其処カラ何ガ見エル?

・・・・・・・・・脳内百景一巡リ。

此処カラ紡グ世界。

2009-07-06 08:41:59 | 
「国境なんて簡単に越えられる。」


そういうことがわかってしまった。

パスポートと多少のお金があれば、それでいい。


ん〜・・・、いや、パスポートなんていらないか。
お金なんて必要ないな。


ここにいたって、国境は越えられる。
国境なんて飛び越せる。
国と国の堺を越えるのなんて、国家を越えて誰かとつながるのなんて、きっと簡単なことだ。


ここにいて、いろんなことを思い出して、いろんな情報を得て、あとは想像力を働かせればいい。


そう、実感している。


「国境なんて、もう簡単に越えられる!」



まあ、そんなふうに肉体そのもので実感できたのも、実際にあっちこっち行ったからだろうから、あの時間とお金も無駄じゃなかった、ってことにしよう。

たくさんかけた迷惑も、これから還元していきますから!!




だから、しばらくは忙しい。
“ここ”でやらなきゃならないことがある。



で、また思いをめぐらす。



「え?世界はつながってる?」

「そうだよ。」

「(遠い場所に住む)キミとボクも、この空でつながっているんだよ」


そうだね。
確かにそれは紛れもない事実。
そして、感情や思いを表す比喩的表現としても嫌いじゃない。


・・・けど、今はそんなロマンチストじゃいられない。
まず、「キミとボクは、“経済”でつながっている」っていうことの方がシビアに向き合うべき現実だ、と思ってしまう。

否応なく、現実の世界は、お金ですべてをつなげているのだから。



「僕らは、今この瞬間も、お金でつながらされちゃってる!」

そのことを自覚していたい。




そして、明日、明後日、一週間後、1ヶ月後、1年後、10年後、50年後、100年後・・・と、「世界は続いていく」。
 
今日の僕らの生活が、100年後の誰かの生活にかかわっている。




ちょっとイメージしづらいけど、それらは紛れもない現実。


あったり前のことだろ?って思われるかもしれないけど、まともに考えたら、こりゃあ、相当シビアな現実だよ。

貧困や飢餓は減ることなく、富はますます一部に集中し、貧国とされる国の政治家は先進国と結託して民衆を愚弄し、戦火は消えることなく今日もクラスター爆弾が飛ぶ。
森林はなぎ倒され、マングローブの森はエビの養殖地と化し、エネルギー消費は減少せず、砂漠が広がる一方で飽食の土地では過剰な栄養によって生態系が歪み、世界中で水と物質の偏りが大きくなるばかり・・・。



僕らのフツーの日々は、気づかないうちに誰かの痛みや屍の上にある。



その現実を知ればこそ、募金したり海外支援したりボランティアに励むよりも、まずすべきことがあるだろう、と今ならわかる。



重要なのは、今日の僕の生活だ。

 僕が何を喰うか。
 僕が何を買うか。
 僕が何を着るか。
 僕が何を創るか。
 僕が今日をどう過ごすか。


それがすべてだ。

それこそが、ダッカやアジスアベバやゴロモンジやパレスチナやサンペドロアタカマの友人たちの未来を明るくしうる可能性を持つ。
僕らが僕らのフツーの日々を再構築することが、中央アジアの砂漠化を食い止め得る。

(言わずもがなだけど、ここで言う「僕」は、今これを書いている「僕」である必要はない。「自分」なんかにこだわる必要はない。誰だっていいんだ)



