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「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”

2015年05月26日 | 平和・加害・被害・抵抗
 原文のママですが、皇国史観の立場で書かれていますので批判的にお読みください。彼らの手記を読みますと、ポツダム宣言の内容を“つまびらか”に検討もせず、唯々国体護持(天皇制)だけに汲汲している姿が浮かび上がってきますが、さすが書記官長の立場だった人間ならではの、二度の御前会議の様子など内容の正確さは感じます。
 8月に封切られます映画「日本のいちばん長い日」では、堤真人が迫水久常氏を扮するようです。玉音放送を阻止しようと、内幸町の放送会館に乱入して副放送部長の柳沢康雄さん(富士国際旅行社初代社長)にピストルを突きつけた陸軍省軍務課畑中健二少佐は、松坂桃李が扮します。



終戦御前会議前後の回想

昭和二十年四月五日の夜、海軍大将、枢密院議長鈴木貫太郎男爵に小磯内閣の後継として、内閣組織の大命が下った。私は当時大蔵省銀行保険局に奉職していたが、鈴木総理の要請もだしがたく、書記官長(いまの内閣官房長官)に就任した。年若く微力、如何かと思ったが、岳父の岡田啓介大将が、自分は鈴木首相にぜひ戟争をやめてもらわねばならないと思っていて、これには大いに手伝うつもりでいるが、お前は身替りとなって内閣の中にあり、鈴木首相を助けるようにと強く要望するので、決心して就任した。爾来八月十五日総辞職するまで四カ月あまり、この内閣は戦争終結のためにあらん限りの力をつくすことになったのである。
 そして、いまにして思えば、終戦ができたのも、一に天皇陛下の御仁徳のおかげであった。陛下の真のご信念はいつも平和にあった、ということを、私はそのときほど強く感じたことはない。戦争終結の動機も、実にそのご信念から発したものであった。
 鈴木内閣成立以後の戦況は、まさに日に非なりという状態であった。日本全土に対して大規模な空襲が行われ、大きな被害を出し、国民はいよいよ戦争が自分たちの身辺に迫ってきたことを切実に感じた。一方、欧州に於ては、ナチス・ドイツも敗戦につぐ敗戦で、ついに五月上旬に無条件降伏するに至った。
 鈴木内閣はおもむろに一つ一つ手を打っていった。しかし、四月いらい開始されていた沖縄の戦況は急速に悪化し、陸海軍の懸命の努力にかかわらず絶望の状態に達した。内閣の対応策よりも、戦況の悪化による挙国不安の速度の方がはるかに早かった。かかる際、六月二十二日測らずも宮中より、首相、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、参謀総長、軍令部総長の六人、すなわち最高戦争指導会議の構成員に対しお召しがあり、陛下より親しくご懇談あらせられ、戦争に関しては適当なる方法をもって、なるべく速かにこれを終結せしむることをも考慮しなければならない旨の、お諭しがあった。
 鈴木首相は官邸に帰られて、その内容を詳しくは話されなかったが、私に「今日は陛下から、われわれが何か言いたいけれども言うことを僅かれるようなことを、率直にお示しがあって、まことに恐懽に堪えない」というお話があった。
このお召しがあっていらい、六巨頭はしばしば会合を重ねた結果、公式にソ連に対して特派大使を派遣し、ソ連政府との間に一つには日ソ間の国交調整を議するとともに、進んで戦争の終結に閲し、ソ連の斡旋を求むるの方針を決定したのである。この特使として近衛文麿公爵が選任せられたのである。
 ソ連に対するこの申入れは数次の応酬を重ねたのであるが、ソ連側は間もなくポツダムにおける米英ソ三国会談が開かれるが故に、この会議後において日本と話合いすべき旨を伝え、スターリン首相ならびにモロトフ外相はポツダムへ向った。政府では、この方策の前途かならずしも好望ならぎるを察し心配したのであるが、しばらくポツダム会議を慎重に監視することにしたのである。
