本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

尾上松也さんが語る「本能寺の変」の真実

2016年11月15日 | 427年目からの挑戦
 明日(11月16日)、BS11「尾上松也の古地図で謎解き」は私も出演した「本能寺の変」です。松也さんの番宣の一部をご紹介します。(写真は亀山城の石垣)

 現代には、信長の側近が書き記した信長の一代記、宣教師が武将たちの交流を綴ったものなど、当時の武将についての一級資料が数多く残されています。明智氏は、そうした文書に書かれた事実を読み解いていくことで、事件の謎を解明したというのです。私自身、明智氏の口から飛び出す真相の数々に驚愕の連続でしたが、そのどれもが文書で裏付けされたもの。その理論構築の見事さには、思わずため息が漏れるほどでした。いくつもの謎が一つの答えに収斂されていく快感を、番組で体感してください。ぜひ、ご覧ください。

 全文は下記のサイトでご覧ください。
 >>> 尾上松也の古地図で謎解き

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 明智憲三郎著の第4作『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社2016年5月14日発売!!
 「秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を、今一度洗濯いたし申し候」。40万部突破の『本能寺の変 431年目の真実』の著者、明智憲三郎がさらなる歴史捜査を通じて、より解り易く「本能寺の変」の真実を解説した歴史ドキュメント! 「ハゲだから謀反って変だ! 」「歴史の流れ無視って変だ! 」「信長の油断って変だ! 」等々、まだある驚愕の真実に迫る!

 本能寺の変研究の欠陥を暴き、「本当の歴史」を知る面白さを説く!
 「若い方々や歴史に興味のない方々に歴史を好きになってもらいたいと思って書きました」
 明智憲三郎

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5 コメント

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信長の「家康討ちの計画」について (三鍵 那屋王)
2016-11-19 10:57:05
この計画のことは「信忠」が知っていたという事実は、資料には出てきていません。「421年目の真実」172ページには、「信長は家康一行を堺見物に送り出し、案内人として「長谷川竹と信忠に同行を命じた。」とあります。その後、信忠は京にて信長が本能寺に停泊するのを知り、急遽、堺に行くのをやめて京に留まることを信長に申し述べます。「この変更」について信長は「家康討ちの計画」に影響を及ぼすかもしれないとは考えなかったのでしょうか。信長は本懐を光秀には打ち明けたが信忠には最後まで黙っていたと考えてよろしいのでしょうか。お忙しいところ申し訳ありません。
小畠文書の謎 (明智憲三郎)
2016-11-20 10:04:48
 問題の織田信忠の森乱丸宛書状が保管されていたのが小畠文書。丹波の小畠家に伝わる文書類ですが、小畠家は光秀の丹波平定に際して真っ先に味方して活躍した武将の家です。この書状がなぜ小畠文書に保管されていたのか?この謎を解く必要があります。私は、この書状が乱丸の手に渡る前に何らかの理由で小畠家が入手したと見ています(詐取したのかも?)。したがって、信長はこの書状を読んでいないと考えます。
ご回答ありがとうご゛ざいました。 (三鍵 那屋王)
2016-11-20 20:10:20
お忙しい中、ご回答いただきまして本当にありがとうございます。
ご指摘の織田信忠の森乱丸宛書状が乱丸に届いていないとしても、『変』の前日の6月1日の夕方に信忠は信長に本能寺で謁見していると記述された書籍を読んだことがあります。謁見した事実があったかどうかはともかくとして遅くとも6月1日の時点では信長は妙覚寺に信忠が来ていることは知っていると見ていいと思います。
「家康討ちの計画」が『明日』に迫った信長としては信忠に何か申し述べることはなかったのでしょうか。信長の頭の中では当初から「家康討ちの計画」に信忠を関与させないつもりだったのでしょうか。信長から家康一行の案内人として信忠とともに命じられた『長谷川 竹』に対してもこの「家康討ちの計画」には関与させるつもりはなかったのでしょうか。『計画の内容』のことですから文書として残っているとは思えませんが、依然として『謎』です。
叱責? (明智憲三郎)
2016-11-21 09:52:23
 6月1日に信忠は信長に会っています。勝手に上洛してしまった信忠を信長は叱責したはずです。大久保彦左衛門著『三河物語』には本能寺の変で信長が最初に発した言葉が「城之助(信忠)が別心(謀反)か?」で
す。おそらく叱責の結果、口論になったのではないかと思います。
 家康に同行する信忠や長谷川竹が家康討ちを知っていたら顔や態度に現れる危険があります。当然、信長は二人に秘密にしていたでしょう。彼らの役割は家康一行をご機嫌よく旅行させて、安心させて本能寺まで送り届けることにあったと考えます。
 叱責の際に信長は信忠に家康討ちを初めて打ち明けた。そして反対されて口論になったとも考えられます。(このあたりは証拠資料がないので推理の幅が広がる部分です)
ご回答いただき、ありがとうございました。 (三鍵 那屋王)
2016-11-21 17:35:24
本当にありがとうございました。

『三河物語』の「城之助(信忠)が別心(謀反)か?」の部分も承知しております。
これも『信忠が信長に謀反したとしても不思議でもなんでもない。』という見方と『徳川方が本能寺の変に関して関わりはないということを言わんがための作り話』という見方もあると思います。いずれにしても、信忠が堺に行かずに京都に留まったことを信長が知った時点で『家康討ちの計画』を断念といいますか、一時延期しようかと信長は考えたとは言えないでしょうか。信憑性の高い資料が発見され,『変』の真相の完全解明を是非、先生の『次回作』で発表していただけることを期待しております。

この度はありがとうございました。

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