パリへ−洋画家たち百年の夢
黒田清輝、藤島武二、藤田嗣治から現代まで
2007年4月19日から6月10日
東京藝術大学大学美術館
ようやく表記に行ってきました。
お目当ては、何といっても山本芳翠「浦島図」(1893-95, 岐阜県立美術館)日本経済新聞の日曜版で4月に見て、期待していた作品。パリから帰ってきた山本は不遇だったという。そのパリから帰った山本自身を浦島太郎に見立てて描いたという作品。山本自身を支えてきた半身ヌードの女性達の明るい表情、煌びやか衣装、遠くに霞んでいるのはトラカデロ宮だという。パリでの生活は夢だった。ジェロームにアトリエにいたということで「浦島図」も古典派、ロマン派的薫陶を受けた作品に仕上がっています。山本芳翠「猛虎一声山月高」(1893-95,東京芸術大学)は、暗い画面に猛虎を描く。「猛虎一声山月高」は山本芳翠自身の心境だろうか。
明智町HP(所蔵品 画像あり)によれば、山本芳翠(1850−1906)は岐阜県明智町生まれ、明治9年(1876)、東京の工部美術学校で学び、1878年、28歳でパリ万博事務局雇としてフランスに渡り、パリ美術学校教授ジェロームのアトリエに入って洋画を本格的に学んだ。1887年、帰途の渡欧中の作品を多く積み込んだ巡洋艦「畝傍」が行方不明となり、彼の作品多数が海の藻屑と消えてたという。
さて、展覧会は、画家になることを山本芳翠と林忠正の勧められ、ラファエル・コランに師事した黒田清輝「婦人像(厨房)」(1892、東京藝術大学)で始まる。村娘マリア・ビヨーがモデル。そういえば、ブリジストン美術館で拝見した黒田清輝「針仕事」(1890)(「雪舟からボロックまで」にて拝見、画像)、黒田清輝「マンドリンを持てる女」(1891)(東博にて2007/2/14-5/6展示, 記録)、白洲正子さんの実家の食堂に飾ってあった黒田清輝「読書」(1891年、東京国立博物館、NHK日曜美術館30周年展で拝見、記録)(ソシエテ・デザルティスト・フランセのサロン入選、1891)も在フランス中の作品だった。さらにパネル展示されていたのは、空襲で焼失した「朝妝」(ちょうしょう)(1893)。フランス公使野村靖の援助を得てモデルを使い制作。 1893年ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールに入選。1893年に帰国後、1895年第4回内国勧業博覧会審査員となり「朝妝」出品。所蔵者は前フランス公使内務大臣野村靖、黒田は審査員ということで敢えて出展したらしい。裸体画問題おこる。作戦勝ちだったという。西園寺公望の斡旋で住友家に引き取られた。とのこと。
なお、フランスのサロンは1881年から民営化されソシエテ・デザルティスト・フランセ、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(シャヴァンヌらが中心になり創設)に分裂。さらに無審査のサロン・デザンデバンタンもできた状況下で、黒田清輝は3つのサロンに出品を果たして1893年に帰国したとのこと。
黒田清輝が帰国後描いたのが以前見た「舞妓」(1894)(東京国立博物館、記録)やこの展覧会の後期でも展示される「湖畔」(旧 東京文化財研究所 黒田記念館*、1897、画像)。後者は、最近も東京国立博物館での特集展示 黒田記念館 黒田清輝の作品展示 I にて拝見。黒田清輝「智・感・情」(1897−99、旧 東京文化財研究所 黒田記念館*、画像)が展示されていた。以前見た時はよくわからなかったが、この展覧会での黒田のヌードを比較してみれば「智・感・情」は仏像、三尊像的作品で大変東洋的です。SEIKI-KOURODAと署名されていた。フランス語ですね。1897年に白馬会第2回展に「智・感・情」「湖畔」、1900年にパリ万国博覧会に「智・感・情」「湖畔」など5点出品。銀賞を受賞。*独立行政法人国立博物館と独立行政法人文化財研究所の統合されたため、現所蔵は東京国立博物館。