「世界を変え得る」のはやっぱり、今日の「僕」「私」の飯であり、今日の「僕」「私」の金の使い道。

そして、「世界を壊し得る」のもまた、飯であり、金の使い道なんだな。




何度だって繰り返して、この身体と心に染み込ませたい。



「寄り道も道草もない。いつだって僕らは“途中”だし、いつまでも今日は昨日の“続き”にある」

「今日が明日につながっていく」

「全部がつながってる。何もかも、かかわりあって存在してる」

「地球の裏側に生きる何億もの人々も。僕の身体に宿る何兆もの菌も」




あらためて、ネイティヴアメリカンの人々の、7世代先の影響まで考える世界観に敬意をもつ。
“カムイ”を感じとるアイヌの人々の感性に敬意をもつ。


うーん。やっぱりすごいや。



でも、このノーミソや感性だって、ちゃんと進化し、覚醒し続けてる。
脳細胞は腐っちゃいない。
手も足も、胃袋も、まだまだ(それなりに)動く。


これらをちゃんと役立てなきゃな。
 



わかったよ。

指針にすべきは、「共生」と「持続可能性」だね。



“世界の現実”は歪で痛々しくて歯がゆくて悔しい。けど、ホントの世界はたぶん、僕らが思ってるよりずっと広くて深くて複雑で、おもしろい!


世界は変わっていく!


持つべきものはきっと、Sence of WONDER!


 ・・・・そして僕は、創作団だいだらぼっち(仮名)の一員となった。 


  まだまだ世界は続くのだ!
  


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其処カラ何ガ見エタ?

2008-10-15 16:36:11 | 
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つながっている世界、続いていく世界。

2008-05-05 11:30:27 | 
 本を読み、テレビやパソコンに向かえば、(真偽の程は別にして)情報は無尽蔵にあって、誰もがいくらでも“知識”を得ることができる。
 それが現代。

 一つの分野を学んだり特定の仕事を続けていれば、経験とともにそれなりに知識は深まっていく。
 当然のこと。


 そうして僕らは、だんだんこの世界のことを“わかったつもり”になっていく。
 自分が賢くなってるような気分になっていく。




 でも、疑ってみなきゃならない。


 この“知”はホンモノか?!



 もちろん、一個人がこの世界のすべてを“わかる”事などあり得ない。そんなものを望むこと自体が傲慢と言わなければならない。

 けれど、こうして今パソコンを使っていたって、これがどういう仕組みの機械なのか、僕にはまるでわからない。この、裏側が虹色にキラキラするCDというものから何故音楽が発せられるのか、さっぱりわからない。


 チベットを旅行したところで、パレスチナ自治区を歩いたところで、福祉施設を訪問したところで、障害を持った人と一緒に過ごしたところで、その人たちの喜びや悲しみや苦しみや怒りが、本当にわかるわけじゃない。

 まして、メディアを通して得られる「情報」なんて、一体真実の何%?



 これから食べようとしているチャーハンの中の、米、タマネギ、ニンニク、生姜、にんじん、ピーマン、モヤシ、ひき肉、卵。塩に胡椒。蛇口をひねりさえすれば出る水、コンロで青く燃えるガス、この皿、スプーン、テーブル・・・。
 これらは、どこでどう生まれ、どういう経緯でここにたどり着いたのか。
 僕には全然わからない。

 それだけじゃない。身に着けているもの、目に入るもの、当たり前だと思って触れて使っているもの、全てにおいてそうなんだ。


 そのことに気づいて、愕然とする。


 「僕は何も知らない!」

 「・・・全部人まかせじゃないか!」




 こんな片田舎の町でも、店には無数の商品が並ぶ。
 これらのモノはどこでどのように生まれて、どうやってここに来た?
 ここからどこに向かう?


 テレビでも雑誌でも、24時間消費をあおり立てるけれど、その文句の真と偽の境はどこにあるのだろう。

 「彼ら」はどこまで本当のことを言っている?
 僕には何が必要で何が不必要?
 何が君を幸福にし、何が彼を迷わせ、何が彼女を不幸にする?




 今、コンビニエンスストアで買おうとしている一本のペットボトルの清涼飲料水。
 これが作られ、ここに並べられるまでの過程において、世界のどこかで見知らぬ誰かを傷つけ命さえ奪ったかもしれない、という可能性。

 それは、現実として、本当はかなり高い可能性。
 けれど、あまりに間接的過ぎて、ほとんど実感することのできない現実。
 (例えば、誰もが知ってる多国籍食品会社が、フィリピンの農村から農地も文化も奪い、イスラエル軍にミサイルを買い与えてる。お金、経済を通じて僕らはそれらの行為を「支持」している)


 僕たちは、罪なき善良な一般市民か?

