「レスター・レヴェンソンのリリーシング」- I'm trying to show you the entire way.

Lester:「私は、あなたに全ての道を案内しようとしています。」 2015-10-04-09:45JST

パラマハンサ・ヨガナンダの祈り方 - 01

2014-05-21 22:49:23 | 参考-話題 (opinion)
パラマハンサ・ヨガナンダの祈り方 - 01

 続きます。:
 パラマハンサ・ヨガナンダの祈り方 - 02
 (2014-05-26 08:45:26 | 話題 (opinion))

参考サイト:
 人間の永遠の探求 - パラマハンサ・ヨガナンダ講話集から

祈りの力: 人間の永遠の探求

眉間には天国への門があります。

この脳の中枢は、意志の座です。

(霊眼の座でクタスタまたは
  キリスト意識の中枢ともいわれる。)

この点に深く意識を集中して
静かに願い事を念じれば、何でも叶えられます。

ですから、この意志の力を
邪悪な目的に使ってはなりません。

この力を、故意に
他人を傷つけるような目的に使うことは、
神から与えられた力の重大な誤用であり悪用です。

もし自分の意志が間違った方向に進んでいると気づいたら、
すぐにやめなさい。

それはあなたの聖なるエネルギーを
浪費させるだけでなく、
この天与の能力を失わせることになります。

そしてそのあと、
その能力を善い目的に利用することさえも
できなくなってしまいます。

自分の祈りが筋の通った正当なものかどうか
よく見極めなさい。

自然の理に反することを
神に祈ってはなりいません。
真に必要なものだけを祈りなさい。

ほんとうに必要なものと、
必ずしも必要でないものに対する欲望を断ち切るには、
よく道理を考えてそれを捨てることです。


人間の永遠の探求 パラマハンサ・ヨガナンダ講話集
――― P41 講話四 叶えられる祈りより

参考サイト:
 K大師からのメッセージ:パラマハンサ・ヨガナンダの言葉 2011年04月01日

ヨガ行者であるパラマハンサ・ヨガナンダの講話集である「人間の永遠の探求」を図書館でざーっと読んでいて、気になった言葉をメモとして抜粋させていただきました。

P42
あなたは神の子として、
「私はあなたの子です。あなたは私の父です。あなたと私は一つです。」と言って願い事の成就を求めることです。深く祈り続けると、心の底から大きな喜びが湧いてくるのを感じます。この喜びが湧いてこないうちに途中でやめてはなりません。あなたの心を完全に満足させるこの喜びが感じられたら、それが、あなたの祈りが神に届いた印です。そうしたらこう祈りなさい。

主よ、これは私に必要なことです。私はそのためには何でも喜んでします。どうかこの願いが成就するために、私が正しく考え、正しく行動できるようにお導きください。私はあなたから頂いた理性と意志の力を使って行動します。どうか私の意志と理性と行動とが正しい方向に働くようにお導きください。

これが、私のいつも実行してきた祈り方です。

 K大師からのメッセージ:成功の黄金律

今回もまた、あいまいな記憶に頼って、印象に残ったところのみを自分の言葉でまとめて箇条書きにしていきます。
よって内容は正確なものでは全くありませんので、気になった方は是非自分で本を読んでください。

◎たとえ今のあなたに家族や同胞がいなくても、お金を稼ぐときは、自分のためだけではなく、彼らのためにお金を稼ぐのだと思いなさい。他者への奉仕の気持ちからお金儲けの努力するとき、そこに精妙なフォースが起動して、その目的は達成されます。これは願望実現の秘法です。逆に、自分のためだけに裕福を望むなら、最終的には貧しくなるか、もしくは精神の健康を失う羽目になるでしょう。

◎深い瞑想を通じて神と接触し、神と一体化するほどに、あなたは真の成功と豊かさを手に入れることになります。まずは神を求めなさい。「私は天なる父と一つである」と祈り続けなさい。あなたの心が平和と至福で満ちたとき、それこそが神からの応答であるのです。

