COMPARTMENT

またの名を「みのりんnoバ~」
短歌がメイン、日記はサブ、誰がなんと言おうとです
by Akinaka Minori

12月11日(月)のつぶやき

2017年12月12日 | Weblog
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12月10日(日)のつぶやき

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12月7日(木)のつぶやき

2017年12月08日 | Weblog
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12月6日(水)のつぶやき

2017年12月07日 | Weblog
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12月5日(火)のつぶやき

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12月4日(月)のつぶやき

2017年12月05日 | Weblog
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12月3日(日)のつぶやき

2017年12月04日 | Weblog
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12月2日(土)のつぶやき

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12月1日(金)のつぶやき

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11月30日(木)のつぶやき

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11月29日(水)のつぶやき その2

2017年11月30日 | Weblog
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11月29日(水)のつぶやき その1

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11月28日(火)のつぶやき その2

2017年11月29日 | Weblog
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11月28日(火)のつぶやき その1

2017年11月29日 | Weblog
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とわさき芽ぐみ・金子りさ・ハナゾウ『latebra』ネプリ、歌想 その3

2017年06月12日 | Weblog

ハナゾウ

大根に隠し包丁入れながら傷つけながら春までは冬

 

→さあ、これだ。この歌は真っ先にリストアップしていたのだけれど、コメントはなかなか書き出せなかった。もう書かないままでも良いかと何度か思ったくらいだ。どっから手を付けて良いものかわからないくらい読むのが難しい。いや、好きか嫌いかだけの話ならすぐに言えるんだけど、この歌を読み解くとなるとこれはもうエライコッチャって感じ。

 

もちろん歌会とかに出せば、出て来る言葉はだいたい想像がつく。でも、大体において歌会の読みは面白くない。でもそれは仕方がない、教科書的に読みの練習をする場でもあるのだから、読みの目的が違う。私の目的は前にも言ったがサンキューレターだ。その歌を読むことで私の貧困ではあるものの想像力の翼を広げて、その歌の世界を好奇心を持っていかに羽ばたいたのかを伝えるためだ。

 

けれど、この歌はそれを伝える言葉がうまく像を結ばない。すぐに指からすり抜けてしまう。まあ、いい。想像というよりも妄想なんだから構うことはない。コソッと書けば良いのだ。

 

大根に隠し包丁入れながら、ここまではどうということはないスルスル読める。多分歌会だと隠し包丁「を」入れながらと破調になっても助詞をきちんと入れるべきだという人の顔さえ浮かぶところではあるが、そんなことはもちろんどうでも良い。

 

上句ではおそらく台所、キッチンというよりも台所かな、隠し包丁ってキッチンよりも台所で入れてる感じがしない?最近だったら隠し包丁って言っても、文字通り包丁を隠すことと思う人がいたって驚きはしない。ちゃんと料理をする人、あるいはその人から話を聞いた人でないとすんなりわかる語彙ではない。歌会なら平均年齢高いし、学生歌会だったとしても語彙が多い人が集まる傾向があるから、わかるんだろうけどね。

 

そういう意味で、電子レンジでチンしてIHコンロでレミパン使ってドッカンキャベツ作ってますって感じの今どきのキッチンではなく、ガスコンロでコトコト煮込む音やまな板があり、水道の蛇口には輪ゴムって感じの昔ながらの台所の方が合っている。

 

で、問題はこっからだ。傷つけながら、ここが上句と下句の断裂面になっていると思う。形式上は言うまでもないことだけれど、意味的にね。半分つながっていて、半分切れている(切れているというよりも新たな展開をしていると言ったほうが良いかも)。それぞれ説明してみる。

 

つながっているのは、「ながら」。韻を踏むような「ながら」の反復。対句と言ってもいいかもしれない。畳み掛ける「ながら」によって上句との連続性を保っている。

 

