する。
 3月2日の肺生検の手術前の血液検査では3.42でした。手術直後の3月3日は急上昇し5.92に、これは手術によるものでいたしかたない。3月9日には0.68にまで下がる。

 生検の為に肺の一部を切除した一週間後の3月9日に病院として一応〈亜急性肺炎〉と結論づけ、ようやく治療が始まりました。しかし「まだグレーの部分が残る。」として、京都にある肺炎の研究グループに検査を依頼、さらに確実な原因究明が続けられた。
 この日からプレドニンを1日8錠を服用し始めました。服用から3日後、瞬く間にCRPは0.23と正常値になり、17日には<0.20、完全に抑えらた。翌日ようやく酸素吸入は外されました。

 肺炎をおこすことで赤血球も低下してきました。入院した日は386、低目の基準値内でした。3月2日の開胸生検直前の赤血球は351に低下、術後の3日には更に318と急降下していました。この急降下は手術の影響だろうが、それから1週間経った9日の血液検査でも316と少しの改善もみられなかった
 プレドニンを服用し始めて3日が経過した3月12日の血液検査ではCRPは正常値に改善されていたのに、赤血球は314と更に低下していた。

 病院食だけに頼ってはいられない。私は3日おきに来る主人に「病院に来る日はレバーの串焼きを買ってきて欲しい。」と頼みました。病室には各自にレンタルの小さな冷蔵庫があるのでそこに保管して、毎朝レバーの串焼きを1本ずつ食べ続けました。
 その成果か、薬が効果を奏してきたからか、その両方だと思うが、3月19日の血液検査では赤血球も340、24日372、31日385と着実に改善されてきた。

 炎症は確実に抑えられている。投薬開始から18日経った3月26日、8錠だったプレドニンは6錠に減りました。副腎皮質ホルモンであるプレドニンは止め方が難しい。急に止めると副作用がでるので、気長に少しずつ減らしていく。

 京都へ依頼していた検査結果が出ました。不可解な炎症反応の乱高下は、前年に母が入院した10月以降、我家と実家の間を頻繁に行き来していたことで、家のかびである原因因子に、つきつ離れつしていたことによる、という結論でした。

肺炎も治まってきたので〈お試し外泊〉です。私が家に帰る前に家の徹底したハウスクリーニングをしてカビ退治をするように指示されました。また、羽毛布団もやめるよう指示があったので、長年使っていたウールの絨毯にはまだ猫の毛が残っていると思う、私が家に帰る前に処分するように主人にお願いしました。

 4月1日、1か月半ぶりに帰った我家の庭は、水仙やビオラなどで花盛りでした。主人には多大な心配と迷惑のかけっぱなしでしたが、4月4日、ようやく退院が決まりました。
 退院当日は11時ごろ病院を出たので、久しぶりにレストランで美味しい食事をした。更に、今年のお花見の頃はまだ病院だろうと半ば諦めていましたが、嬉しいことに間に合いました。食事の後は名古屋城へ、まだ5分咲きでしたが、少し早めのお花見をして帰りました。
<div style="text-align:right">つづく


間質性肺炎の原因究明

2014年04月08日 | 闘病記
 間質性肺炎はなかなかやっかいな病気だ。原因因子は様々で、原因究明のため住環境や結婚前の職業まで過去に遡って生活環境について聴かれる。このまま入院といわれたので「一旦、家に帰りたいのですが。」と申し出ると「家に原因があった場合、家から離れることで治ることもありますから。」と言われた。古い木造住宅などはカビが発生して、それが原因で間質性肺炎をおこすことがあると言う。我家は築30年の木造住宅だ。そういえばだいぶ前になるが水道の配管の接続部分から水漏れをおこしたことがある。敷地は道路より1メートル程高いにも関わらず床下にこもった湿気はなかなか抜けず、床下収納の蓋を開けるとプーンとカビの臭いがする。「家のカビが原因で間質性肺炎をおこした人の中には、家を引っ越した人もいます。」とも言われた。
 それに、長年猫を飼っていた。すでに10日ほど前に老衰で死んだが、動物の毛なども原因因子になり得る。