 「さあ?・・・よくわかりません。」




 全部、ぼんやりした膜の向こう側にある気がするような気がするような気がするような・・・。
 隠されてしまった気がするようなしないような・・・。



 それが、今の世界。



 情報や知識なんて、所詮はただの“点”でしかない。まあ、時々点がつながって感動を覚えたりするけど、せいぜい連続性のある“線”、か。
 それは、ワイドショーであろうと学術的な研究であろうと大して変わらない。
 テレビづけのおばちゃんもエラい大学教授もきっと同じ。

 細切れの、世界とも生とも切り離された、点や線のような知識。




 確かなことは何だろう?
 確かな方向は、どっちだろう?

 僕は何をすべきだろう?

 点が結ばれた線。線が織り成した面。奥行きを持ち重さを持った塊。
 そんな、世界や生そのものとつながり絡みあったホンモノの“知”は、どこにある?





 京都嵯峨野の造園職人、佐野藤右衛門氏の言葉に耳を傾けたい。

  「桜は全部下を向いて咲く。
   だから中へ入り込んで見て、初めて桜も喜ぶ。
   どんな昔の絵を見てもみんな、幹の周りで花見をしている。
   花が覆いかぶさってくれるのだから、そこへ入ればいい。
   横からただ見るだけでは、全然だめである。
   桜も早く下に来てくれと言って待っている。
   それを“桜の木に人が近づかないように”と柵で囲んで人から離してしまうから、
   桜も寂しがる。
   桜の幹をぽんぽんぽんぽんとやさしく叩いてやると、
   花も笑ってなびいてくれる。」

  「人間は、その桜の木だけは保護しようとして、
   老木が枯れたからといって同じ木の苗を同じ場所へ接ぎ木して移そうとする。
   だから、まともな木ができなくなる。

   古い桜は枯れていくと、その桜の種はその場所では育たない。
   鳥が種を運んで、若い木が別のところに生えてきて、
   長い時間をかけてある程度の場所をぐるぐる回って、
   そのうちまた元の場所へ戻ってくるもの。

   それを、なんとかそこで保護しようと無理に生かして、
   樹木医が桜の幹にシリコンを放り込んだり、
   根の先はずっと向こうにあって遠くから養分を吸うのに、
   根元にたっぷり水を栄養分をやったり、
   早いうちから杖を持たせようとしたりするから、
   木は自分で生きようとする力を失い、弱る一方になる。」

  「老木も、どこかは枯らしてどこかに新しい花をつける。
   そうやって自分で調整する知恵を持っている。
   それを、コンクリートなどの異物を詰め込んだりして、
   一時的な補助はできても、結局後で弱ってしまう。」

  「“よう生きてきたな”と褒めてやるつもりで見るだけでいい。
   そうすればまた、桜は一生懸命生きようとするのである。」



 氏は、声高に環境保護を訴えたりはしない。ただ桜の声を聞き、寄り添う。
 けれどそこには、本気で向き合い生きている人の、真理に近い“知”があるように思う。

 “エコ”だとか“環境に優しく”などという言葉を多用し森林保護などを訴えアピールする人(や企業)のどれだけが、木に触れ、木を愛しているだろう。
 例えば森林保護活動に携わる行政関係者や研究者、NGOのスタッフの中で、どれだけの人が「幹をぽんぽんぽんぽんとやさしく叩いて」やった経験を持つだろう。






 かつて、学校という場で子どもに接していた時、僕はいつも彼らの10年後を想うことを心がけた。10年先につながることをしていきたいと考えていた。それが自分達の(教員という)仕事だと思っていた。

 ウガンダに滞在中、小さな村で個人的に孤児院を運営する日本人、カマウさんと毎日話していたことは、“30年後の世界”についてだった。
 現在僕らがかかわっている子ども達がやがて大人になり、そのとき為される教育によって育つ子ども達。彼らがきっとこの世界を変えてくれる・・・、そこまで見据えてこその“教育”だろう、と。
 30年後に想いを馳せながら、今目の前にいる子ども達にかかわりましょう、と。

