日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

聖書研究

2017-07-27 00:15:25 | 大分中央ウィークリー

創世記24章45節である。「わたしがまだ心に言い終わらないうちに、リベカさまが水がめを肩に載せて来られたではありませんか。そして、泉に下りて行き、水をおくみになりました。わたしが、『どうか、水を飲ませて下さい』と頼みますと、~」という。正確に復唱するような話がなおもつづきます。しかし、聞き手はそのよどみなくつづく話に、かえて興味津々、なお引き込まれていきます。そういう語り口で進みました。

 

話が身内の「リベカさま」に言い及んだ。聞き手は体を乗り出すような感じでありました。彼女はいつもの水くみで慣れているとはいえ、井戸端には見るからに如何にも遠来の客人であることはわかるはずであり、もし必要とあれば飲ませてあげねばならないと、その心積もりをして泉から上がってくるはずであります。そのような心遣いがここでは必要でありました。普通のことではありますが、この経験で普通のことが、普通にできるということは、日ごろの生活の穏健なありかたが問われている。

 

46節である。「リベカさまはすぐに水がめを肩から下ろして、『どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えてくださいました。「わたしも飲み、らくだものませていただいたのです。」と。ここのところ19節に戻ってみると彼女の気持ちがよくわかる。すなわち、「彼が飲み終わると、彼女は、『らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう』と言いながら、」となっている。

 

すなわち、自分から、らくだの水汲みを言い出して、その腰も軽やかに井戸に向って走っていったのでありました。これほどまでに労を惜しまず、水汲みに走るとはアブラハムの僕は予想もしていなかったに違いない。ただ神の出来事に驚いたであろう。

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