あきーとのブログ

ブログにより、まず、大学の学生時代の親友、その人生を語ることで、逆に自分の人生を見詰め直したい。

今までの人生の思い出

2017-03-30 11:13:06 | 日記
 このブログで過去人生の辿った経過を語ってきたが、改めて要約したい気持ちになった。苦しかったことや楽しかったことや思い出深いことなど様々な思い出がある。     

(1)子供時代:昭和20年8月15日、日本が敗戦を迎え天皇陛下の宣言が放送された。デンと構えたラジオ台に、家族の皆が正座して聞き入った。まだ10歳の子供、陛下のお言葉は何を言っているのか分からなかった。我が家の前は、米軍の空爆を避けるため私鉄の近くの家屋は撤去され空き地になっていた。その空き地の前、二人で出て父親から、真剣で鋭い顔で「日本は敗戦して今後何が起こるか分からない」と言われた。このことを今でも鮮明に覚えている。

(2)戦後、小学校3・4年ころだったか、荒れた校舎や通学する同級生などの悪仕草に恐れを抱き、登校するのが嫌になった。今で言う登校拒否であった。学校に行きたくないとは親に言えず、登校途中の神社に立てこもり登校しなくなったこともあった。親のことや学校のこともあり、毎日連続して立てこもったりはしなかったようだ。6年生の卒業式が終わり、トイレで担任の先生と同席し「中学校でも頑張りや」と激励された。このことも今でも鮮明に覚えている。

(3)昭和23年4月に、東急目蒲線(目黒―蒲田間走行)の目黒から一つ目の駅「不動岩前」にある私立攻玉社学園の中学校に入学した。当時、自分の出た品川区立第二延山小学校からこの中学には4人応募し自分を含めて2人が合格した。それなりの学校であった。自分の家庭は狭いところに家族6人が住んでいた全くの貧困家庭であった。自分は抜け出したい思いがあったのか、勉学にいそしんだ。これにも思い出深いものがある。

(4)中学はまじめな者もいたが、中にはよたった不良な者もいた。自分はそんな雰囲気に嫌気がさして、高校は都立に転向しようと考えた。隣の駅前にある評判の都立高校に志望した。何せ当時、都内最高評価の日比谷高校に次ぐ高校であった。しかし、見事不合格になった。誠にショックであり、中学の卒業式も出席できなかった。クラス代表が自宅へ来て、高校への継続進学を進められそれに従った。
そのクラス代表は、高校を出て現役で東京工業大学に合格し、その後北海道大学の博士課程を出て北大薬学部の教授まで昇進し、退官後青森大学の学長に就任した。また、中学時代自分の隣に席にいて良く知っていた生徒は、都立新宿高校に転出しその後東京大学に進み、NHKに入りプロジェクターとして活躍し名前の知られた知名人になっていた。

(5)東京の有名国立大学に進学すべく一生懸命に勉学努力したが、不合格になった。1年浪人して代々木の予備校に通った。狭い自宅には勉強机もなく、予備校の部屋で夜遅くまで勉強し帰宅は夜9時に近かった。気力・体力も使い果て、翌年の初め肺結核になってしまった。療養は自宅の狭い所で寝たきりで、自暴自棄にもなり本当に苦しかった。このことも昨日のことのように思い出す。

(6)療養の翌年、国立千葉大学電気工学科に応募し合格したが、あと1年の療養を申し渡された。結局、高校卒後3年も遅れて入学した。登校に1時間半かかり、クラブ活動ほか一切参加せずひたすら勉学に励んだ。成績はクラスのトップになった。当時日本は高度成長時代にあり、工学部出身は大企業から引く手あまた、多少成績が悪くとも殆どの学生は大企業に就職した。自分も大手電機企業を志望したが、年と病歴により採用されなかった。三菱電機や日本電気に志望したが断わられた。同僚の学生は自分より成績も下で人物的にも優れているとも言えず、これもまたショックだった。