 “教育が変われば世界は変わる。”
 ・・・だから、教育は未来への種まきなのだ、と、あらためて確信する毎日だった。



 けれど、それにだって“わかったつもり”だったのだろう。
 僕は、子どもに伝えるべきいったい何を“本当に”“わかって”いるだろう。文字から得た2次的3次的知識ばかりの僕に、どれだけ伝えられることがあるだろうか。



 自問する。

 「自分の手を血に染めて絞めたわけでもない鶏を毎日平気で食べている者に、生命が語れるか?!」

 そもそも、「教える」なんて発想が卑しいのかもしれない。
 「保護する」なんてのも、きっと傲慢なんだろうな。


 命はすでに、そこにある。
 命はそこに立ち、自ら生きようとしている。


 大切なのは、それを「感じること」。
 そこがすべての出発点だ。





 ・・・想いを拡げる。
 いちいち羅列しないけど、現在国内外で起こってる、様々な“問題”。


 その核心はどこにある?
 それぞれ単独に起こっていること?


 違うだろうな。

 ・・・全部、関連してる。
 



 人間はこの世界で、あまりに脆くて弱くて歪な生き物だ。
 人間以外の全ての無機物有機物が参加している“環”から、僕らは外れた存在で、今なおはみ出していく一方だ。
 きっとこの世界の“和”を乱すことなく存在することなんて僕らにはもう不可能なのだろう。



 そして、自分の立っている場所さえ、増々わからなくなっていく。



 全てが曖昧で、ぼんやりした膜の向こう側にある。
 わからないことすらよくわからないくらいに。
 何もかも人まかせにしちゃったから。
 
 確信を持てることなんて・・・ないね。



 ・・・けど、せめて“確からしいこと”をしていきたい。



 様々な問題の核心、鍵は当然、“生”であり、“知”だろう。



 だとしたら、とりあえず、自分の食う物をつくることから始めてみなきゃならない。
 “食”を通して、自分の“知”が及ぶ範囲をさぐり、少しずつ足場を確かなものにしていこう。
 “つくる”だなんて言い方も、傲慢な発想かもしれないな。
 恵みをいただき、精一杯還していく。



 まずは、「身の程」を知りたい。






 ・・・“農業が変われば世界は変わる”?

 環境農学科で学び始めて数週間。ぼんやりと描かれていたその思いは、次第に確かな輪郭を持つようになっている。



 思考をめぐらせる。

 たとえば、”日本の自給率39%”、という問題。

 輸出入が外交のカードである現実は、今後もたぶん変わらないだろう。化石燃料や鉱物資源はもちろんのこと、食糧も。アメリカはまさに現在も、農作物の輸出でこの世界を支配しようとしている(しかもかなり周到に巧みに、時には強引に)。
 それが今の世界の現実だ。

 資源も食糧もぶん取り合い。
 国家間外交なんて、結局そこに集約される。しかもこの時代、動くのはほとんど“数字”だけなものだから、たちが悪い(騎馬民族に攻め込まれるほうが、体感できるだけ、恨む相手がわかりやすいだけ、よっぽどマシかもしれない。本当に恐ろしいのは、気づかないうちにやってきて、わからないように奪っていくやつらだ)。

 そう。領土も大事、食料も資源も大事。当然だ。有利なカードをたくさん持たなきゃ。不利なカードは早いとこ捨てなきゃ(ってことなんでしょ?)。

 “国家として自給率を維持する必要がある”という、一般的に言われる理屈は、だから的外れではないのだろう。



 けれど、問題の本質はきっとまったく違う。



 僕らは、日本人である前に、・・・人間だ(もっと言えば、生き物だ)。



 日本の自給率が下がり農地が放置される一方で、途上国では相変わらず飢える人々がいる、という現実。
 豊かな人が食する肉牛の為の穀物飼料をまわせば、世界中の人々が飢えから逃れられる、という事実。
 低価格競争の影にある、途上国の人々からの搾取。
 意図的に維持されているに違いない貧困や飢餓という構造。