「ながら」という音だけではない。隠し包丁と傷つけるという行為の連続性は明らかだ。一応隠し包丁の意味を確認しておくと、味のしみこみや火の通りをよくするために、盛り付けたときに見えない面に包丁で切り込みを入れること。切り込みを入れるのと傷をつけるのはかなりの程度重なり合う語彙だ。つまり半分つながっていることの意味は、その行為の反復性を伺わせるところにある。何度も傷つけていることを想像させるのだ。

 

それだけではない。傷つけることへの流れとともに隠し包丁の持っている特徴も裏からそっと入ってくる。火や味がよく染み込むように見えない面に切り込みを入れることだ。つまり、傷づける対象がここでは明示されてはいないが、その対象に何かをよく仕込みこませるために、でもそれを表立ってではなく見えないところに傷をつけていくのだ。ほーら、なんだか雲行きが怪しくなってきたでしょ?

 

さて、上句とつながっているところについてはここまでにして、次は上句と違う意味が展開されるところの話に移る。当然、それは切り込みをいれる対象と傷つける対象との違いだ。切込みを入れるのは大根。それは明らか。問題は傷つける対象だ。明示されていないだけに確定できないのだけど、取っ掛かりとして3つの可能性を考えてみたい。大根、自分、誰か、この3つだ。

 

まず、大根。隠し包丁を入れることを傷つけると言いかえることによって大根に対して思い入れをしている様子がぐっと強くなる。美味しく見た目もよく食べるために、見えないところを傷つける工夫を危害を加える意味合いの言葉に言い換えることによって、自責の念も感じることができる。そういう意味で、大根は単なるモノではなくて相手になる、つまり擬人化されていると捉えることもできる。

 

次に、自分。隠し包丁を入れる作中主体ということだけど、これだと上句が比喩となってどのように自分を傷つけるのかということになる。自分を食べる人にとって美味しくするために表から見えない部分を傷つけていく。包丁からリストカットを思わせるような切迫感のある描写になる。自分とは違う味や熱を入れやすくして自分の生々しさを消してしまう。自分らしさを自分で壊していくしんどさが出る。

 

最後に、誰か。先程の上句が比喩となるところは同じだけれど、対象が自分ではなく誰か。この場合は、誰かを美味しく食べるために、表立って見えないところを傷つけていることになる。ここで大事なのは、はじめに言った対象が大根のときと違って、大根はただのモノとして扱われることだ。誰かをただのモノとして傷つけていく。自分が美味しく食べるために。傷つけているとわかりながらだ。

 

ざっと3つの可能性について見てきたが、どうだろう。私は「誰か」を取りたい。どれを取ったとしても、傷つけるしんどさは見ることができる。それを踏まえて、「大根」だと流石に針小棒大かなと思う。もう少しライトな感じのほうがおかしみも出る気がするが、結句の冬という体言止めもきつすぎる気がするのだ。大げさな表現によるギャップ感が空回りしている気がする。笑えないのだ。小さなことを大きく言うことの意外感はそこまで言わんでもワハハって感じがないと辛い。それに大根にしてもやはり擬人化されている可能性は捨てきれない。そういう意味でも傷つける対象がモノと言うのは少し辛い。

 

「自分」だと、たしかに大根と違ってぐっと感情に焦点が当たる。そしてその感情も無理なく想像ができるものだ。でもそれだと言いたくなるのだ。傷つけながらではなくて、傷つきながらでいいじゃないかと。もちろん、再帰動詞のように自分を目的語に持ってくるのは間違いじゃないし、ある程度自分を客観化するには効果がある。でも、客観化する意味があるのかと思うのだ。何かのために、誰かのために自分を傷つけているそのしんどさを歌っているとすれば、自分を対象化する必要はないし、その余地を残すこともない。傷つきながらと言えば、それは自動詞である限り、迷うことなく主体が傷ついていることがはっきりする。もちろんはっきりさせることが必ず良いとはいえないが。

 

