鳥とあすなろ

一人和歌山活性化計画、育児、雑記

結構考

2008-05-25 12:13:39 | Weblog
わたしは人から「結構やのう~」と言われることが多く、どうもそれはほめ言葉らしいので、言われると喜ぶという、まさしく結構な具合なのだが、自分では長いことず~と結構どころか「内向的で人見知り」だと思っていたのだった。

人がわたしをどう見ようが、自分では「内向的で人見知りな自分」が本当の自分だと思っていた。表舞台に立ったり先頭に立ったりする必要が出てくるときがあって、そういうときはやむにやまれぬ「サービス精神」から、本意ではなくてもやらざるを得なくなってするのであって、内心やだなーっと思っていて、だからこそやっぱり自分は「内向的で人見知り」であると思っていた。

実は昔、マリーナシティで海賊のショーのようなものを見たことがあったのだが、そのショーは観客をステージに上げて、いっしょに何かをやらせるタイプのショーで、そういうときにわたしの引き寄せの力は遺憾なく発揮され、はたして当てられるのであった。

海底か洞窟かに眠る宝箱を開けるためには、「おしりを振らなくてはならない」という。ここでわたしがかたくなに拒んでは会場のみなさんを大いにしらけさせることになってしまう。それは、自分としてはいただけない。こういうのは本当なら絶対嫌なのだけど、仕方がない腹をくくってやってやろう。と決めたのはいいのだが、「はたしておしりを振るというのは、縦であろうか横であろうか」という命題にぶつかってしまったのである。

ま、そのあとどうしたかというのはあえてここでは書くまい。とりあえず観客の期待にはわたしなりに応えたと思っている。

結局、何が言いたいのかというと、見た目や行動の印象と、内実というのは必ずしも一致しないということなのだ。だからやっぱり自分は「内向的で人見知り」には変わりはない、と思っていたのだった。

ところが最近「もしかして間違っているのは自分のほうじゃないのか」と思うようになってきた。というか、恥ずかしながらやっと自分のことが分かってきたということなのか、と思い始めている。

もしかしたらわたしは「内向的で人見知り」とかじゃないかもしれない。この程度の内向さとか人見知りとか、そんなのほかの人にとってみれば、普通のレベルにすぎないのではないか、もしかしてこういうのを世の中は「楽天的」とか「結構」というのではないか。

まあ、こんな馬鹿馬鹿しくも結構な話もないな、とわれながらあきれるのであるが、この「結構」というのはなにもわたしだけのことではなく、日本人の血に深く流れる魂ではないか、と思うようになってきた。そう、結構なのはわたしだけでなく、日本人の特質なのだ。

それが集約されているのが「千日詣」だと思う。千日詣の日に参拝すると、その日一日のお参りで、1000日分の御利益があるというのだ。本当は1000日きちんと毎日毎日行かなくてはならないところを、その日一日で済んでしまうのである。こんな結構なことはないではないかと思うのだ。

紀三井寺などは、初詣と千日詣の日は、もうすごい人だかりになっている。そのほかの日はというと人影まばらで、毎日足しげく通うような人はごく少数派とみられる。ほとんどの人は、初詣と千日詣でよしとしているのじゃないか。もちろん両方行かない人もいるだろうし、かくいうわたしも行かないのだが。

日本人は「真面目で勤勉」というのが一般的なとらえ方で、間違ってはいないのだろうけれど、本当は意外と「結構」なんじゃないかと、この千日詣を見ていて思う。真面目で勤勉な人は1000日通うと思う。

融通がきくというかなんというか、日本の神様は一つじゃなくていろんなものの寄せ集めになってるようなところからも、むしろおおらかさとか結構さがにじみ出ているのではないか。

いや~結構なことだなあ、とほめ言葉として思う。

太平洋で消滅

2008-05-13 21:17:59 | Weblog
今日、仕事場で印刷機を回していると、専務がやってきて、
「今日、台風来てるか?」というので、

「えーと、太平洋沖で消滅するとかなんとかいってましたから…、もう来ないんじゃないですかね。」と返事をしたのですが、

専務は、
「今日、代表来てるか?」と聞いていたらしく、
「…いやいやいや、代表よ!」というので、

「…えぇ~!?」
となってしまいました。

こともあろうに、代表が太平洋沖で消滅しもう来ないと返事してしまうとは。

聞き間違いはしょっちゅうだけど、今日の自分の冴え渡りぶりに驚愕。

まわりのみんなも全員うつむいてニヤリ。
こりゃ、サラリーマンNEOだな。

乙女の終焉

2008-05-06 00:47:02 | Weblog
「カフェに行きたい」と同居人に言うと、渋い顔。

「あなたのその、カフェに行きたいアレはいったいなんなの?」などというので、とっさに出た一言は、「えーと、わたしの中に残るわずかながらの、乙女心?」というものだった。

それで、今更ながら気づいたのだけれど、昨今のカフェ文化というのは、乙女文化のひとつなのだなあと。そして、それは日本独特じゃないのかなあと。他の国をじっくり見たわけじゃないから本当の所はわからないんだけれど、そうだという気がする。これじゃ、同居人も行き辛いはずだ。

本場のパリのオープンカフェは、道行く人を見ながら、茶を飲む自分も見られる、という、見る見られるという文化が成立している、と聞く。芸術談義をすると聞く。

カフェが日本に上陸したときは、そんな「見る見られる文化」が日本にはなかったと思うし、芸術談義をするような人は別のところでやっているのだろうから、そんな日本でカフェが成立するにはやはり、「乙女」の力が大きかったのだろうと思う。

だけど、ちょっとあのころよりは、日本も文化的にヨーロッパ風に成熟したのかもしれない。良くも悪くも。だからこそ、乙女カフェはそろそろ終焉だ、と実はずっと思っている。にもかかわらず、行きたくなるのは、わたしの中の残された乙女心に違いない。そうだ、そうに違いない。

最初、スターバックスが和歌山にできたとき、和歌山のスタバで見る景色が、都会のそれと違っていたために、違和感を感じたことがあった。和歌山での客の年齢層はずっとずっと上のように見える。そして実際そうなんだろうと思う。

その違和感が最近は好ましくさえある。

高齢者がどんどん増えて、経済を牽引するのが、高齢者にならざるをえないなら、莫大な経済利益を得られなくても、高齢者サイドにシフトすべきでないか。

なんて、理屈はともかく、わたしはお爺の集うカフェで、笑いでもなく、悲壮感でもなく、それがごく普通であるかのように、同居人といっしょにコーヒーが飲みたいと思っている。