 K大師からのメッセージ:人間の永遠の探求 2009年04月11日

P358
神の無限の力は新しい成功を作り出します。
自分の意識をその偉大な力に同調させていつもこう念じなさい。
私の中には神の無限の創造力がある。私は死ぬまでに必ず何かを成し遂げよう。私は神の化身であり、私には理性がある。私は、私の魂の力の源、神の全能の力である。私は実業の世界でも、学問の世界でも、何をするにも神の力を引き出して創造する。私は神と一体である。だから私も創造主と同じように、自分の望むものは何でも実現することが出来る!」と。



参考サイト:
 悪い記憶は消しなさい: 人間の永遠の探求 - パラマハンサ・ヨガナンダ講話集から

過去に抱いた悪い想念は、わざわざ思い出してそれを復活させてはなりません。
それは、思い出せば思い出すほど長く心に住み着きます。

記憶力は、自分の過去における良い経験と教訓だけを思い出すために与えられたものです。
過去の悪い想念は、思い出さないようにすれば自然に消えてゆきます。

もし、それでも心に浮かんで来たら、すぐに追い出しなさい。

もう一度言いましょう。

 ― 悪い経験を思い出してそれに固執することは、神の贈り物である記憶力の誤用です。


それよりもこう誓いなさい。
私は記憶力を、良い想念、良い経験だけを思い出すために使おう。
これからは、不愉快な思い出はすべて心から追い出そう。
それらはみな消えてゆくべきものだ。
わたしは神の子だ。
わたしは良いことだけを見、聞き、味わい、触れ、感じ、志そう。
私は自分の経験から、良いものだけを取り出し、
良いものだけを記憶に残そう
」と。


こうして、きょう限り記憶の誤用をやめなさい。
常に善い感情をいだき、善意に満ち、自然や人々の善い面だけを見る人は、
善いことだけが記憶に残ります。


 この世界は夢である: 人間の永遠の探求

パラマハンサ・ヨガナンダ「永遠の探求」より

P237
我々は普通、夢を見ている間は、それが
夢であることに気がつきません。

目が覚めたとき、初めて
夢を見ていたことを知ります。

それと同様に、この人生が夢であることを知るのは、
我々が神の宇宙意識の中に目覚めたときです。


参考サイト:
 ありがとうございます。 大絶賛!パラマハンサ・ヨガナンダの素晴らしい講話集

       人間の永遠の探求―パラマハンサ・ヨガナンダ講話集

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(講話二 ヨガの普遍性より)

神を見つけるのに、森や山奥に入る必要はありません。
執着は、自分自身を世俗的慣習から脱け出させるまでは、
どこへ行ってもついて来ます。
ヨギは自分の心の洞窟で神を見つけます。
そして、どこへ行くにもその意識をもってゆき、
いつも神とともにいる至福を感じています。

人間は、肉体に束縛された感覚意識の中に落ち込んだため、
そこから生じる我欲、怒り、嫉妬などのゆがんだ想念にも
束縛されるようになりました。
神を見つけるには、こうした心のゆがみを追放することが、必要です。


どんな姿勢でも、脊柱が直立した姿勢を保てるならば、
神に意識を集中する瞑想に適した姿勢である、
とパタンジャリは言っています。
ハタ・ヨガが提唱しているような、
体をねじ曲げたり、極端な柔軟性や耐久性を養う訓練をする必要はありません。
目的は神との霊交であり、肝心なのは、感覚的苦痛や雑念に邪魔されずに、
神を実際に感じるまで瞑想を深めていくことです。

バガヴァッド・ギーターはこう言っています――
「いろいろなヨギの中で、
思いのすべてをわたしに献げ、
魂をわたしの中に沈めるヨギを、
最も均衡のとれたヨギとわたしはみなす」(6・47)


瞑想を妨げる原因があれば、まずそれを取り除きなさい。
その上でなお必要ならば、それを克服する忍耐力を養いなさい。

霊的成功を得るために最も大切なことは不撓不屈の意欲です。

世間の人たちは神の贈り物を求めますが、
賢い人は、贈り主である神そのものを求めます。

ヨギになる、とは瞑想することです。
ヨギは朝起きると、体に与える食事のことを考える代わりに、
まず魂に、瞑想による“神との霊交”という美酒を飲ませます。
そして、そこから得られる霊感に満たされて、
与えられた一日の義務を楽しんで果たします。

