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川崎は敗退する

2016-11-24 11:20:03 | サッカー
 Jリーグチャンピオンシップ準決勝は年間2位の川崎が0-1で鹿島に敗れた。川崎は引き分けると勝利というアドバンテージがありながらも決勝には進めなかった。
 終わってみれば、これまでの数々のタイトル経験のある鹿島が大一番の戦い方を知っていた、ということか。

 観衆 24209人  シュート 川崎11 鹿島10
 
 前半は両チームがチャンスを作りながら得点につながらなかった。川崎は、新人ながらスピードでDFを抜き去る攻撃のできる好調な長谷川を21分で太ももを痛めて退いたのが誤算だった。多様な攻撃ができなくなり、鹿島としてはディフェンスをしやすくなった。
 鹿島はベテラン小笠原がピッチで声をかけて選手を鼓舞していた。とくに球際を激しくということが、見ていてもわかるぐらい、いつもとし違っていた。

 後半5分に鹿島が、ペナルティーエリアぐらいのタッチラインからスローングをし。そのボールが一旦リターンされたのを中央に出した。それを金崎がヘッドで決めた。後半開始早々の、一瞬スローテンポのようになった時に決まった。とくに川崎のミスがあったわけではないが、しいて言えば鹿島のここ一番の勝負強さとでもいうことか。
 その後両チーム一進一退と戦った。川崎は長谷川がいないため縦への攻撃ができなかったが、たびたびペナルティーエリアに侵入してシュートをした。それが枠に入らずことごとく得点に結びつかなかった。厳しい鹿島のデフェンスの条件下でシュートを強いられたせいかもしれない。それにベテランキーパーの曽ケ端のファインセーブもあった。
 同点に持ち込みたい川崎に対して、ディフェンスを固めて失点を許さないとする鹿島。川崎はホームのサポーターの応援に応えることなく、終了のホイッスルとともに選手はピッチに崩れる。風間監督の5年間のチームづくりの集大成でもあったのだが、歓喜の声が聞くことなく終わった。

 決勝は、鹿島と浦和がホーム&アウェーの試合やってチャンピオンが決まる。

■ フロンターレの歩み点描
 ところで川崎のJ2のときから関心を持っているので、いくつかのことを思い出した。V川崎(現V東京、J2)はJリーグ発足前から、いち早くプロ化をはかり王者として君臨する路線をとった。そのためメディアでスター選手をつくる、といった日本のプロ野球路線を歩んだ。地域名を東京にしたかったので、今日のように地域密着路線を取らなかった。
 V川崎が東京を冠するようにになったし、フロンターレは97年にJ2からの後発であり、その歩みは厳しいものだった。川崎市はプロ野球・ロッテも育たなかった。

 サッカーがプロ化される前の日本リーグ時代は、川崎市には日本鋼管があった。水色のユニホームだった。当時川崎に住んでいたので、ずっと関心があった。当時はアマチュアで社員として勤務して日曜日の試合をこなしていた。運動量豊富で奮闘した藤島という選手が浮かんできた。
 ところで日本鋼管の選手だった人が監督をしていた草サッカーチームに、ぼくは1年余り所属していた。とはいっても初心者だったので、丁寧な指導を受けて試合にも出させてくれた。そこからぼくは本格的にサッカーに分け入り、サッカーの持っているスポーツ文化の奥深さや面白さが分かっていったのだった。

 フロンターレの当初は、南武線の駅の柱に手作りの印刷の通信が置かれていた。ぼくはたまたま利用したときに手に取って読んでいた。その通信は次の試合の直前でも残っていたことが多かったので「苦労しているな」という思いがあった。その苦労は、運営スタッフにいる天野春果を想像していたからだ。彼の小学校の時から知っている者として。
 
 22日の「朝日」の夕刊に彼のサッカー事業部プロモーション部長としての仕事ぶりが紹介され、TBS「ニュース23」でも少し長めの紹介があった。彼のクラブづくりは、かねてからそのユニークさがメディアに紹介されていた。
 ある時点では地域の文化サークル(太鼓、踊りなど)を試合前の催しとしていた。チアガールといった発想でないところが良かった。それに保育園にサッカーゴールを贈る、小学生のドリルにフロンターレの選手のイラストを入れるといったことも始めた。サッカーに遠い人へサッカー以外のものからさりげなくサッカーの輪郭を発信する、といったところだろうか。発想は地域クラブとして生活者に違和感ないものにしていく、という遠回りながらゆっくりフロンターレを包み込む人になってもらおうということだと思う。

 風間監督を招き中村選手を中心に上昇するとともに、今行われている話題性の高いものをイベントとして取り入れるようになったようだ。現在の多様な観客席へのスタジアムへの改修を可能にしたのもそういったクラブづくりの過程で可能にしたと思われる。
 現市長が音楽、サッカーといった文化を重視する街づくりを掲げていることも後押しとなっている。音楽では音大2つがあり、そこではオペラも含めた様々なコンサート等おこなっている。東京交響楽団の実質的ホームのようになっている。
 かつて京浜工業地帯と言われたように、製造業中心だったのを転換したのだった。そのためもあって、スタジアムのある南武線沿線は今や住みたくなる街と評価されるような変わった。

 天野春香は、小、中学生の時ぼくが主宰していたサッカークラブに所属していた。どちらかというと戦術を伴った堅実なプレーをするタイプだった。高校でもサッカーをして、アメリカの大学へ行った。風の便りにその後のことも耳にしているが、アメリカでスポーツビジネスを専攻した。
 日本の大学でもこのところ経営学部にスポーツビジネスという学問分野があるようななったが、彼は早くにそれを学び、フロンターレで実践している。
 02年のW杯の時はフロンてーれから一時離れてスタッフだったし、20年のオリンピックの仕事をするとのことだ。彼のスポーツ文化を踏まえたプロジュース力を発揮することを期待する。
 


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