(7)12月に航空自衛隊から、将来の技術幹部として採用したいと申し込んできた。当時、安保10周年にあたり、改定が日米で検討された。当時日本の首相は岸信介であり、今の首相安部氏の叔父であった。改定反対が学生ともども盛り上がり、東大安田講堂を占拠して拠点とした。警察とかなりの騒動になった。当時、自衛隊は税金泥棒と呼ばわりされ、極めて厳しい状況にあった。そんな中、自衛隊の応募に否定的であったが、大手電機メーカーの拒否への対抗意識もあり、入隊後に大学院へ行かせるとの誘いがあり、応募しようと決心し採用された。
昭和36年4月に奈良の幹部候補生学校に入り、3か月間の研修を受けその後所属部隊に配属され、翌年4月に大学院への試験勉強のため横須賀市にある防衛大学校に派遣された。当時、東大は自衛隊の受け入れを拒否したが、京大はじめ旧帝大はOKであった。自分は京大に行くべく勉強した。9月までの間、気分転換で防大や横須賀近辺を散策した。今でも横須賀あたりを懐かしく思い出す。9月に行われた試験に合格した。当時、防大で受験勉強をしていた陸・海・空の技術幹部候補生は10数名いた。京大、東北大、北大、防衛大等に合格した。京大には自分のみだった。親友の大学同期生は阪大に落ち、北大に合格した。
昭和38年2月早々、京都大学大学院工学研究科電気工学専攻修士課程に派遣された。京都市左京区百万遍にある古き木造校舎に出向き、指導教授の先生に挨拶に伺った。教授室には女性秘書がいて、教授の多忙な仕事を垣間見た思いがした。実際、教授は科内では電気工学科の主任を、科外では照明学会会長を務めていたので、書類作成・講義・学会取り仕切りなど多忙を極めていた。教授の傘下に2つの研究室があり、専門分野はプラズマ放電と材料開発であり、自分は後者の研究室に入った。その責任者は福井大学工学部電気工学科1期の卒業生であった。


(8)昭和40年3月に卒業し、岐阜の実験航空隊に配属され、以後3年間航空通信関係の技術開発及び試験業務を担当した。昭和42年春に、京大でお世話になった研究室責任者に呼ばれ従妹の女性を紹介された。岐阜・福井・京都でデートし、その年の12月8日京都で指導教授ご夫妻の仲人で結婚式を挙げた。住まいは岐阜で借家であった。翌年早々、京大の指導教授に呼ばれ、新設3年になる国立福井工業高等専門学校に行ってくれないかと強く要請された。いずれ将来は研究開発関係の仕事につきたいと教授に言っていたこと、及び福井高専電気の主任が京大電気出身で若手教官の採用を教授に頼んでいたことから起きたことだった。高専への転職は自衛隊側の強い反対があり極めて難航した。詳細は、ブログの「高専での思い出」に記したので参考までに。昭和43年4月に福井高専に着任、鳥羽公務員宿舎に入居、高専1期生は既に4年生になっていた。4年生からの専門科目、3年生以下の専門基礎科目および電気関連の実験・情報基礎科目を担当し、殆ど毎日これらの講義に追われた。それに、担任制度もあり、1~2年生は一般科目の教官が3~5年生は専門科目の教官が担当し、2~3年ごとに担任が回ってくる。その他に教室会議・担任会議・教官会議があり誠に忙しく立ち回ってきた。講義や実験など前もって予習しなければならず、朝8時過ぎ登校し夕方6時過ぎまで埋まっており、自分のことなぞ全然できない。もし学生に不祥事・成績不良・欠席などあれば、学生及び父兄を呼び注意することが義務ずけられて、一日終わるとぐったり疲労困憊であった。
   こんなことが数年続き、ほとほと嫌になって懇親会の席で校長に言ったら、「高専は大学と違い学生の年齢が高校生並みであり、教育と生活習慣重視であり、もし自分のことをやりたいのなら「アフターファイブ」、夕方5時以降生徒が帰った後だよ」と言われた。納得すると同時に情けなくなり、高専への失望感と敗けじ魂が沸いてきた。頭を切り替えて、5時までは坦々と業務をこなし、5時以降自らの研究に没頭しようと誓った。5時以降の会議など出来るだけ避けて、欠席するか途中で切り上げるか自分の時間を確保した。土・日も必要なら登校し自分の研究遂行に努めた。19歳で肺結核をやり計2年間療養に努め、結果的に3年遅れて大学を出た苦い経験を体力的・精神的に気使って、研究成果の邁進につとめざるを得なかった。実に大変な思いをしたものだと今更ながら思い出す。

