怒りのブログ

社会批判を深める

人の死という装置(首相の靖国参拝はあたりまえか②)

2006-08-23 03:27:51 | 靖国問題

先日(8月17日)の記事のなかの、「(日本の引き起こした戦争がやむにやまれるものだったかという)この問題だけを論じたときには国民のかなりの部分が『そうは言い切れない』という立場をとるのだと思う。しかし先述の「感情」の問題に接するとき、このことはなぜか後景に退いてしまう。」について。それではなぜなのか。

最近の映画やテレビドラマで主役、準主役の死をあつかったものが多いと感じているのは私だけだろうか。そんなに多く見ているわけではないが、「世界の中心で、愛をさけぶ」や「僕の生きる道」などは評判になっていたので私も見た。「人の死」はいつの時代にも、映画やドラマの重要な主題の一つであるし、死と真剣に向き合うときに感銘を与える作品ともなる。しかし集客や視聴率を稼ぐためにこうしたテーマを選んでいるとしたら見させられている方も考えなければならない。
思うに、恋人の死などをストーリーのなかに配置すると、そこから自ずから決まってきてしまう要素があり、泣かせどころなどももってきやすいということがあるのではないか。そこでは「人の死」が一つの装置になっている。

死を覚悟して戦闘に突入していった兵士たちには圧倒的な「『国』のためにすすんで血を流せ」という雰囲気の中で他の選択の余地もなかっただろう。この行為はしかし、「お国のため」というだけで尊いもののようにも思えてくる。さらに遺族にとっては肉親の死というもっとも悲しむべきことを償うものとしてそれが『国』という大きな価値のための犠牲と考えることは救いだったに違いない。死んでも靖国神社に祀られるということがどんなに大きな慰めとなっていたかが想像できる。『国』のために戦って亡くなった人のみを祀る靖国神社は巨大な戦争動員装置となっていたのである。
1985年に靖国神社公式参拝を強行した中曽根首相は、靖国神社の意味を「さもなくばだれが国に命をささげるか」と表現したが、『国』の側からの考え方をよく表している。

はじめにもどるが、『国』のためとされた「人の死」がそれだけで尊いという感情によって戦争の目的が不問に付されてしまうことがあってはならないのだと思う。それは、他国に攻め入った行為の目的がなんだったのか、よくよく考えてみなければならないということを意味する。

よくよく考えるとは、イラク戦争に引きつけて言えば、「イラクが大量破壊兵器を隠し持っているから」などと言って始めたイラクへの侵攻が、またそれを支持して支援した日本のとった行動が(大量破壊兵器はなかったと結論づけられた今)、どうだったのか深く反省するということだ(当然のことだが!)。

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