 そして七月二十六日、果然、米英支三国の対日共同宣言が発表された。このポツダム宣について、いまは詳述する余裕はないが、束郷外相はその承認をとなえ、阿南陸相は、ソ連に仲介を頼んでその返事を待っているところ故、その返事がきてから事を決すべし」という意見で、二つに分れ、結局この宣言に対しては何ら意志表示をなさざることと決定した(しかし新聞は、これを政府は黙殺するという表現を用いて報道し、これが拒絶と受けとられ、その後、八月六日には日本は世界で最初の原爆の洗礼を受け、さらに八月九日のソ連の参戦と、戦況が最悪の状態になったのは、周知のとおりである。
 ここに至って事態は遷延を許されない。私は九日の朝早く書類をとりまとめて急拠鈴木首相を訪問して、ソ連参戦を逐一報告した。首相はこれに対して、「いよいよ来るものが来ましたね」と極めて冷然としていわれた。私は、事態かくなる上は鈴木内閣がソ連を中継して戦争終結を企図し、しかもそれが失敗したのであるから、通常の政治常識からいうならば、この際総辞職すべきであるが、首相は如何されるやと申上げたところ、首相は決然として、その場に来合わせた外相をも顧みられて、「この内閣で結末をつけることにしましよう」といわれた。
 この日の十時より最高戦争指導会議が開かれた。私は連絡のため一、二回会議場に入ったが会議は極めて沈欝な、黙りがちの会議であったように思う。午後一時、会議は 一応休憩し、首相が出てこられたので、私はその結果を伺うと、意見は二つにわかれた、一つは国体護持のみを条件としてポツダム宣言を受諾すべしというにあり、他の一つほさらに①占領はできるだけ小範囲に小兵力で、しかも短期間であること、②武装解除と、③戦犯処置は日本人の手にまかせることの三条件も付すべし、という意見とにわかれた、とのことであった。この会議の最中に第二回目の原爆が長崎に投ぜられたのである。
最高戦争指導会議は一応そのままとして、全閣僚招集の閣議が開かれた。まず陸海両相が今後の戦争見通しについて説明することとした。米内海相は極めて簡明に、到底見込み立たざる旨を述べられ、阿南陸相は本土決戟の段階に入れば、少なくとも一応は敵を撃退し得べく、その後に有利な条件で講和にもちこむべき旨を力説された。閣僚の大部分は受諾説だったが、若干の閣僚は条件を付すべきことを主張し、ここでも議論は二っに分れた。 来るところまで来ていた。論議しても決せず、時間的には土壇場に追いつめられていた。鈴木首相はここに於て、甚だ恐懽に堪えざるところながら、ご聖断によってことを決すべさことを決意されたのである。
 午前会議はその日の遅く午後十一時三十分より、宮中防空壕内の一室において開かれた。六巨頭に平沼騏一郎枢密院議長のほか、幹事として陸海軍務局長、綜合計画局長官と私の計十一名である。天皇陛下は蓮沼侍従武官長を従えて室に入られた。お顔は極度のご心痛にやつれ果てられ、額には教本の頭髪が乱れて下っておられた。l
 陛下をはじめ、各構成員の手もとには、ポツダム宣言の仮訳文と当日午前の最高戦争指導会議において対立した二つの意見が甲乙両案として、それぞれ配布されてあった。会議は首相が議長となり、最初に私がポツダム宣言を読みあげた。天顔に真に咫尺してあの宣言を読むときの私の心持、到底声を出すに忍びず、どうして読んだものか、まったく覚えないようであった。
 つづいて外相が立って冷静な口調で、天皇のご地位すなわち国体に変化なきことを前提として、ポツダム宣言を受諾するのほかなきことを発言した。つぎに立った陸相は「外務大臣の見解に反対である」と前提し、本土決戦によって敵に大打撃を与え有利なる終戦の機会をとらえるべきであり、この際は死中に活を求むるの勇気をもって進むこと適当なるべし、と痛切に双頬を涙でぬらして発言するのだった。
 ついで海相は極めて簡明に外相の意見にまったく同意なる旨を述べただけであり、平沼議長もだいたい外相の意見を支持、これに反し、参謀総長および軍令部総長はおおむね陸相と同趣旨の発言で、いわば三村三の対立となったのである。
 陛下はこの間ずっとご熱心に耳を傾けられた。時刻は移って八月十日の午前二時をすぎた。鈴木首相が立った。私には総理が自己の意見を述べるのかと思われたが、首相は宣言するように「議をつくすことすでに数時間、なお議決せず、しかも事態は遷延を許さず、かくなる上は甚だ畏れ多きことながら、これより私が御前に出て思し召しをお何いし、聖断をもって本会議の決定といたします」といい、そのまま玉座の前に参進せられた。会議場は、一瞬、驚きの気配というか、ハッとした空気がみなぎつた。御前に参進したときの総理の姿は、いまも私の眼前に彷彿としている。                