 呼吸器科の病室はリニューアルしたばかりの病棟の9階にありました。4人部屋でしたが室内に洗面の設備があり、1人分のスペースもゆったりして見晴らしもよい。ベッドが決まると間もなく酸素吸入の管につながれ、行動に制約がかかった。
 担当医は若い女医さんで、入院療養計画書と検査の同意書を持って挨拶にきました。入院療養計画書によると【病名(他に考え得る病名)】過敏性肺臓炎の疑い、呼吸不全 【推定入院期間】2週間程度の予定【検査内容・日程】2月13日(金)気管支鏡検査…とあり、確定診断のため肺腔鏡下生検は、肺を洗浄して、その洗浄液を回収、同時に肺の組織を数か所つまみ取り、回収した洗浄液と細胞を検査する、という。肺にまで管を通すなど、聞いただけでも大変そうな検査です。

 喉の麻酔は口からスプレーで噴霧、それを深く吸い込む。気管支に届くように何度も繰り返す。次に仰向けに寝てマウスピースを口にくわえ、ファイバースコープがゆっくり挿入されました。しかし、途中で急に息が吸えず、呼吸ができなくなった。苦しくて体をばたつかせた。「落ち着いて!」という先生の声が聞こえるが、このまま窒息死しそうで落ち着くなんてできない。間もなく息ができるようになったが、きっと気管から気管支に入るカーブしたところで一時的に気管が塞がれたのだろう。治療そのものより検査の方がはるかに大変だ。

 大変な思いをして受けた検査なのに、採取した細胞が小さくて判定が出来なかった。今度は「肺を1センチくらい切取る開胸(腔鏡下)肺生検をしたい。」と言う。脇腹に1センチくらいの小さな穴を3か所開けるだけなので体に負担は少ないと言うけれど、前回の生検の恐怖もまだ残っている。何時だったか新聞に、未熟な医師による腹腔鏡手術で患者が死亡した記事が載ったことがある。
 入院をしてから1週間経ち、炎症反応を表すCRPは下がってきたものの、その他のマーカー、KL-6やSP-Dは上昇している。できれば検査で体を切り刻んでいるより早く治療に入ってもらいたいのが本音だ。
 一般的にカビによる過敏性肺炎はカビが発生する夏に発症するが、今は厳寒な冬だ。それに入院前からのCRPの変化を見るとかなり上下している。この不可思議な症状に先生は苦慮されていた。「再発した時の為にも原因を突き止めないと。」と説得され腹腔鏡手術による生検を受ことにしました。

 2月20日、主人と一緒に外科部長の先生から手術の説明を受け、同意書にサインをする。医術は本当に日進月歩している。肺の一部を切り取った痕は、縫うことなく糊様のもので接合するそうだ。この糊についても説明を受ける。原料は人の血液から作られ、副作用の箇所にはショックだの血腫だのいろいろ書かれてあり、深く考えては同意書にサインできなくなるがそれは希のことだろう、この同意書にもサインをする。

 先生の手術のスケジュールが詰まっていて、私の手術は3月2日に予定されました。
その日の午後に手術は行われました。手術台に寝かされ、頭からすっぽり布をかぶせられる。麻酔科の医師だろう2人が入室して来ました。話し声が聞こえる。「右か。」「いや、左だ。」手術する側を話していました。私の場合は悪い箇所を切除するわけではないのでどちら側でも良いとは思うが、それでも決められた通りにしてもらいたい。

 麻酔から覚めた時は病室のベッドに、管を脇腹につないだ状態で寝かされていた。体を動かすと管に引っ張られて痛い。鎮痛剤を飲んでも完全に痛みがなくなるわけではなく、痰が酷く喉にからまり、咳をするたびに傷口に響く。夜も痛くて眠れなかった。軽い手術なので、翌々日の朝の回診時に管が抜かれ、痛みも非常に軽くなる。
 しかし、今回も不可思議な経過をたどっている私の肺炎はグレーの部分が残り、京都にある肺炎の研究グループへ生検を依頼することになった。
 
つづく