古文書を読んで感じたこと

遠い時代の肉声

拙者共家名無御座 三田洞村

2016-10-14 01:04:47 | 古文書史料紹介
百姓というと近頃は差別用語らしい
教養のない田舎もんを指し、蔑んだあるいは小馬鹿にした意味あいが潜むからだ

百姓の語源を調べてみたら、とてもそんなんではない由緒ある言葉であった
小生などの手では書き尽せない程の経緯があり、突き詰めたい人は調べてみてほしい

で、小生が認識する百姓=農民という概念は江戸時代に入って確立したようだ
農民を分類(はなはだ不適切な表現だが)すると本百姓と平百姓に分けられ
庄屋・名主などの村役人や豪農・地主を本百姓
それ以外の普通の百姓を平百姓と云い、脇百姓=無高、小前、水呑などの中下層農民を指す

こんな論文もあった
江戸時代、美濃の農村部においては頭百姓といわれる有力農民が自分たちの家系を誇り
同族集団を作って村の重要な役割を独占し村政の実権を握っていた
頭百姓はもともと武士であった者が多く、在地の農民となった
その他の小百姓を脇百姓とか地下百姓と呼ばれていた

要するに何が云いたいかというと、苗字は上層階級の百姓にはあるが
平百姓とかその他の小百姓とかいわれる一般の庶民である百姓にはないと思い込んでいた
だから財力をつけた下層階級の脇百姓が家名を名乗りたいという今回の史料は
珍しい史料だとわくわくして取り上げた

知らないということはまことに恥ずかしいことで
チョッと調べれば珍しいことでも何でもないことがすぐにわかる

ウィキペディアの「名字」庶民の名字欄に
名字(苗字)は姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく
近代までは誰でも名乗ることができた
家人も自分の住む土地を名字(苗字)として名乗ったり
ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした
江戸時代には幕府の政策で武士公家以外は原則として名字を名乗ることが許されなかった
これをもって「江戸時代の庶民には名字がなかった」という具合に語られることがある
だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表する名もある
また先祖が武士で後に平民になった場合に、先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった
ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった
そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる
また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った





つぎの文書は三田洞村の文書である

この場合の名字(緞名=家名)を名乗ることを許可するのは村方御一家であり、林御一家である
もちろん公的な場合に名乗れるわけでもなかろう

     一札の事
一拙者共緞名無御座候ニ付、高富村杉山長兵衛殿、
 同村荒尾左兵衛殿、鷲見辰右衛門殿、岩利村桐山与次右衛門殿
 西粟野村野沢甚蔵殿御取噯ニて、村方御一家惣
 方より森氏并紋ハかたばミ御免ニ被成、取扱ニて御済
 被下忝奉存候。向後村方御作法の義ハ不及申、少も
 奢りヶ間敷無礼等仕間敷候。為後日證文加判仍て如件
              三田洞村本人 紋三郎㊞
   享保弐拾年卯八月日      同断 文 七㊞
              高富村 取噯 長兵衛㊞
                  同断 左兵衛㊞
                  同断 辰右衛門㊞
              あわ野村同断 甚 蔵㊞
              岩利村 同断 与次右衛門㊞
      善蔵殿
      喜十郎殿
      圓吉殿
      源松殿
      三郎兵衛殿
      甚八殿
      庄八殿
      源右衛門殿
      小兵衛殿
      孫助殿
      團四郎殿
      伴四郎殿         十一本の内


この文書は紋三郎、文七に「緞名」(家名)がないので、
「森氏」ならびに「かたばみ」の紋を許可してもらいたい
そのために近隣村々の有力者に仲立ちをお願いしてその思いを遂げたという筋書きである

「家名」を許可する側は、村方御一家惣方である
村方御一家惣方には当然苗字はあると思われるが、理由は後記する
高富村杉山長兵衛
高富村荒尾左兵衛
高富村鷲見辰左衛門
岩利村桐山与次右衛門
西粟野村野沢腎臓
以上5人は取噯人である
この人たちは多分苗字帯刀を許された庄屋役であろうことは十分想像できる

同じ内容の文書(この年より29年後の明和元年)がもう1通あった
後掲するが、その文書には「村方御一家惣方」の部分がは「村方御一家双方」と書かれている
すなわち、「惣方」は「双方」と同意と思われる
双方というからには「村方御一家」が複数存在するということで
一方は林御一家、更にその外の御一家があると考えたい
(三田洞村へ行けばすぐ分かることだが、調査してない)


     一札證文の事
一私名姓無御座候ニ付、此度西粟野村
 野沢茂大夫様、當村林御一家中様ぇ
 御願被下候処ニ双方御一家中様方
 御得心被成被下、則森名ニ酢漿の
 紋御許シ被下難有仕合ニ奉存候。
 依之子々孫々ニ至迄無禮奢ヶ間敷
 働何事不依不背御意、自今
 以後相慎可申候。為後々代一札
 依て如件
  明和元年申九月
          本人   伊兵衛㊞
          同断   忠四郎㊞
          同断   忠八㊞
      西粟野村加判 野沢茂大夫㊞
   林 与八様
   同 半助様


最初の文書は享保20年(1735)
2通目は明和元年(1764)のものであるが
最初の文書から約100年後の
天保4年(1833)の文書がある


    一札の事
一我等儀、家名無御座候ニ付、迷惑難渋仕候
 因茲芥見村篠田三郎兵衛殿、西粟野村
 野沢茂太夫殿、右御両人相頼申候処、御取繕
 被下候ニ付、森氏と申家名御差免シ被下候て
 難有仕合奉存候。然る上は無礼、無作法等仕間敷候
 万々一心得違在之候節は、御心添被下候義相背
 申間敷候。右の趣子々孫々至迄も急度
 相守り可申候。依之為後證一札、依て如件
   天保四巳年六月
          三田洞村願人 新治㊞
             同断  小七㊞
   小山屋敷 秀八殿
右の趣ニて双方御聞添御納得被下候ニ付、奥印
いたし置候。以上
           芥見村 
             篠田三郎兵衛㊞
           西粟野村
             野沢茂太夫院㊞


と、二度三度も森姓を歎願、その都度差し許されてるが、
どうした訳だろうか

当ブログ、16.9.14付タイトル名「脇百姓家作 三田洞村」は
今回使用史料の一連史料であり
随って森姓一統は脇百姓であり、身上りができているようでもあり、できなかったようでもある
面白い史料だった

結局明治5年(1872)に森姓は林姓に戻る?ことになる


    為取替證書
私共従来森姓相名乗罷在候處、戸数
寡ク不都合の儀も有之候ニ付、今般
高富邨鷲見治郎右衛門殿、椙山當兵衛殿
御立入、林姓御一統ぇ御組入の儀御取噯被下
候處、御惣方御納得被下忝奉存候。然ル
上ハ爾後何事ニよらす相互ニ睦間敷
実意随順可仕候。因茲證書如件
  明治五年壬申八月
         当人 林惣右衛門㊞
         当人 林 某  ㊞


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