わたしは人から「結構やのう~」と言われることが多く、どうもそれはほめ言葉らしいので、言われると喜ぶという、まさしく結構な具合なのだが、自分では長いことず~と結構どころか「内向的で人見知り」だと思っていたのだった。
人がわたしをどう見ようが、自分では「内向的で人見知りな自分」が本当の自分だと思っていた。表舞台に立ったり先頭に立ったりする必要が出てくるときがあって、そういうときはやむにやまれぬ「サービス精神」から、本意ではなくてもやらざるを得なくなってするのであって、内心やだなーっと思っていて、だからこそやっぱり自分は「内向的で人見知り」であると思っていた。
実は昔、マリーナシティで海賊のショーのようなものを見たことがあったのだが、そのショーは観客をステージに上げて、いっしょに何かをやらせるタイプのショーで、そういうときにわたしの引き寄せの力は遺憾なく発揮され、はたして当てられるのであった。
海底か洞窟かに眠る宝箱を開けるためには、「おしりを振らなくてはならない」という。ここでわたしがかたくなに拒んでは会場のみなさんを大いにしらけさせることになってしまう。それは、自分としてはいただけない。こういうのは本当なら絶対嫌なのだけど、仕方がない腹をくくってやってやろう。と決めたのはいいのだが、「はたしておしりを振るというのは、縦であろうか横であろうか」という命題にぶつかってしまったのである。
ま、そのあとどうしたかというのはあえてここでは書くまい。とりあえず観客の期待にはわたしなりに応えたと思っている。
結局、何が言いたいのかというと、見た目や行動の印象と、内実というのは必ずしも一致しないということなのだ。だからやっぱり自分は「内向的で人見知り」には変わりはない、と思っていたのだった。
ところが最近「もしかして間違っているのは自分のほうじゃないのか」と思うようになってきた。というか、恥ずかしながらやっと自分のことが分かってきたということなのか、と思い始めている。
もしかしたらわたしは「内向的で人見知り」とかじゃないかもしれない。この程度の内向さとか人見知りとか、そんなのほかの人にとってみれば、普通のレベルにすぎないのではないか、もしかしてこういうのを世の中は「楽天的」とか「結構」というのではないか。
まあ、こんな馬鹿馬鹿しくも結構な話もないな、とわれながらあきれるのであるが、この「結構」というのはなにもわたしだけのことではなく、日本人の血に深く流れる魂ではないか、と思うようになってきた。そう、結構なのはわたしだけでなく、日本人の特質なのだ。
それが集約されているのが「千日詣」だと思う。千日詣の日に参拝すると、その日一日のお参りで、1000日分の御利益があるというのだ。本当は1000日きちんと毎日毎日行かなくてはならないところを、その日一日で済んでしまうのである。こんな結構なことはないではないかと思うのだ。
紀三井寺などは、初詣と千日詣の日は、もうすごい人だかりになっている。そのほかの日はというと人影まばらで、毎日足しげく通うような人はごく少数派とみられる。ほとんどの人は、初詣と千日詣でよしとしているのじゃないか。もちろん両方行かない人もいるだろうし、かくいうわたしも行かないのだが。
日本人は「真面目で勤勉」というのが一般的なとらえ方で、間違ってはいないのだろうけれど、本当は意外と「結構」なんじゃないかと、この千日詣を見ていて思う。真面目で勤勉な人は1000日通うと思う。
融通がきくというかなんというか、日本の神様は一つじゃなくていろんなものの寄せ集めになってるようなところからも、むしろおおらかさとか結構さがにじみ出ているのではないか。
いや~結構なことだなあ、とほめ言葉として思う。
人がわたしをどう見ようが、自分では「内向的で人見知りな自分」が本当の自分だと思っていた。表舞台に立ったり先頭に立ったりする必要が出てくるときがあって、そういうときはやむにやまれぬ「サービス精神」から、本意ではなくてもやらざるを得なくなってするのであって、内心やだなーっと思っていて、だからこそやっぱり自分は「内向的で人見知り」であると思っていた。
実は昔、マリーナシティで海賊のショーのようなものを見たことがあったのだが、そのショーは観客をステージに上げて、いっしょに何かをやらせるタイプのショーで、そういうときにわたしの引き寄せの力は遺憾なく発揮され、はたして当てられるのであった。
海底か洞窟かに眠る宝箱を開けるためには、「おしりを振らなくてはならない」という。ここでわたしがかたくなに拒んでは会場のみなさんを大いにしらけさせることになってしまう。それは、自分としてはいただけない。こういうのは本当なら絶対嫌なのだけど、仕方がない腹をくくってやってやろう。と決めたのはいいのだが、「はたしておしりを振るというのは、縦であろうか横であろうか」という命題にぶつかってしまったのである。
ま、そのあとどうしたかというのはあえてここでは書くまい。とりあえず観客の期待にはわたしなりに応えたと思っている。
結局、何が言いたいのかというと、見た目や行動の印象と、内実というのは必ずしも一致しないということなのだ。だからやっぱり自分は「内向的で人見知り」には変わりはない、と思っていたのだった。
ところが最近「もしかして間違っているのは自分のほうじゃないのか」と思うようになってきた。というか、恥ずかしながらやっと自分のことが分かってきたということなのか、と思い始めている。
もしかしたらわたしは「内向的で人見知り」とかじゃないかもしれない。この程度の内向さとか人見知りとか、そんなのほかの人にとってみれば、普通のレベルにすぎないのではないか、もしかしてこういうのを世の中は「楽天的」とか「結構」というのではないか。
まあ、こんな馬鹿馬鹿しくも結構な話もないな、とわれながらあきれるのであるが、この「結構」というのはなにもわたしだけのことではなく、日本人の血に深く流れる魂ではないか、と思うようになってきた。そう、結構なのはわたしだけでなく、日本人の特質なのだ。
それが集約されているのが「千日詣」だと思う。千日詣の日に参拝すると、その日一日のお参りで、1000日分の御利益があるというのだ。本当は1000日きちんと毎日毎日行かなくてはならないところを、その日一日で済んでしまうのである。こんな結構なことはないではないかと思うのだ。
紀三井寺などは、初詣と千日詣の日は、もうすごい人だかりになっている。そのほかの日はというと人影まばらで、毎日足しげく通うような人はごく少数派とみられる。ほとんどの人は、初詣と千日詣でよしとしているのじゃないか。もちろん両方行かない人もいるだろうし、かくいうわたしも行かないのだが。
日本人は「真面目で勤勉」というのが一般的なとらえ方で、間違ってはいないのだろうけれど、本当は意外と「結構」なんじゃないかと、この千日詣を見ていて思う。真面目で勤勉な人は1000日通うと思う。
融通がきくというかなんというか、日本の神様は一つじゃなくていろんなものの寄せ集めになってるようなところからも、むしろおおらかさとか結構さがにじみ出ているのではないか。
いや~結構なことだなあ、とほめ言葉として思う。