この地球が今のようにつくられたのは、神のご計画によるものです。
その計画の中で、この世界を改善してゆくことが人間に与えられた役割です。


神を見いだすには、
毎日、朝と晩、さらに日中のわずかな暇でもできるだけ瞑想すべきです。

さらに一週間に一度、六時間の長い瞑想をすることも大切です。
これは別に無理な話ではありません。
毎日十時間ずつピアノの練習をして何とも思わない人は大勢います。
神と一体になった大師のようになるには、
もっと多くの時間を神に献げなければなりません。
神の注意を引くには、われわれが他のどんな物よりも神を愛していることを、
神に納得させることが必要です。
瞑想に熟練して、超意識に入ることができるようになれば、睡眠は五時間で十分です。
残りの夜は瞑想に当てなさい。夜と、早朝と、休日を瞑想に当てればよいのです。

参考サイト:
 風のように: パラマハンサ・ヨガナンダの言葉

  「曲がった脊椎は覚醒の敵です。瞑想においては、いつも脊椎を真っ直ぐに保ってください。 それは生命力が邪魔されることなく流れるようにするためです。 次に、眉間にあるキリスト意識の中枢に注意を集中してください。 そのポイントに深く集中すればするほど、ますます、あなたのエゴが超意識のなかに融けて消えていくのが分かります。

参考サイト:
 覚醒・至高体験の事例集
 パラマハンサ・ヨガナンダ - ■「光」体験をともなう場合■

 以下は、インドの「聖者」といわれるパラマハンサ・ヨガナンダの体験談である。ヒンドゥー教の僧侶は、グルー(導師)について長い修行を続けた後、あるレベルに達すると、イニシエーションの儀式を受ける。グルーは、そのとき霊的な力によって弟子に「意識の拡大」を経験させることがあるという。次の報告は、そうした最初のイニシエーションを受けたのときのヨガナンダの経験談である。『 あるヨギの自叙伝 』(森北出版)から引用したものである。


 私は、人間として持って生まれたこれら二つの動揺的要素をしずめるたびに、無数の創造物の波が光の海の中に溶 け込んでゆくのを見た。そのありさまはちょうど、海の嵐がしずまるときに、波がしだいに海中に没してついには完全に海と一体化して消滅するのとよく似ている。

 聖師 (グル)は、弟子が広大な宇宙的視野に耐えられるだけの心の強さを瞑想によって獲得したとき、初めて彼にこの神聖 な宇宙意識の経験を与えるのである。そのためには、単なる知識的願望や広々とした気持をいだくだげでは不十分で ある。ヨガの修行と熱烈な信仰によって意識が十分に拡大 したときはじめて、遍在意識へ解脱するときのショックに 耐えられるようになるのである。

  この聖なる経験は、真剣に神を求める者には必ず与えら れるものである。熱烈な願いは神を引き付けずにはおかない。神は、信仰者の熱情の磁力に引かれて、ついには宇宙的幻として、彼の意識の中に姿を現わしたもうのである。

00/03/05追加

 ラマナ・マハルシ - 宗教家の場合

■ラマナ・マハリシの根本体験

ラマナ・マハリシは(1879~1950)は、南インドの中流のバラモンの家庭に生まれました。マハリシは「偉大な聖者」という意味で、その名の通り、すでにインド の古典的な賢者の一人、最もインド的なグルとみなされています。

ごく平凡な屈託のない少年だった彼が、高等学校に通っていた17歳のとき、その 根本的な体験をします。親戚の一人が亡くなったことをきっかけに、彼は死の体験 を直接探求しようとしました。彼は、驚くべき集中力をもって、自分の体が死んで 行くと想像したのです。

「叔父の家の二階の部屋に一人で座っていたときに、突然、物凄い死の恐怖が私に 襲い掛かってきた。私はめったに病気をしたことがなく、いつもと変わりない健康 状態だったので、その恐怖が身体の異常からくるものであるとは思えなかった。私 はただ死んでしまうのだという想いが頭をよぎり、何をすべきかを考えはじめた。 医者や兄や友人たちに助けを求めようという考えは起こらなかった。私はすぐに、 これは自分で解決すべきものだと感じた。