陛下は、首相に対し、一応座に帰るべきことを仰せられ、やや身体を起された後、「それならば私が意見をいうが、私は外務大臣の意見に同意である」と仰せられた。ご聖断は下ったのである。陛下はさらに低い押しっぶしたような声で、「念のためその理由を申しおく」と仰せられた。
 お言葉の要旨は、わが国力の現状、列国の情勢を顧みるときは、これ以上戦争を継続することは日本国を滅亡せしむるのみならず、世界人類を一層不幸にするものなるが故に、この際堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、戦争を終結せんとするものである、ということであった。この時のお言葉をそのまま文語体としたものが、終戦の大詔の前段をなすものであり、それは正しく大詔の中にある「萬世ノ爲二大平ヲ開カント欲ス」という陛下のご気持そのものの発露であったのだ。さらに陛下は、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は誠に忍び難いことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽した人であることを思うと、堪え難いことである、とも仰せられた。
 時に八月十日午前二時三十分。陛下のお言葉に、ある者は声を出して泣き、ある者は声を殺して泣いた。ご聖断によって会議は結論に到達した。真に未曽有のことである。御前会議のあと、待ちうけていた全閣僚を会して閣議を再開し、閣議も聖慮のままを閣議決定としたのである。
 これによって午前七時ごろ、スイスとスウェーデンを介して、ポツダム宣言受諾の電報が打たれた。ただし、この通告には、ポツダム宣言の条項中には「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに」という条件を附加したのである。このため、連合国側の回答が遅れた。
 公式回答は十三日の朝になって到達した。この日までの日本の上層部の緊張と混乱は、筆舌につくし難いものがあった。激励にくるもの、威嚇するもの、甲論乙駁、私たちはその渦の中に捲きこまれ、一睡もしない日がつづいた。その後にやっと届けられた回答だったのである。
 回答は長文であったが、その要点は二つにつきていた。一つは、日本国天皇および政府の統治権は連合軍最高司令官の制限のもとにおかれる。二つは、日本国最終の政治形態は日本国民の自由なる意志によって決定せられる、というのである。
 この回答を議題にただちに最高戦争指導会議が開かれ、さらに閣議も午後になつて開かれた。首相をのぞく十五人の大臣のうち十二人までが(なかには多少不明確なものもいたが)回答にて満足すべき意見であった。ほかの三人の大臣は、この回答に満足して戦争を終結した場合は国体を護持することが困難なる事態に立到ることを惧れる旨の発言をし、むしろ死中に活を求めて抗戦すべきであるという意見だった。またしても意見は二つに分れ、閣満決定をみることはできなかった。
 十三日の午後になると、米国側の新聞放送には、日本の回答遅延を責め、不誠意をなじる声が現れてきた。情勢はますます逼迫したが、日本の進路はなお客易には決まらないのであった。
私は睡眠の徹底的不足とまったくの食欲不振のために、肉体的には極度に疲労してしまりた。しかし、精神力と意思力とをもちこたえ得たのは、去る九日の御前会議において拝した龍顔と玉音とを思い起すことによってである。さらに鈴木首相のいつに変らぬ温容と悠然たる挙措に接することによってである。総理は激さるることなく、また冷然たることなく、明快に大方針を示された。「水夫(カコ)どもは唯一筋に仰ぐなりわが船長(フナオサ)の面如何にと」と
でもいった心境で、暴風雨の中に、私たちは首相を中心に乗切ったのである。
 かくて八月十四日を迎えた。早朝、首相は私と打合せを終えるとすぐ参内され、経過を陛下にご報告申上げた。そして首相が官邸に帰ると間もなく、全閣僚および参謀総長、軍令部総長、平沼枢密院議長にただちに参内するよう陛下よりお召しがあったのである。最高戦争指導会議の幹事たる内閣書記官長以下四名も、ともに参内すべき旨であった。
