今日は銀座をぶらついてきた。
愛用のカメラに36枚撮りのフィルムを詰め込んで、
目に付いた物をパシャパシャと撮りながら、
写真展を覗いたり、
アップルショップに入ってみたり、
紅茶を飲んだり。
さて、写真展の作品には大抵タイトルが付いているけれど、
どうしてなのだろう?
写真を見た後にタイトルを見ると、違和感を感じてしまうことが多々ある。
また、写真は写真だけで語らせるべきである、
ということを言う人もいるけれど、
はたしてそうなのだろうか?
現時点での僕の考えとしては、
写真にタイトルなんて無くても良いのでは?と思う。
写真にタイトルを付けることによって、
写真には強烈な意味性が付加される。
例えば空の写真を撮って、
タイトルを付けなければ唯の空であるし、
「愛犬が死んだ」
なんてタイトルを付けてみると、
強烈な印象を持ってしまう。
それが真実であれ、虚偽であれ。
じゃあタイトルを付けなければそこに真実が写るか?というと、
そうとも限らないのではないか。
フレーミングという行為を意図的に行うことによって、
そこには在る意味、編集が施され、
その虚偽の映像をあたかも真実であるかのように見せてしまう。
そう考えていくと、
タイトルを付けても付けなくてもそこには撮影者の意図が少なからず混入し、写真という物には真実性はなく、そこには切り取られ編集された現実のみが写る、と言うことになるのかも知れない。
うーん、よく分からなくなってきたぞ。
でもとにかく今の僕にとっては写真を撮ることがひたすら楽しく、
そして写真にタイトルを付けることがとにかく嫌だ。
僕の視点をそれのみで他人に見てもらうだけでいいじゃないか。
愛用のカメラに36枚撮りのフィルムを詰め込んで、
目に付いた物をパシャパシャと撮りながら、
写真展を覗いたり、
アップルショップに入ってみたり、
紅茶を飲んだり。
さて、写真展の作品には大抵タイトルが付いているけれど、
どうしてなのだろう?
写真を見た後にタイトルを見ると、違和感を感じてしまうことが多々ある。
また、写真は写真だけで語らせるべきである、
ということを言う人もいるけれど、
はたしてそうなのだろうか?
現時点での僕の考えとしては、
写真にタイトルなんて無くても良いのでは?と思う。
写真にタイトルを付けることによって、
写真には強烈な意味性が付加される。
例えば空の写真を撮って、
タイトルを付けなければ唯の空であるし、
「愛犬が死んだ」
なんてタイトルを付けてみると、
強烈な印象を持ってしまう。
それが真実であれ、虚偽であれ。
じゃあタイトルを付けなければそこに真実が写るか?というと、
そうとも限らないのではないか。
フレーミングという行為を意図的に行うことによって、
そこには在る意味、編集が施され、
その虚偽の映像をあたかも真実であるかのように見せてしまう。
そう考えていくと、
タイトルを付けても付けなくてもそこには撮影者の意図が少なからず混入し、写真という物には真実性はなく、そこには切り取られ編集された現実のみが写る、と言うことになるのかも知れない。
うーん、よく分からなくなってきたぞ。
でもとにかく今の僕にとっては写真を撮ることがひたすら楽しく、
そして写真にタイトルを付けることがとにかく嫌だ。
僕の視点をそれのみで他人に見てもらうだけでいいじゃないか。
確かにタイトル不要論、というのはよく聞かれます。
ただ私は、現実の風景をカメラを通して間接的に
表現するしかなく、そのため作品そのものを作者が100%コントロールできない写真というものにおいては、
唯一作者が完全な意図を持って付加することができるタイトルというものは、、結構重要な意味を持っているのではないか…と思っています。
タイトルなど必要ないというのも一理ありますが、私は「無題」という題にも、何らかの意味があるのではと考えてしまいます……。
機会があれば是非撮られた写真を拝見したいです(^^
僕もスナップはよく撮りに出かけます。
さて、タイトル不要論ですが、
写真にタイトルを付加することによって生じ、あるいは増幅される作品性といったものに魅力を感じるのではありますが、その一方で、今の僕の中で、写真は作品でなければならないのか?といった疑問が、大きくなりつつあるのです。
例えば絵画は絵師が、写真に比べたら相対的に何もないと考えられる段階からビルドする物であり、そこには意図が、作品性が濃厚に出るのでありますが、はたして、シャッターを押しただけで発生してしまう化学反応の結果としての写真に、純粋な、濃厚な作品性はありえるのだろうか?
まあしかし、ぶっちゃけタイトルを付けたくなる写真というのはあるのであって、その逆にタイトルを付けずにそれ1枚でで全てを語る写真というものを撮ってみたい、という想いもあります。
ただ、今の僕の感覚として、写真にタイトルを付けてはならない、という気持ちが強いのです。それによって生じてしまう意味性に対して疑問を感じてしまうのです。
でも、僕は気が変わるのが早いので、来月あたりには写真に対してタイトルを付けているかも知れません。笑
まあそれはそれとして、写真って面白いですよね。
恥ずかしいですよねー。
でも、それがまたいいんですよねぇ。笑
僕もある意味開き直っているのだと思います。
写真にピッタリな言葉を考え出せるセンスが無いのでしょうね。
でも、何故写真に言語を用いたタイトルを付けなければならないのでしょうか?
もちろん僕だって付けたくなることはあるし、付けることもあるけれど、写真にタイトルを付けるのは当たり前である、というようなコンテストにはどうしても首を傾げずにはいられません。
写真にテーマ性がない僕の言い訳なのかもしれないですね。(^^;