 作物を地球の裏側から持ってくる、という単純な行為が、それだけでどれくらい他の生命に負荷をかけ、培われてきた文化や生活を破壊しているか、僕らはなかなか知り得ない。

 そして、“食う”ためにぶんどり合うのでもなく、金という神に精神を支配された人々が行うアグリビジネスや投機。



 そもそも“農業”は、生態系からの逸脱とともに発達した。狩猟採集をやめて他の動植物を人間の都合で操り出したときに、命の意味は変わり始め、「祈り」の意味合いも変わったのだろうと思う(だから、西洋キリスト教的世界観では、アイヌの指す「カムイ」を理解することはできない。カムイはGODではない)。

 僕らは、“環”を外れざるを得なかった。大型機械や化学農薬・化学肥料づくしの近代農業には、企業が金儲けのために推進した側面があるにしろ、また、近代農業によってそれまでの農業が持っていた「自然の中でバランスを保ちながら“利用させてもらう”」といった精神性すら破壊されたにしろ、人間はそのおかげで現在のような繁栄を極めたのだし、僕らは過剰な程におこぼれを享受している。それは、紛れのない事実だ。“低コスト”“省労力”で、“美味しい”ものを“大量”に、という発想だって、それ自体を善悪で裁けるものではないだろう。遠隔地への食料の輸送だって、当然、単純に否定などできない。


 ただ思うのは、人間は、あまりにも“食う”ことの本質から離れてしまった、ってことだ。
 そして、それに伴って、何もかもが間接的になってしまったんだ。


 そもそも“生きる”ことは“食う”ことであり、それは“他の命を奪う”ことと同義なはずだ。“食う”ことはつまり、“命を継ぐ”ことだ。

 人間が文明と寄り添い農を軸にして生き始めたときから、僕たちは地球上の“環”をはみ出した種として存在してきた。けれど、それでもかつて、食べることはもっと生々しかったはずなんだ。

 “食う”が“生きる”と同一で、人間の“知”がもっと“生命”と結びついていた時代は、そう遠くない過去だ。

 農業が、土からの“恵み”だという自覚とともにあったころ、その所作の一つひとつは、ホンモノの“知”に溢れていただろう。
 世界から、生から切り離された“点”でしかない情報や知識ではない、ホンモノの“知”。




 “食う”という観点から、この世界の核心が見えてくる。

 ・・・だから、“農”という行為で、自らの“知”を探求したいと思った。





 “農業が変われば世界は変わる”・・・と、本気で思う。
 なぜならそれは、“食う”ことと向き合う行為だからだ。




 2年間の旅行。

 僕が歩いたのは、ほんの一部分に過ぎないけれど、それでも世界はつながっていた。
 すべてはこの足元と地続きにあって、これからもずっと続いていく。

 それは今、僕の中に、体温を伴うような実感としてある。





 この星のあちこちに生きるたくさんの友人の顔を思い浮かべながら、まずは、今立っている場所に種を蒔きたいと思う。
 50年後、100年後の世界を想像しながら、土の声を聞きたいと思う(せめてその程度の想像力は持っていたい)。
 そして、ホンモノの知を継いでいかなきゃならない。



 ・・・それが、曖昧な魂を宿す僕がたどり着いた、現時点での“こたえ”だ。







 遠景と近景を交互に見てみよう。
 過去と未来、交互に想いを馳せてみよう。
 うん。すべきこともできることもやりたいことも、山のようにあるだろ。

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日本にて(その2)。

2008-05-05 10:22:08 | 


 帰国し、日本で生活するようになると、当たり前のことだけれど日本語しか話さない。
 せっかくちょっとはマシになった語学力も、瞬く間に低下してしまう。どんどん忘れていく(新たな言語を覚えると前滞在国の言語は脳内より消失してしまうのが常だったけれど、英語、スペイン語はそこそこ定着してたし、ペルシャ語、トルコ語、ロシア語等もあいさつ旅行会話程度は覚えていたはずだったのに・・・)。

 せめて英語とスペイン語くらいはある程度話せるように維持しておきたいと、NHKの講座を視聴したりもするものの、思うようにはすすまないのだった。




 そう。英語は便利な言語だ。話せないよりは話せた方がいい。そこに異論はない。

 けれど、勘違いしてはいけないと思う。英語は決して、世界共通語なんかじゃない。ただの“イギリス語”、“アメリカ語”だ。
 それを忘れてはいけない。



 “小学校でも英語教育がすすめられる”という報道を目にし、気になったので調べてみた、・・・のだけれど、どうにも違和感が拭えない。


 今度の学習指導要領ではこう明記されるという。
「外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う」



 違和感の原因ははっきりしている。
“外国語=英語”という扱いだ。

 「言語や文化について体験的に理解」?「コミュニケーションを図ろうとする態度」?「外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませ」?・・・??