(9)研究費・実験施設・研究支援者などなく、全て一から用意せねばならなかった。当面の目標は、博士号の学位を取ることであった。しかるべき研究成果が必要、それには評価に値する研究論文と学会での研究発表など、第三者から評価される実績が要求される。一人前の研究者になるには避けて通れない関門であった。高専で取るには十分な時間と労力なくして不可能であった。途中で諦めてしまったらおしまい、大手企業や大学の研究者に見下げられることは確実で、学会とか論文投稿で嫌と言う程何度も経験させられた。敗けてたまるかの一念、アフターファイブも受け入れた生活にもなじまざるを得なかった。高専へ来て10年経った4月に、京大で指導を受けた先生が校長として赴任した。対外的な学会などで名の知れた恩師が来るとは驚きであり、また電気工学科にとって良き理解と応援が得られると期待した。高専へ来て10年も経ち、研究も軌道に乗りかかっていた頃で、喜びもひとしおであった。その年国の研究助成の申請が採用され、2千万円近くの研究設備が購入された。今までの理論主体の研究が新設備により実験的に証明されると心躍ったのを今でも鮮明に覚えている。しかし、大型装置を動かし目的の試作品を得るのに時間と労力がかなりかかった。自分一人では時間的にも体力的にもかなりきついものがあった。助けてくれる学生や職員はおらず、結局自分一人でやらざるを得なかった。この時期本当に苦しかった。なにせ全て自分一人でやらねばならず、時間も体力も限界に近かった。

(10)校長は、高専創立20周年目の昭和60年秋記念行事を行った。鯖江市のシティーホテルで、県内有力企業・県議会関係幹部・国立大学幹部・国の文部省幹部が出席して盛大な祝賀会になった。出席者は300人ほどになった。盛大な会であった。校長は極めて満足な様子、こちらも嬉しく今後の生きる指針を与えられたと気分爽快であった。翌年、校長は昭和61年3月に定年を迎え退職した。高専には8年間いたことになる。本当にお世話になった。毎年お盆と暮れに家内と官舎にお邪魔し楽しい一時を過ごさせていただき、思い出深い感謝の極みであった。退職後のその年、勲2等瑞宝賞の叙勲を受賞され、盛大なお祝いの会があり京都までおもむいた。これも昨日のように思い出す。

(11)大型設備は導入されたが、取り扱い・複雑な作業手順・試作監視体制など一人でやるには、付きっきりで装置についていなければならず、時間も手間も誠に大変だった。それもアフターファイブで、土・日も出勤しても追いつかない。あっと言う間に1年2年経ってしまい心も体も消失し、あっと言う間に5~6年経ってしまい、成果もあと一つ、本当にしんどかった。
その頃、助け舟が舞い込んできた。電気を卒業し京都工芸繊維大学に進み、その後京大修士課程に進学した学生が、当時主任であった小生に高専への就職を依頼して来た。クラブ活動も勉学も活発にやり研究意欲も優れており、学科内や校長に根回しをして助手として採用した。もう一人、同じ高専電気卒で地元の企業に勤め、研究志向強く技官として転勤してきた。2人とも小生と同じ研究方向であって、一人で何もかも背負い込んでいた研究体制が分担でき、この時点から研究は飛躍的に進歩向上した。活気あふれる意気合いあい、実に楽しく人生意気に感じた。年に数回、学会発表及び電気関係・応用物理関係、はたまた海外への論文投稿と忙しく活気溢れた毎日であった。助手の人は九州大学で博士の学位を取得し、一般公募により関東の大手私立大学に20倍の応募者の中から採用され、現在はその大学の教授として活躍している。また、技官の人は高専に在職しながらの研究業績が認められ、学部を飛び越えて福井大学修士課程に入学を許可された。さらに博士課程に進み、学位論文の作成を目指して頑張っている。自分は平成に入り、数年後名古屋大学に学位論文を提出し、博士(工学)を取得した。ここまで来るのに高専に入ってから20数年かかっただろうか。京大でなく名大になったのか、もう既に京大には修士時代の指導教授も2つの研究室の責任者も既に定年退官されていたが、この掛り合いから名大に紹介された。ここまでよくも頑張ったものと我ながら感心至極、ご苦労さまと言いたい。

