本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

信長最期の言葉の証人捜査(完結編)

2010年05月31日 | 歴史捜査レポート
 本能寺での信長最期の言葉を聴いた証人を捜査してきました。『信長公記』に書かれた「是非に及ばず」、『日本王国記』に書かれた「余は余、自ら死を招いたか」、『三河物語』に書かれた「城介が別心か」のいずれも証人を特定することができました。
 ★ 信長最期の言葉の証人捜査(前編)
 ★ 信長最期の言葉の証人捜査(後編)

 それでは、この3つの言葉がどのような順で信長の口から出たのかを復元してみたいと思います。復元されたストーリーは以下のようになります。

 天正十年六月二日早朝、本能寺は明智光秀の軍勢に襲撃されます。その騒音を聞いて、信長は初め下々の者の喧嘩かと思いますが、どうやら襲撃されていると知ります。そこへ小姓の森乱丸が注進に駆け込んできます。(『信長公記』による)
 信長 「是れは謀反か。如何なる者の企てか」(『信長公記』による)
    「信忠の謀反なのか」(『三河物語』による)
 乱丸 「明智が者と見え申し候」(『信長公記』による)
 信長 「(そうか、光秀か)余は余、自ら死を招いたか(光秀に家康討ちの企てを乗っ取られたのだ)」(『日本王国記』による)
    「是非に及ばず(光秀に決まっている。これ以上、確認の必要なし)」(『信長公記』による)
 信長はこう命令して直ちに戦闘態勢に入ります。(『信長公記』による)

 以上が復元されたストーリーです。
 これを、その場に居合わせた女性A、女性B、小姓の彌介が断片的に聞き取りました。襲撃を受けて大混乱の現場で信長の発言を一貫して聞き取ることは無理でした。聞き取った3人はそれぞれが聞き取った言葉を『信長公記』の著者の太田牛一、『三河物語』の著者の大久保彦左衛門の仕える徳川家につながる茶屋四郎次郎(本人もしくは配下の者)、『日本王国記』の著者のアビラ・ヒロンにつながるイエズス会士に伝えたのです。

 皆様はこのストーリーの蓋然性(確からしさの度合)をどの程度と評価されるでしょうか。


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10 コメント

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彌介という証人 (マーシーズ)
2010-07-17 02:00:16
こんにちは。以前、ここに一度コメントを書き込んだ者です。あのときは御著書の立論をゲーム論的発想に喩えました。

その後、何度もこの本を読み返して、周りの人たちにも内容をまとめ直して話していますが、この本に対する信頼は少しも揺らいでいません。

 とても感銘を受けた議論のひとつが、信長の黒人小姓だった彌介に証人として注目した点で、この点は周りの人たちに話すたび、大きな反響があります。ただ、同時にそこでよく質問されるのですが、本能寺の変の後、光秀がこの黒人を殺さず、「インドのパードレの聖堂」に引き渡せ、と言ったというフロイスの記述についてです。
 御著書では、「インドのパードレの聖堂」を「すなわち」という言葉で「京都の南蛮寺」と等値されていますが、素人の私にはなぜインドの聖堂が京都の南蛮寺なのかがわかりません。もしお暇がありましたら、この言葉遣いについて補足説明していただけると幸いです。もちろん、自分で調べればいいことなんですが。

 立論に疑いを差し挟んでの質問でないことはいうまでもありません。
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よいヒントをいただきました! (明智憲三郎)
2010-07-17 10:24:51
 ご愛読及びご質問ありがとうございます。
 私は「当然そうだ」と思い込んでいたので、ご質問をいただいて調べなおしてみました。
 当時、イエズス会のアジア地区布教の拠点がインドのゴアにありました。このアジア地区をイエズス会は「インド管区」と呼んでいたようです。
 拙著にも書いた巡察師ヴァリニャーノはこのインド管区の責任者でした。彼が日本に来るに際しては、まずインドに赴任して現地の布教体制の立て直しを行っています。インドで3年過ごして、その後、マカオに立ち寄って日本に来ています。
 本能寺の変の1年前に信長と会ったヴァリニャーノの話を聞いて、光秀はイエズス会を「インドから来た宣教師たち」と理解していたのでしょう。
 ひょっとすると、光秀も信長とヴァリニャーノとの会見に立ち会っていて、直接インドの話をヴァリニャーノの口から聞いたのかもしれません。光秀が腹心として国家的行事に関与していた時期なので、当然あっておかしくないことだと思います。光秀にはインドの印象がとても強かったのではないでしょうか。
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ありがとうございます (マーシーズ)
2010-07-18 01:58:07
さっそくご返答いただき、ありがとうございました。実は投稿した後で、自分で調べるべきだった・・・と後悔しておりましたので、とてもうれしかったです。