 自分の経験から、断言したい。

 国際人になる第一歩は、“英語でコミュニケーションをとれるようになること”なんかじゃ決してない。
むしろ、“英語が世界の共通言語ではなく、世界には英語圏以外にも無数の素晴らしい言語・文化がある、という事実を知ること”こそが国際的感覚だ。




 英語という言語は、現在の世界で、確かに“共通語”に近い役割を果たしているし、他と比べても機能的で扱いやすい(世界共通語として作られたエスペラントもあるけれど、今さらそれを周知することは現実的ではないだろう)。従って、これを使えると“とても便利”ではある。
 だから、(仕方なくだけれど)僕も学ぶ。

 でも、何度だって言うけれど、英語はあくまでもイギリス語であり、イギリスから北アメリカに移住した人たちの言葉。世界中に数多くある言語の中の一つに過ぎない。

 “共通語”であるかのように使われるようになったのは、これが“支配者・強者の言語”だったからだろう。
 今尚、この世界を“支配している国の言葉”だからだろう(ちなみに、中南米で「便利」なスペイン語も、東欧や中央アジアで「便利」なロシア語も、歴史上の強い支配力・権力、そして同化という文化的抑圧の結果にすぎない。国家が常に、明確な政治的意図を持って被支配者の言葉を奪ってきたことを忘れちゃいけない)。




 何が「外国語教育」だ。
 「文化」だとか「コミュニケーション」だとか、もっともそうな理屈を並べたところで、要は“英語教育”。化けの皮すら被っていない。
 “経済的に搾取する側”に居続けるために、異文化への敬意とか多様性の尊重などは考えずに思考は停止させてとにかく“英語を話せるようになれ”ってのが本音だろう。

 そもそも、「外国語」なんていう言葉自体がおかしい。以前何かの本で読み、「なるほど」と思ったことだけれど、実際にいろいろな国を訪れると実感する。
 話されている言語は僕らから見て“外語”だけれど、“外国語”なんてものはないんだとわかる。
 1つの国の中で複数の言語が使われるなんて当たり前のことだし(一言語しか持たない国の方が希少だろう。北海道の人間ですら忘れがちだけれど、日本だって単一言語じゃない)、同じ言語が国をまたいで使われていたり、親戚のような言語が方言を介してつながっていることだって珍しくない。言語は、“国”に規定され、利用されてしまった歴史を多く持つけれど、「外国語」なんていう言葉を使う発想自体が、“非国際的”だ。
 あるのは、僕にとっての「母語」と「外語」。





 “外(国)語に親しむ”“国際的な感覚を身につける”“異文化を尊重する姿勢を持つ”ことを本気で求めるなら、まずは英語から離れることが必要だ、と僕は本気で思う(まあそんな、“経済的価値”の低いことは決してしないだろうけど)。