(12)平成11年3月、63才で高専を定年退職し、以後2年間非常勤として講義に行った。平成13年4月、福井工業大学に常勤として採用された。従来、高専から何人かが工大に行ったが皆助教授として採用され、数年後教授になっていた。しかし、自分は当初から教授として採用された。博士の学位と研究業績を評価された結果だと思った。高専とは違う学生指導と研究雰囲気であった。学生は成人で個人責任として扱われ何かあっても親など呼ばない、それで済んだ。研究時間も十分あり自由な雰囲気であった。高専とは全く違っていた。7年間勤め、72才で定年退職した。退職金も出て、私学共済組合からこずかい程度であるが年金が支給された。
退職後の平成20年、福井県美容製菓専修学校に非常勤として採用され、「美容のための物理化学」の講義を担当した。平成28年12月まで勤めた。やっとフリーになり、現在に至っている。よくも務めたもの、いろいろ体に障害が起こったが日常生活には人の手を借りずに此処まで来ている。これも感謝感激である。

(13)昭和20年の終戦からいろいろ辿ってきた思い出をとりとめなく書いてきたが、自分にとっての大事な転機及び現在ある心の支えとは何かを考えてみた。今がそれなりに幸せなのはと辿ってみた。最大の転機は、京大修士の指導教授とのめぐり合わせではないのか。先生の紹介で高専に勤め、博士の学位も取り工大に勤め、専修学校に繋がった。しかし、京大へは自衛隊に入ったから行けたのでは。あの安保改定反対で世の中大騒動、千葉大4年時の昭和35年秋、安保反対で電気のクラスも国会前に集合し自分も面白半分で参加した覚えがある。大手電機メーカーをはねられたくやしさもあり、自衛隊に怒りをぶちまけた全く情けない行動であった。しかし、自衛隊に入り修士課程に行かせてもらい、そこから次の人生が辿れたのか、または3年遅れの大学進学があったからなのか、混乱して来た。こんな考えは今まで、避けてきたような気がする。こんな身勝手な自分の記事を書いて見て、あらためて非常に大切な視点が見えて来たような気がする。

(14)70才を超えた頃から、体のあちこちに不調な兆しが見えてきた。専修学校に勤務した翌年に、腰部脊柱管狭窄症で足底に痺れを覚え、長時間立ったり歩くことが苦しくなった。更に、その後6年後やはり専修学校にいた頃、階段で足を滑らし転倒し腰を強打し、入院治療の憂き目にあった。整形外科の治療や各種の薬及び健康食品に救いを求め、今日に至っている。腰の痛みや痺れ、及び足の痺れは軽減されてきたが、長く立ったり座ったりしていると、症状が出てくる。これに悩まされつつあり、それらの対処として簡単で効果があるリハビリを自分自身で試みて、少しずつではあるが効果を実感したいと思っている。
 毎日思い出しては、ブログ中で紹介した「腰痛の3種類」にある第2と第3に対する屈伸運動をしている。効果はと聞かれると今一つで、長く立ったり座っていると腰痛に見舞われる。ひどい腰痛ではなく、この先継続運動をしながら早期に回復を熱望している。

(15)一方気分転換して、やっとこれからの人生を謳歌したい気持ちになってきた。あんなに思い詰めて、体や心を苦しめられた日々は、一体何だったのだろうか、人生年を取ると見えて来ないものが見えてくる。人生苦あれば楽ありだ。年取るのもいいものだと思えるようになってきた。今では嫌なことは気兼ねなく拒むことが出来るのに、若いときは後ろめたくて一日中気になっていた。お陰で今はかえって幸せ感が沸いてくるし、誰にも気兼ねなく自分の思うように行動できるようになって来た。こんなことは在職中には出来なかった。先日も横浜の親戚宅のおやじが90才になり心臓麻痺で亡くなった。本来なら自分が葬式に行くべきだが、例の腰痛が気になり、代理として次女に行ってもらった。以前なら極めて後ろめたさがあって、落ち着かない動揺にさいなまれていたはずなのに、今はそんな動揺はなく「お互い年たったものよ」と一種の諦めと安堵を覚えた。これって何なんだろうか、不思議な気がした。
 今後はただ健康には気を付けて、孤独でもいいから心の落ち着きと安らぎに心して努め、人生を謳歌できればと願っている。


 

  




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