死の衝撃は私の心を内へと向かわせた。私は心の中でつぶやいた。

『今死がやっ てきた。これはいったい何を意味するのか? 何が死んでゆくのか? この身体が 死んでゆくのだ』。

私は手足を伸ばして、死後硬直が始まったかのように硬くなっ て横たわり、本物の死体に見えるようにした。私は息を止め、どんな音も漏れないようにした。また『私』をはじめどんな言葉も発することができないように唇をギ ュッと閉ざした。

『これでこの身体はもうおしまいだ』と私は心の中で呟いた。 『これから斎場へ運ばれ、焼かれて灰になってしまうことだろう。だが身体が死ん でしまえば私も死んでしまうのか? 果たしてこの身体は私なのか? 身体は明ら かに無言で生起がないが、私は私の人格が十分に機能していることを感じているし、 それとは別に、内側から「私」という叫び声まで聞こえてくるではないか! 私と は身体を超越した魂のことなのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を 離れられることはないのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して手を離れら れることはないのだ。私とは、不滅の魂なのだ』。

これらのことは決してとりとめもない漠然とした考えではなかった。それは私に ひらめいた生き生きとした真実であった。

 『私』とはきわめて実在的な何ものかであり、私の現在の状態で唯一実在してい るものであり、私の身体にまつわるすべての意識的な働きは、その『私』に集中さ れた。その瞬間から『私』あるいは真我は、それ自身に注意を集中し、引きつけら れていった。  死の恐怖はこれを最後に消え去った。しかし、私はそれからもずっと絶え間なく 真我に没頭し続けた。他のさまざまな考えは音楽を構成するさまざまな音のように 浮かんでは消えていったが、「私」はあらゆる音の底に横たわりそれと調和する基 底聖音のように力強く続いた。会話や学習や他の諸活動をしようとも、私はいつ も『私』に注意を集中させた。その転機(死の体験)より以前は、私には真我につ いてのはっきりとした知覚がなかったし、それに興味を持ったこともなかった。ま してやその中に生涯にわたって留まっていようとは思ってもみなかった。」 

ここに語られた根本体験が、彼の人格の全体を転換させ、その後の生涯を決定的 に方向づけたといいます。 世俗の生活にまったく興味を失った彼は、学校を止めて、内なる力につき動かさ れたかのように聖なるアルナーチャラの丘へと旅立ちました。そこは、何百年にも わたって賢者や苦行者が生活し修行した丘でした。 彼はそこで、語ることもなく、食事もとらず、まったく肉体を無視するかのよう でした。むしろ、肉体を必要としなかったも言われます。やがて次第に彼の周囲に信者が集まるようになり、それにつれて彼の生活も普通の状態に戻りました。

03・6・14 追加

 バーナデット・ロバーツ - あえて分類せずの場合

バーナデット・ロバーツ(Bernadette Roberts、1931~)は、カリフォルニア在住の主婦で、カトリックの家庭で育ち、幼いころからカトリックで行なわれる瞑想ないし観想に親しんで来た人であるという。以下に述べられるような「自己喪失の体験」が始まったのは四十代の半ばだったようだ。最終的に彼女は「純粋主観性」に目覚めるのだが、それはこの事例集で私たちが「覚醒」と呼んできたものに匹敵するだろう。しかもきわめて徹底したものと感じられる。 彼女の精神的な「旅」の特徴は、通常の意識から「純粋主観性」への移行の途上において凍りつくような虚無を通過しなければならなかったことである。その「旅」は、第一の過程、第二の過程、最終段階と分けられる。彼女自身の言葉を中心にその「旅」の過程をたどってみよう。(バーナデット・ロバーツ『自己喪失の体験 』紀伊国屋書店、1989年。

以下、引用の順序は必ずしもこの本に書かれた順ではない)


‥‥広く開けた谷間の風景を眺めて丘を下ってゆくとき、ふと内部に注意をむけたところ愕然として思わずそこに立ち止まりました。私の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽなのです。それを知った瞬間、静かな喜びがあふれて来ました。無くなったものが何かやっと分かったのです。それは私の自己でした。

‥‥とにかく自己の客体化の機能は永遠に止まってしまったのです。後から考えると、これが通常の意識から純粋主観性への移行の第一歩だったのです。

これが彼女の「自己喪失の体験」の始まりである。自己の客体化が止まり、自己意識が無くなったというのである。さらにしばらく経ったあと彼女は、次のような「素晴らしい状況」を味わっている。