このときパリ再度訪問しでコランに再開し、作品に対してコメントされたらしい。この渡仏時に制作された裸体画が黒田清輝「裸体夫人像」(1901)(静嘉堂文庫、画像)、第6回白馬会に出展されたが、第二裸体画問題をおこし、下半身を布で覆って展示された。という。さらに、帰国後に描かれた師のコランの作品そっくりの黒田清輝「野辺」(1907、第11回白馬会出品、ポーラ美術館、画像))も展示されていた。
黒田清輝「鉄砲百合」(1909)(第3回文展出品(1909年)、石橋財団石橋美術館)も展示されていた。日本印象派の金字塔的作品とのこと。「雪舟からボロックまで」でも拝見しているはずだが、今回このように展示されて、到達点としてのこの作品がよくわかった。
画家的には悩んで画風がころころ変ったが、どちらにしろ、黒田はやはり薩摩藩出身ということで東京美術学校で職を得て人生的には成功者。比較すると、山本芳翠は不遇だった。
黒田の師のラファエル・コランの作品は、「自画像」(1882)、古代の詩人ロンゴスの物語詩ダフニスとクロエを題材とした「田園恋愛詩」(1882)、「フロレアル(花月)習作」(ca.1886)、「静寂」(1903)(いずれも東京藝術大学所蔵)が展示されていた。
和田英作、藤島武二、安井曾太郎、梅原龍三郎の作品が並ぶ。
佐伯祐三の作品が各地から集められていた。
「オーヴェールの教会」(1924)鳥取県立博物館、「靴屋(コルドリヌ)」(1925)(茨城県近代美術館)、「滞船」(1926)(尾横浜美術館)、「広告塔」(1927)万代島美術館、「パンテオン寺院」(1928)(万代島美術館)
前田寛治の作品に目がいった。
「メーデー」(ca.1924)(個人蔵)はともかく、マッシブな女性を描く「ブルターニュの女」(1925)(個人蔵)、「裸婦」(1928)(神奈川県立近代美術館)は、魅力的。
(20日)
黒田清輝、藤島武二、藤田嗣治から現代まで
2007年4月19日から6月10日
東京藝術大学大学美術館
ようやく表記に行ってきました。
お目当ては、何といっても山本芳翠「浦島図」(1893-95, 岐阜県立美術館)日本経済新聞の日曜版で4月に見て、期待していた作品。パリから帰ってきた山本は不遇だったという。そのパリから帰った山本自身を浦島太郎に見立てて描いたという作品。山本自身を支えてきた半身ヌードの女性達の明るい表情、煌びやか衣装、遠くに霞んでいるのはトラカデロ宮だという。パリでの生活は夢だった。ジェロームにアトリエにいたということで「浦島図」も古典派、ロマン派的薫陶を受けた作品に仕上がっています。山本芳翠「猛虎一声山月高」(1893-95,東京芸術大学)は、暗い画面に猛虎を描く。「猛虎一声山月高」は山本芳翠自身の心境だろうか。
明智町HP(所蔵品 画像あり)によれば、山本芳翠(1850−1906)は岐阜県明智町生まれ、明治9年(1876)、東京の工部美術学校で学び、1878年、28歳でパリ万博事務局雇としてフランスに渡り、パリ美術学校教授ジェロームのアトリエに入って洋画を本格的に学んだ。1887年、帰途の渡欧中の作品を多く積み込んだ巡洋艦「畝傍」が行方不明となり、彼の作品多数が海の藻屑と消えてたという。
さて、展覧会は、画家になることを山本芳翠と林忠正の勧められ、ラファエル・コランに師事した黒田清輝「婦人像(厨房)」(1892、東京藝術大学)で始まる。村娘マリア・ビヨーがモデル。そういえば、ブリジストン美術館で拝見した黒田清輝「針仕事」(1890)(「雪舟からボロックまで」にて拝見、画像)、黒田清輝「マンドリンを持てる女」(1891)(東博にて2007/2/14-5/6展示, 記録)、白洲正子さんの実家の食堂に飾ってあった黒田清輝「読書」(1891年、東京国立博物館、NHK日曜美術館30周年展で拝見、記録)(ソシエテ・デザルティスト・フランセのサロン入選、1891)も在フランス中の作品だった。さらにパネル展示されていたのは、空襲で焼失した「朝妝」(ちょうしょう)(1893)。フランス公使野村靖の援助を得てモデルを使い制作。 1893年ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールに入選。1893年に帰国後、1895年第4回内国勧業博覧会審査員となり「朝妝」出品。所蔵者は前フランス公使内務大臣野村靖、黒田は審査員ということで敢えて出展したらしい。裸体画問題おこる。作戦勝ちだったという。西園寺公望の斡旋で住友家に引き取られた。とのこと。