 いや、“国際的な感覚”なんて本当は、そもそも存在しないのかもしれない。

 必要なのは、“他者への想像力”、それだけなんじゃないか。



 相手がどこの国の人であっても、日本に生きる朝鮮系の人たちでもアイヌ民族の人たちでも、まだ見ぬ隣人、そして友人であっても同じ。

 自分とは異なる背景、感覚、思考、思想を持つ、“自分以外の人”への敬意の延長線上に、全てがあるのだと思う。





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日本にて(その1)。

2008-05-05 10:10:52 | 
 約2年ぶりの日本。北海道はまだ雪景色だった。

 ただの旅行に過ぎなかったにせよ、「異国」に身を置き生活することで、あらためて見えてきたこと、確認したことは数知れない。

 自分の中にある「愛国心」もその一つだろう。
 僕は、日本が好きだ。



 奇しくも、久しぶりに見た日本の新聞には、“新学習指導要領での愛国心の強化”に関する記事がいくつか載っていた。君が代を「歌える」ことを重要視し、「(我が)国と郷土を愛」する国民になるための教育を行なう、というのだった。
 「日本人としての自覚を持って国を愛し、国家の発展に努めるとともに、優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する」国民になるように、教育活動全般を通じて”指導”するのだそうだ・・・。
 この度の”教科書における沖縄戦の取り扱い”に限らず、歴史教科書を“日本に誇りを持てる”ようなものにすべきだという思想、主張も、絶えることなく依然としてある。


 そこでいう“日本”とは一体何を指すのだろうか。



 気づけばいつの間にやら、「国益」などという言葉がずいぶん大手を振って、さも絶対的な正義のように使われるようになっている。




 たぶん、僕の感じる「愛国心」は、彼らの指すものとは異なるのだろう。

 彼らに“指導”されるまでもなく、僕は自分が生まれ育ち生きてきたこの土地の、風土や文化が好きだ。超短所あるにせよ、“日本的”な慣習や美意識もなかなか悪くないものだと思うようになった。なにより、自分が話し、記す、この言葉や文字にたまらない愛着を覚える。

 「これが日本です」と、誇りを持って、異文化に生きる友人に伝えたい。
 そして、この風土や文化を育み、守り、伝え続けてくれた先人に敬意を持っていたい、と思う。



 だからこそ・・・。


 現在の世界において最も合理的な枠組みが「国家」というもので、今のところはそれに代わる機構を人間が作り出せていないとしても、こんなものはやっぱりただの入れ物でしかない、ということを忘れずにいたい。
 僕の愛するこの風土、文化、そして人間を大切にしてくれるからこその国家、政府であり、入れ物にすぎない国家や政府を愛すも愛さないもない。
 別ものであるはずの2つをさも同一のもののように、「我が国と郷土を〜」などと表現するから、わけがわからなくなる。
 まったく、詐欺のような手法だ。

 いやそれ以前に、何かを愛すことを強制させるなんて、どういう感覚なんだろうか。



 そこに生きる人間にとって不都合な政府なら取り替えてしまえばいい。枠組みを解体して新たなものを構築してもいい。
 「国家」なんてその程度のものだ。

 まして、負の歴史を隠蔽し、時の政府に都合のいいことだけを伝えるなんて、そして素直にそれを受け入れるなんて、どちらもとんでもない愚行だ。
 成功も失敗も含めて、僕らは歴史に学ぶべきだろう。そうして始めて、未来を考えていけるんじゃないか。





 「国益」という言葉。
 なんて矮小で醜い思考だろうか。

 旅行中に会った韓国人の友、中国ウイグル自治区に生きる友人、チベット・シガツェに生きる友人、カンボジア・プノンペンのスラムに生きる友人、イラン・マシュハドに生きる友人、ヨルダン・アンマンに生きる友人、パレスチナのナブルス市に生きる友人、ケニアのゲデ村に生きる友人、ジンバブエのゴロモンジ村に生きる友人、パラグアイ・イグアス市に生きる友人、パナマのプエルトオバルディアに生きる友人、キューバ・ハバナに生きる友人、ドイツはデュッセルドルフに生きる友人、ハンガリーのブダペストに生きる友人、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォに生きる友人、日本の大阪に生きる友人、沖縄に生きる友人、北海道の友人。
 そして、僕や彼らの生きている土地や文化・・・。

 “日本という国家”よりも、僕にとっては余程重要なものだ。



 “そこに生きるもの”の上位概念に“国家”を持ってくるような人たちの思考を、僕は決して信用しないし、支持しない。どこまでだって抗いたい。破廉恥な「益」の分捕り合いなど、もううんざりだ。

 逆に言えば、真剣に文化や人間を含めたこの土地のすべてを尊重し、尚かつ他者のそれにも敬意を持って対しようとする“国家”であるのなら、僕は全力で支持したい。
 そういう“国”になるよう、僕自身も努力を続けたい。




 それが僕の「愛国心」だ。


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