大田絵堂(おおだえどう)の戦いの時に諸隊本陣になった、美祢市美東町大田の金麗社(きんれいしゃ/大田八幡宮)に、この灯篭はあります。
「奇兵隊灯篭」と呼ばれています。
大田絵堂で藩論が統一された長州ですが、その後幕府の第二次長州征伐を受けます。
これは、長州サイドからは「四境戦争」と呼びます。
四つの国境から幕府が攻めてきたので。
ことごとく勝ったんですけど
この四境のうち「小倉口」は高杉晋作が指揮をとりました。
その時に、戦利品として小倉からこの灯篭を持ち帰り、この神社に奉納しました。
(もう少し軽いものはなかったのかと小一時間…)
薄くなってきていますが、まだ読めますよね、刻まれた文字。
元治四年
ご存知のとおり、元治は元年しかなく、翌年には慶応に切り替わっています。
しかし長州では「慶応」という年号を「慶喜に応じる」として嫌い、慶応三年のことを元治四年と刻んだんです。
この使い方は、防府の豪商の日記などにも出てきます。
ついでだけど、こういう「戦利品」を分捕ってしまってる長州兵ですが、そこは市民軍。幕府歩兵のように一般市民に対して強奪や強姦などはしていない模様。
逆に、小倉の武士は城を捨て、町にも火をかけて逃げてしまい、困った市民にと米を運んできたのが長州軍でした。
ところが、その頃になるとまたエライヒトたちが戻ってきてその米を独り占めし、転売して利益を得ようとしました(もらいもんでセコすぎないか)。
怒ったのが小倉の農民や町人
立ち上がって、米を自分たちの手で管理する権利を勝ち取りました。エライ。
この日本初の農商市民による米の管理は明治はじめまで数年間続いたそうです。
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「奇兵隊灯篭」と呼ばれています。
大田絵堂で藩論が統一された長州ですが、その後幕府の第二次長州征伐を受けます。
これは、長州サイドからは「四境戦争」と呼びます。
四つの国境から幕府が攻めてきたので。
ことごとく勝ったんですけど
この四境のうち「小倉口」は高杉晋作が指揮をとりました。
その時に、戦利品として小倉からこの灯篭を持ち帰り、この神社に奉納しました。
(もう少し軽いものはなかったのかと小一時間…)
薄くなってきていますが、まだ読めますよね、刻まれた文字。
元治四年
ご存知のとおり、元治は元年しかなく、翌年には慶応に切り替わっています。
しかし長州では「慶応」という年号を「慶喜に応じる」として嫌い、慶応三年のことを元治四年と刻んだんです。
この使い方は、防府の豪商の日記などにも出てきます。
ついでだけど、こういう「戦利品」を分捕ってしまってる長州兵ですが、そこは市民軍。幕府歩兵のように一般市民に対して強奪や強姦などはしていない模様。
逆に、小倉の武士は城を捨て、町にも火をかけて逃げてしまい、困った市民にと米を運んできたのが長州軍でした。
ところが、その頃になるとまたエライヒトたちが戻ってきてその米を独り占めし、転売して利益を得ようとしました(もらいもんでセコすぎないか)。
怒ったのが小倉の農民や町人
立ち上がって、米を自分たちの手で管理する権利を勝ち取りました。エライ。
この日本初の農商市民による米の管理は明治はじめまで数年間続いたそうです。
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拝見するのが遅くなってしまい、
申し訳ありません
「お気に入り」に登録して下さるとのコトで、
有り難いやら申し訳ないやらデス
どうぞ「お気に入り」でも「ブックマーク」でも、
登録してやって下さいマセ
有難うございます!
っていうか、私の方は勝手にブックマークに登録していてスミマセン
市ィの「印鑑」の話は知りません~
うわぁーッ!! ななな何ですかッ?!
是非是非教えて下さいマセマセ~ッッ!!
よろしくお願いします。
市ィの「戦場に印鑑」は、大田絵堂の時の話なんですが、近々大田絵堂のことを順にきっちり書こうと思ってますので、またその時に(ってじらすほどのネタじゃねーっす)。