行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

ひよっこの舞台赤坂も戦場だった

2017-08-16 22:14:13 | Weblog
毎年終戦記念日になると、第二次世界大戦の資料が新たに出て来る。今回の放送では、日本全土の空襲の記録とインパール作戦が強烈な印象を残した。空襲では日本国民全体が米軍の敵とみなされたこと、日本軍兵士の大部分は餓死によるものだったことを再認識した。多くの若者は無責任な作戦の元、引き返すことも降伏することもできず餓死して異国の地に果てた。
 
1945年5月25日、朝ドラの舞台赤坂一帯は激しい米軍の空襲に遭った。当時、父が出征した後、母と私は元赤坂の実家に身を寄せていた。当時28歳の母は2歳の私をおぶって焼夷弾の降る中を、逃げ延び九死に一生をえた。ここで焼夷弾にやられていたら、私を含め弟も妹も孫達もいなかったわけだ。
 
102歳になる母の自分史から赤坂大空襲の様子を再現してみると、
「空襲警報がなり、着の身着のまま元赤坂の実家を出て、赤坂見附の弁慶橋につく頃は焼夷弾が雨あられと落下する状態となり、お堀に入り水を掛け合う人や赤坂東急ホテル(当時はなかった)裏の横穴式防空濠に入る人など火の海の中を逃げ惑った。母は私を背負い、永田町方面へ坂を上がり、奇跡的に焼夷弾に当たらず永田町の小学校(当時)へ逃げ込んだ。小学校は海軍が守っており、延焼は免れ、九死に一生を得た。坂下の赤坂の街は焼き尽くされ、実家の焼け跡には鉄瓶だけが残っていた。伯父一家は弁慶橋の下で難を逃れ、横穴式の防空濠に逃げ込んだ人は火の中で蒸し焼きになり犠牲者となった」
その後、私たち親子は館林へ疎開し、終戦を迎えた。
 
戦没者追悼式 天皇陛下のお言葉
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に72年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

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