なお、フランスのサロンは1881年から民営化されソシエテ・デザルティスト・フランセ、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(シャヴァンヌらが中心になり創設)に分裂。さらに無審査のサロン・デザンデバンタンもできた状況下で、黒田清輝は3つのサロンに出品を果たして1893年に帰国したとのこと。
黒田清輝が帰国後描いたのが以前見た「舞妓」(1894)(東京国立博物館、記録)やこの展覧会の後期でも展示される「湖畔」(旧 東京文化財研究所 黒田記念館*、1897、画像)。後者は、最近も東京国立博物館での特集展示 黒田記念館 黒田清輝の作品展示 I にて拝見。黒田清輝「智・感・情」(1897−99、旧 東京文化財研究所 黒田記念館*、画像)が展示されていた。以前見た時はよくわからなかったが、この展覧会での黒田のヌードを比較してみれば「智・感・情」は仏像、三尊像的作品で大変東洋的です。SEIKI-KOURODAと署名されていた。フランス語ですね。1897年に白馬会第2回展に「智・感・情」「湖畔」、1900年にパリ万国博覧会に「智・感・情」「湖畔」など5点出品。銀賞を受賞。*独立行政法人国立博物館と独立行政法人文化財研究所の統合されたため、現所蔵は東京国立博物館。
このときパリ再度訪問しでコランに再開し、作品に対してコメントされたらしい。この渡仏時に制作された裸体画が黒田清輝「裸体夫人像」(1901)(静嘉堂文庫、画像)、第6回白馬会に出展されたが、第二裸体画問題をおこし、下半身を布で覆って展示された。という。さらに、帰国後に描かれた師のコランの作品そっくりの黒田清輝「野辺」(1907、第11回白馬会出品、ポーラ美術館、画像))も展示されていた。
黒田清輝「鉄砲百合」(1909)(第3回文展出品(1909年)、石橋財団石橋美術館)も展示されていた。日本印象派の金字塔的作品とのこと。「雪舟からボロックまで」でも拝見しているはずだが、今回このように展示されて、到達点としてのこの作品がよくわかった。
画家的には悩んで画風がころころ変ったが、どちらにしろ、黒田はやはり薩摩藩出身ということで東京美術学校で職を得て人生的には成功者。比較すると、山本芳翠は不遇だった。
黒田の師のラファエル・コランの作品は、「自画像」(1882)、古代の詩人ロンゴスの物語詩ダフニスとクロエを題材とした「田園恋愛詩」(1882)、「フロレアル(花月)習作」(ca.1886)、「静寂」(1903)(いずれも東京藝術大学所蔵)が展示されていた。
和田英作、藤島武二、安井曾太郎、梅原龍三郎の作品が並ぶ。
佐伯祐三の作品が各地から集められていた。
「オーヴェールの教会」(1924)鳥取県立博物館、「靴屋(コルドリヌ)」(1925)(茨城県近代美術館)、「滞船」(1926)(尾横浜美術館)、「広告塔」(1927)万代島美術館、「パンテオン寺院」(1928)(万代島美術館)
前田寛治の作品に目がいった。
「メーデー」(ca.1924)(個人蔵)はともかく、マッシブな女性を描く「ブルターニュの女」(1925)(個人蔵)、「裸婦」(1928)(神奈川県立近代美術館)は、魅力的。
(20日)










去年からこちら、明治の黎明期の洋画を多く見る機会に恵まれてきましたが、いい展覧会でした。
好きな作品が多かったのも嬉しいことでした。