『‥‥ビッグ・サーの修道院で静修をしました。その二日目の午後おそく海を見下す丘に立っていたとき、かもめが一羽風に乗って滑るように飛んで来ました。私はそれを生れて初めて見るように眺めました。まるで催眠術にかかったようで、かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした。しかし区別がないというだけではない何か、ほんとうに美しく未知の何かがそこにありました。そののち私は修道院のうしろの松林の丘に目を転じましたが、やはり自他の区分がなく、一つ一つのものと風景全体を通って「何か」が流れていました。すべてのものが合わされた「一なること」を見るのは、まるで特殊な立体鏡をのぞいているようでした。そこで私は、ああ、神はどこにもいるというのはこのことなのだと思ったのです。』

『この移行の第一の過程では、主体のない意識の状態にあり、客体と言えるものは、あらゆる存在が合一した「一なること」だけなのです。これは、自己から解放されて生の大きな流れに入るという何とも驚くべき素晴らしい状況でした。この世界のすべての存在、すべての生命が「一なること」に動的に結ばれ、永遠で聖なるものと見えたのです。』

彼女は、この状態にいつまでも留まれたらよいと思ったようだが、これはまだ「純粋主体性」ではなく、そこに達するためには、もう一つの恐ろしい過程を経なければならなかった。自己を失ったあと「それ」に至るまでの虚無の通路は、絶望も狂気も超えた通路だったという。狂ったり絶望したりする自己はすでにないからである。彼女はそれを次のように語る。  

『第二の過程は四カ月ばかりつづきましたが、ひどくつらい状態で、天国でどんなむくいがあっても、自分から入りたいとは思いません。‥‥この第二の過程は主体も客体もない意識の状態で、知るものと知られるものとの関係は、絶対的な虚無に出会うという形でしか残っていないのです。通常の認識の道は閉ざされ、知られるものは意味をまったく剥奪された虚無的な外界だけなのです。』

『もし自己があれば、その場で狂ってしまうか、何とかして先へ行くのをやめて逃げ出そうとすることでしょう。普通の意味での絶望とか憂慮とかいうものは、この不可知の重圧にくらべれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎません。この重圧の方は防ぐ手立てもなく、第一防ごうとする者さえいないのです。自己があるということは、どんな状況下においても何より大きな補償となるのもので、自己とは不可知の状態に対する人間の補償にほかならないというのが、今の私の確信です。』

そんな虚無の通路を通って至りつくのは、次のような最終段階の心境であった。

この旅について特に強調したいことは、最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。これは私にとって神なしで生きることを意味していました。こうして希望と信頼を奪われ、窮極の実在なしに生きることに十分に慣れ、ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。意識しうるものも無意識のものも含めて、ありとあらゆる経験と観念が一つ残らず亡び去った時にこそ「真理」が顕現するのです。』  

 『知へのすべての扉が堅く閉ざされていたこの状況に思いがけない出口がありました。主体も客体もないところに何が残っているかは知るすべもなかったのですが、それが向こうから姿を現して来たのです。この示現が純粋主体性への移行の最終段階でした。  

この示現はほかのものと見まちがう恐れがないように、意識の対象が一掃され、雑草がすべて取り除かれた後に来たのでしょう。誤謬や疑惑の影を一つも落とさずに闇に差して来る光のようでした。今までこれほどはっきりとものを見たことはありません。  
私の場合この示現は、ごく単純な微笑として現れたのです。それは「微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられるもの、この三つがすべて同一である微笑」でした。この三つのものが一つになっているのを見たと言っても、そこに内省が働いているのではなく、外部の何かに注目したわけでもなく、目がその目自身を見るかのように、その一つになったものを見たのです。ここで起こったことに立ち会う何者もなく、そこにはそれ自身を見る目だけがあって、その見ることと見たものとを享受しているのです。したがってこの示現は誰に示現されたものでもありません。』

自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなって、「それ」だけが残るのです。それは時に非常に強烈にもなりますが、何か異常なものではなく、自然で平明なので、どこを見てもあるという意味でむしろ通常なのものなのです。』  

彼女の体験は、凍りつくような虚無を通過したという点において、この事例集のほかの覚醒体験の記録とは確かに異質な面もある。が、その歩みの誠実な記録を読むと、体験のおどろくべき徹底性を感じる。根源的なところにたどり着いた人という印象である。 最後にもうひとつだけ、彼女の言葉を紹介する。  

旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。そのために心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。』  

彼女のこれらの言葉には、「自己」を超えるということとB認識との関係が端的に示されている。「自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなる」とは、まさしくすべてがB認識になるということであろう。もちろんそれは、クリシュナムルティのいう「無選択的意識」とも深く響きあう。

注記:こりょ【顧慮】とは。意味や解説。[名](スル)ある事をしっかり考えに入れて、心をくばること。「相手の立場を―する」
注記:B認識 - BとはBeing(存在・生命)の略です。
◆自己実現した人間 - 覚醒・至高体験とは

こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブ ーバー、鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現し たと思われる人々を研究しました。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示しているということでした。    

平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼 はB認識と呼びました。BとはBeing(存在・生命)の略です。こうした認識のあ り方が、実は覚醒とか悟りとか呼ばれるものとぴったりと重なるといえるのです。


では、彼女が通過しなければならなかった「凍りつくような虚無」とは何だったのだろうか。それは、彼女にのみ起こった特殊な体験なのだろうか。それとも、徹底した覚醒に至るためにはすべての人が通らなければならない普遍的な体験なのだろうか。筆者にはまだこの問いに答えるだけの準備はない。一つには、これを理解するにたる自らの体験がまったくないからである。二つには、これを普遍的な体験であることを示唆するような他の事例を知らず、かといってそれが特殊な体験であると主張する充分な根拠もないもないからである。また、彼女の「凍りつくような虚無」の体験を上手に説明する言葉や理論も持ち合わせていない。

しかし少なくとも言えることは、第一の過程、第二の過程、最終段階と分けられる彼女の旅は、徹底的な覚醒体験とは何かを理解するうえでのひとつのヒントにはなるだろうということである。彼女にとっては「凍りつくような虚無」を通過することが、徹底した純粋主観性に至るためにおそらく必要だったのであろう。

彼女のいう第一の過程は、この事例集でとりあげた至高体験のいくつかの特徴と合致している。すなわち、「かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした」、「これは、自己から解放されて生の大きな流れに入るという何とも驚くべき素晴らしい状況でした。この世界のすべての存在、すべての生命が『一なること』に動的に結ばれ、永遠で聖なるものと見えたのです」などの記述は、至高体験において「認識の対象にすっかり没入してしまう」、「認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つことができる」、「対象に熱中し、没入するので、主観的に時空を超越している」等々の特徴と重なりあっている。さらにクリシュナムルティの「すべてが――無生物も生物も、山も 虫も、生きとし生けるものすべてが――私のなかにあった」という自己超越体験にも重なるであろう。

しかし、彼女にとってこれはまだ「純粋主体性」ではなく、そこに達するためには、「凍りつくような虚無」を通過しなければならなかったのである。 これは何を意味しているのだろうか。ほんとうの意味での「覚醒」は、彼女が体験し、記述したような想像を絶する虚無の道を通過することによってはじめて可能だということを意味するのだろうか。それとも、これはバーナデット・ロバーツというひとりの女性の特殊なケースと理解すべきなのだろうか。筆者は残念ながら、この問いの前で沈黙せざるを得ない。




05/5/29追加

参考サイト:
 パラマハンサヨガナンダ著「あるヨギの自叙伝」 THE JOSHUA TREE/ウェブリブログ


神は調和だ。

神に意識をわせている者は、
何をしても間違うことはない。

その人の行為は、
自然に星学の法則にもかなうことになる。

人は深い祈りや瞑想によって、
自己の内奥に宿る聖なる意識に触れることができる。

そしてこの内的守護こそ、
何物にもまさる偉大な力なのだ。
 
(P171)


至高の目標を求めつつ、
視線を内なる眉間の一点に固定し、
鼻孔と肺の内を流れるプラーナとアパーナの
均衡した交互の流れを制止することによって
外界の刺激を断ち、
感覚と理知の働きを制し、
我欲と恐怖と怒りを追放させる瞑想の熟練者(ムニ)は、
永遠の解脱を得るに至る。

(P244)


続きます。
 潜在意識の予期するものを手放す
 (2014-05-22 11:26:25 | 感情のリリース)


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