折よく閣議の予定をもって全閣僚は首相官邸に集っていたが、同衣服を改める暇なきため、特にお許しをうけて平服のまま参内し、前回の御前会議と同じ宮中地下防空壕の一室に参集したのである。間もなく陛下がお席につき、ここに前例なきお召しに基づく御前会議が開かれることになったのであった。十時五十分である。
会議はまず、首相による前回の御前会議以後の経過報告にはじまり、参謀総長、軍令部総長および陸相より、「先方の回答は甚だ不安にして、わが国の最後の一線たる国体護持も困難なるごとく思われる。もし改めて連合国側に対して問合せをなすことを得るならば、これを確かめたい。もしそれが不可能ならば、かくのごとき不安なる状況において戦争を終結するよりも、むしろ死中に括を求め戦争を継続すべきと思う」旨の、それぞれが声涙ともに下る切論があった。
 無気味な静寂がしばし流れた。やがて、陛下が口を切られた。
 「ほかに意見がないならば私が意見をいう。私の意見は去る九日の御前会議に示したところと変らない。先方の回答もあれで満足してよいと思う。」
 陛下はしばらくお言葉を切られ、純白の手袋をはめられたお手にてお眼鏡を拭われていたが、また言葉をつがれた。
 「私自身は如何になろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国は全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、私としては忍びない。少しでも種子が残りさえすれば、また復興という光明も考えられる」と。 また、こうも仰せられた。
 「この際、自分の出来ることは何でもする。国民はいま何も知らないでいるのだから突然このことを聞いたら定めし動揺すると思うが、私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。ことに陸海軍将兵は非常に動揺するであろう。陸海軍大臣がもし必要だというのならば、自分はどこへでも出かけて親しく説き諭してもよい。
列席者一同は陛下のお言葉のはじまると間もなく、ただ慟哭するのみであった。私は、自分は常に国民とともに再建に努力する、とも仰せられた時には、敗戦という悲しみを越えて、新日本の黎明をすら感じた。いまほど、陛下をわれら国民の中に拝したことはない、陛下はわれわれの陛下であり、そのお言葉のとおり陛下は国民と共にあられるのだ、と閣僚一同は御前を退下した後に語り合うのであった。
 午後一時より閣議が開かれ、聖慮のとおりを閣議決定とした。ついで私が主任となって終戦の詔書の草案起草に着手した。実は、終戦に関してはその詔書の起草を政府にご下命あるべきを察して、去る九日の御前会議のお言葉をそのまま基礎として一案を草していたのである。それをさらに本日のお言葉をもって修訂増補し、用語、表現、体裁を整えて起草を了し、閣議の承認を経て陛下のご前に提出した。すでに午後九時を過ぎていた。
 こうして午後十一時、大詔は換発せられ、ただちに連合国に対しポツダム宣言を受諾する旨通告して、ここに大東亜戦争は終ったのである。
 若き陛下と無私の老首相との君臣一如の関係は、実にわが国未曽有の国難に際し、国家の滅亡をその一歩手前で救ったのである。閣内においては、米内海相が簡明率直に所信を披瀝し、しかも断乎邁進されたことは力強い限りであった。阿南陸相は終始、戦争継続の方向にて熱烈な論を吐かれたが、しかしあくまで内閣の方針に従って最後の決定まで揮然たる一体に帰した。そして直後に真に武士らしき作法にて自刃されたのである。私は、その正々堂々の人格を、心から敬慕するものである。また東郷外相は終始強き信念を持し、比対論を排して毅然たるもののあったのも、まことに頼もしい所であった。
 あれから二十六年、鈴木首相も、米内さん、阿南さん、そして東郷さんもいまは亡い。
最後の御前会議に列席したもの二十四人のうち、今日なお生あるものは私を含めてわずか五名という。往事茫々、すべては夢幻のごとき時の流れの速さだが、私にはなお昨日のことのように想い出されるのである。
 終戦時、内閣書記官長
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