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森の自然との暮らしやんちゃという能動性-映画「森の学校」をみる

2003-10-17 08:50:50 | 生活・教育・文化・社会
[105] 森の自然との暮らしとやんちゃという能動性-映画「森の学校」をみる 03年10月17日 (金) 08時50分)

 昭和10年(1935年)頃の丹波篠山(兵庫県)での、少年の自然とかかわる活動と家族のあたたかいつながりを描いた映画である。
 ガキ大将である少年雅雄は、自然相手にしばしば逸脱をしつつ仲間との腕白ぶりを発揮しての暮らしをする。その少年は、発熱で学校を長期間休むことはしばしばという意外な面を持っていた。 そのため勉強が遅れがちだが、両親は寛容に見守る。動物や昆虫好きの雅雄は、動物園と称して森から捕っていてはそれらを飼育するのである。
 雅雄の仲間がいじめられたので、弱いものいじめと抗議し憲兵隊長の息子を負かしてしまう。当時憲兵隊長といえば、住民監視を任務として特権的に扱われていたので、おだやかなことではない。その事件は、父親がかばうことによって世間との関係悪化にいたらず、ガキ大将であり続けられる。
 東京から転向して来た美代子を思いやる関係をおり交ぜ、あるいはおばあさんが雅雄のことを思ってやったことに悪態をつき、息を引き取るまえに謝れなかったことを悔いる、といった人間の心の通じ合いを、しっとりと叙情的に描いている。

 この映画は、動物学者として高名な河合雅雄著の、児童文学『少年動物誌』(02年6月発行 福音館書店 700円 最初の出版は76年である)を、西垣吉春監督によって映画化したものである。
 山間部の自然と人間が、折り合いをつけながら結びつく暮らしがあった時代のことである。映画は、四季の移ろいにともなう森の変化、さらに1日の時程による光の変化をよく表現されている。ロケ撮影で見事に表現されていたが、自然相手ゆえにその苦労はいかばかりか推測できる。また原作の時代の山間部の自然を想起できるような、自然が今日でも残っているロケ地選択も成功しているといえよう。
 やんちゃということが少年雅雄の人となりのキーワードであるが、関西ではよく使われる言葉のようだが、映画で伝わってきたのは、好奇心旺盛で能動的な子どもということであるようだ。それゆえに逸脱もするが、破滅に至らない許容範囲であり、創造性にもつながる活力をもっている意味に取れた。ガキ大将とも言えそうだが、私には若干意味合いが違うように描かれているように思えた。演じた少年(三浦春馬)が役作りと演技は確かであるが、彼の日常がすでに自然の暮らしからほど遠いものなので、にじみ出てくるものが感じられなかったからかもしれない。またそれを求めるのは無理、ということでもあろう。
 原作は河合雅雄が50代前半に執筆したものだが、自然に対するそれは、読んでいるとその世界と時代に案内してくれる力の持っている秀逸な筆致である。映画では、原作よりは家族のあたたかな人間のつながりと、それにおりなす地域の人々を描くことにウエイトを置かれていたが、映画づくりとしては当然のことでもある。
 映画のメッセージとしては、山の自然とそこでの暮らしから子どもの活動力と知的好奇心を膨らませることの重要さであり、今日でも復活させることも必要ということも伝わってくる。たんなる懐古にひたることを意味はしていない。
 映画としてすぐれており、かつ私の好みからしても満足なものである。しかし現代の子どもや親を対象とした場合、昔の教育映画を想起させるものがあり、そのために多くの人に受け入れられるだろうかと、心配でもある。端的に言うと原作や映画のメッセージ性を壊さない範囲でのエンターテーメント性、つまりおもしろさを随所に入れることが必要ではないか、ということである。これは原作が原作であるがゆえに、難しいのかもしれない。
 音楽は、ピアノ曲と弦楽器曲であり、絵とのおりなしが心地よいものであった。この映画は去年(02年)11月完成され、各地のミニシアターなどで現在も上映されている。
 私は製作段階から情報を獲ていたので、関心があった。武蔵野市のミニシアターに9月4日の最終日の前日に見にいって、約束を果たした思いをした。観客が1ケタだったのが寂しかったが、内容は満足であった。 

☆企画・制作 森の学校制作委員会 上映時間105分 上映についてはHPで案内あり

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