それで「誰か」である。なんでやねんと。私は「誰か」だと色々回収されると思うからだ。まず大根を取った場合の擬人化の可能性は拾える。それはつまり、人を傷つけるしんどさだ。それに「自分」を取ったときの自分自身のしんどさも含めることができるように思う。つまり、誰かを自分のために傷つけることを自覚していることから。外からは見えないように巧妙に人を傷つける自分。誰かを大根に切込みを入れるようにモノ扱いする自分。そんな自分のしんどさまで回収できるように思う。「誰か」を取ることでギュッと意味を詰め込んだ複雑な味のする歌になると思う。

 

もちろん、歌会によれば、歌意が一意的に決まらないのを良しとしないことがほとんだと思うが、可能性のある中でどう読むと一番いい味がするかが私には大事なので。

 

大根に隠し包丁を入れるように、自分のために誰かの心をモノのようにそれとわからない形で傷つけているしんどさ。台所で淡々と料理しながら、誰かを傷つけながら生きている主体の気持ちに焦点が来たその刹那、結句である。

 

春までは冬。もう何やねんこの展開。すんなり主体の感情で終わっていればそれはそれで座りが良いのに、ここに来て、いきなり季節が乱入だ。それに内容も当たり前のことだ。春までは冬。うん、そうでしょうねって言うしかない。ただ、当たり前のことをわざわざ最後に持ってきて、おまけに今までの話からいきなり季節へのチェンジ、それも言い切ったよとなれば、読むしかないでしょう、どうなってんのって。一粒で2度おいしいくらいでいいんじゃないのって言いたくもなる。最後の最後に何持ってきてくれちゃったんだよって感じ。押すなよ、押すなよ、絶対押すなよって感じ。

 

ここで比較対象として、「冬来たりなば春遠からじ」を出したい。ちなみにこれについて面白いコラムがあるのでご紹介(http://www.dwc.doshisha.ac.jp/faculty_column/representation/2015/post-238.html)。さて話は戻って、当然この言い回しの意味は、冬が来たなら春はもう近くだよっていうことで、つらい時期を耐えれば幸せが来るという意味で使う。かなり前向きの言葉だ。視線は春に向いている。

 

いっぽう、「春までは冬」はまるで全部ひっくり返したようだ。季節の語順もそうだが、先ではなくて今を見据えている。今とは冬だ。つらい季節。寒い季節。春は来るだろうがいつのことかわからないほど、今の冬が続いているし、続いていくだろうという感じ。冬と言い切って終わるところに冬の現実感が強く出ている。それをどうすこともできないでいることも。そしてそれを覚悟して受け入れていることも。春が来ると言うが、今現在春じゃない、ここは冬だ。どうしようもなく冬だ。今の気持ちを生きている言葉だと思う。

 

寒い冬の中、隠し包丁を入れた大根をおそらくはふろふき大根やおでんなど暖かいものにして食べようというのだろう。寒いから暖かいものを食べようとして人を傷つけ自分も傷つきながら。でも待って、それでは順番が違うかもしれない。人を傷つける自分も傷つきその心象風景が冬なのかもしれない、卵が先か鶏が先か。

 

語順で考えると後者だ。そうだとすれば何かその前提として寒くなる何かが合ったのだろう。それは何か。そうたぶん誰かを傷つけたり自分が傷ついたのだ。それなら前者じゃないか。そうだとすれば、寒さを凌ぐためにまた誰かをそして自分を傷つける冬の寒さに襲われる。。そう、春が来るまで螺旋を描くように、メビウスの輪のように、誰かも自分も傷つくのを繰り返すのだ。繰り返して繰り返してどうしようもなく冬にまみれるのだ。たぶん春がくることはないと知っているかのように。その覚悟だけが支えになのかもしれない。

 


 

ふう、やっと書き終えた。言ってる間におやつの時間だ。今日はアイスクリーム。フタの裏まで舐めてやろう。意味の海で溺れるのは人に許された遊びなのだと思う。ひとりでする影踏み鬼のような。いつまでたっても捕まえられない、捕まえたと思ったときが逃げられたとき。それを楽しめる人と出会いたい。

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