なるほど、光秀にとって「インドの」という言い方は「イエズス会の」というほどの意味だったのですね。
 その背景となる文脈までもご教示いただき、助かりました。

 今度は何かこちらから貢献できるようにいろいろと調べてみたいものです。

 この本の波紋がますます広がっていくことを祈念しております。

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こちらこそ、ありがとうございます (明智憲三郎)
2010-07-19 21:37:32
 スペイン・ポルトガルが戦国時代にどのような海外発展をしていたのかをちょうど調べているところです。彼らの海外植民地化政策を信長はイエズス会を通じて学んだのです。それが日本国(信長・秀吉)の中国征服政策となりました。そういう鳥瞰図がみえてきています。
 これが光秀謀反の本質だったのではないか、利休や秀次の切腹もその延長線上にあるのではないか・・・・・・・。
 なぜ光秀はイエズス会を「インドのパードレ」と認識していたのか?という設問はこういった当時の世の中の動きを調べる上で大変よいヒントになりました。ありがとうございます。
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ご参考までに (フロイス・2)
2010-07-20 23:45:43
「インドのパードレ」に関連してですが、ポルトガルは18世紀の半ばまで、「インド」という言葉を、インド洋を中心とする自らの交易拠点や支配地すべてを包括して用いていたようで、アフリカ南部や東南アジアも「インド」で現されていたようです。 

http://en.wikipedia/wiki/Portuguese_India

また、基本的には民兵による「軍事・征服ベンチャー」とも言うべきコンキスタドールが活躍した新大陸と異なり、ポルトガルのアジア進出は、国家権力のより直接的な投影という性格が強い反面、大規模な軍事征服は稀であり、軍事力行使の第1の対象は、インド洋制海権を確立するためオスマン・トルコ海軍だったと考えられます。 これもまた、信長にとっては貴重で興味深い情報だったでしょう。
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リンクの訂正 (フロイス・2)
2010-07-21 13:42:46
申し訳ありません、前出のコメントに貼っておいたウィキペディアのリンクのURL、wikipediaの後に .org が欠落していました。 正しくは

http://en.wikipedia.org/wiki/Portuguese_India

です。 
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やはり信長 (絵里)
2013-08-17 21:00:55
彼は最期まで諦める人だと思っていませんでした。天下迄にあと少し。どんなに悔しかったことか…
すっきりした解釈ありがとうございました。
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ありがとうございました (明智憲三郎)
2013-08-18 21:28:27
 本能寺の変の研究をしていると、あることに気づきます。それは、研究者も一般の人も当時の武将を自分より劣る人間とみていることです。ですから、彼らは愚かな失敗を犯したと結論付けられています。ところが、彼らは現代人には考えも及ばない厳しい生き残りの時代に生き、生き残るために総智総力を尽くしていたのです。その彼らを現代人の感覚で評価するのは、本因坊の碁や名人の将棋を素人が評価するよりも、さらにはるかに的外れだと思います。武将に対しても歴史に対しても不遜な態度といえます。
 彼らが我々をはるかに超えた人物として仰ぎ見る姿勢がなければ「歴史に学ぶ」ことはできないと思います。
 
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あの羽柴秀吉が書かせたことを......まさにその通り!同感です (steve)
2014-03-27 08:08:36
憲三郎さんはじめまして!
今日は昼過ぎに起きてインターネットで『是非に及ばず』で楽しんでましたらここのブログに来れました。
すごく楽しい記事ばかりです!

実はぼく今、カナダのトロントという所に住んでます。とても寒い所でまだまだマイナスの温度なんですがそんなぼくにとてもhot newsでした。
ありがとうございます

なのでまだ読めていないですがともだちにgetしてもらおうと思います。すごく楽しみです。
読んだらまたコメントします!
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ありがとうございます (明智憲三郎)
2014-03-28 21:00:24
steveさん コメントありがとうございます。トロントに是非熱い雪を降らしてください。
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