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【会津野】ある会津人の生い立ち

2016年10月28日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

先日来読んでいる、ある会津人の生い立ちがあまりにもスゴイので、今日はそれを紹介します。

誰のことだか想像しながら読んでみてくださいませ。

★ ★ ★

1932年(昭和7年)9月9日、東京府荏原郡玉川村(現・世田谷区奥沢)に生まれる。父、隆吉、母、チヨ。父は同盟通信社の政治部記者をしており千葉の地主でもあった。母は、看護師で東北大学聴講生として医学を学んだ才女。兄弟姉妹はなく、ひとりっ子だった。

1935年(昭和10年)3歳。父は、厳格を絵に描いたような性格であった。母を、「お母さま」と呼んで育つ。

1937年(昭和12年)5歳。父、亡くなる。都内を転々とした後、母の実家のある福島県河沼郡柳津村(現・柳津町)に転居。母方は、会津の士族であった。会津では、薩長を見たら敵と思えという精神が当時も残っていた。そのような環境の中で育つ。

1939年(昭和14年)7歳。4月、柳津尋常小学校入学。小学校時代の愛読書は「少年講談」。その影響で、「征夷大将軍」になりたいと思う。そして、実際に身体がズバ抜けて大きかったこともあり、ガキ大将となって「征夷大将軍」を自称、クラス全員の禄高を決めた。加増からお家断絶まであった。刑罰には、蛇責めの刑、掃除箱の刑などがあった。組織化するのが大好きな、社会的ガキ大将だった。

1940年(昭和15年)8歳。4月、柳津尋常小学校2年生。

1941年(昭和16年)9歳、4月、柳津尋常小学校は柳津国民学校へ改称。柳津国民学校3年生。

1942年(昭和17年)10歳。4月、柳津国民学校4年生。

1943年(昭和18年)11歳。4月、柳津国民学校5年生。

1944年(昭和19年)12歳。4月、柳津国民学校6年生。この頃、男組の番長だった。あるとき、男組と女組との番長戦となった。結果、女組の番長にぶっ飛ばされて負けた。実は、女組の番長に淡い恋心を抱いていた。しかし、「俺のことをぶっ飛ばすような女とつきあえるか」と思って、あきらめた。復員兵が可愛がっていた猫をトラバサミにかけて掴まえ、食べてしまった。それを知って激怒。返り討ちとばかりに、その復員兵をトラバサミにかけて捕らえ、鉄棒で襲いかかって半殺しにする。

1945年(昭和20年)13歳。3月、国民学校を卒業。4月、旧制中学校であった会津中学校に入学。1年6組。同窓に渡部恒三(後に政治家)、渡部喬一(後に弁護士)がいる。会津若松市内の伯母のもとに預けられ、母は千葉県で看護師として働く。

1946年(昭和21年)14歳。4月、会津中学校2年生。天才少年ぶりを発揮。同級生が代数幾何で苦しんでいる頃、微分積分を理解し、同級生がABCに毛が生えた程度の英語で四苦八苦している頃、ウエブスターをひいて「ライフ」を読む。この頃の愛読書は、高木貞治「解析概論」。一番の特技はケンカだった。

1947年(昭和22年)15歳。4月、会津中学校3年生。ケンカや遊びに明け暮れる毎日を送った結果、中間試験で数学の点数がひどく悪かった。そのため、先生に呼び出されてさんざん説教される。しゃくにさわり、真面目に勉強した。学期末試験では試験時間の3分の1で全問解答し終えた。そこで答案用紙を提出して出て行こうとしたところ、先生から一言、「コラッ!できなくたって考えるくらいはしろ」。しかし、答案を見たとたん先生は青くなり「悪かった、百点だ」と誤った。これを痛快に感じ、以降、真面目に勉強するようになった。

1948年(昭和23年)16歳。3月、会津中学校卒業。4月、受験なしで新制高校の会津高校に入学。入学式に紋付羽織袴で臨み、皆に笑われた。教師の小林貞治が「目立つことをするな」と叱ると、「それはおかしい。本来なら親同伴で臨むべきところ自分は生徒だけだからと思って父のものを借りてきたのであって、笑うほうが間違っている」と論理的に反論した。会津高校同窓に、渡部恒三、渡部喬一がいる。高校時代から金銭感覚は欠落していた。授業料に充てるべき奨学金をすべて本代に使い、食べるものも食べないで読書した。そのため、授業料滞納で退学予告通知を受けたこともあった。そんなときは、教師の小林が彼の読み終わった本を買い上げ、授業料とした。また、マントを売って本を買い、冬の間マントなしで震えながら通学した。授業中は腕組みをし、ほとんどノートをとらないで記憶した。高校1年で、3年までの教科書を全部読み終える。数学と英語はズバ抜けて優秀だった。しかし、絵画と音楽は全くダメだった。体育もからきしダメだったが、ケンカはめっぽう強かった。相手が自転車のチェーンを振り回してきても、常に素手で戦った。ケンカ相手が多く、一度にケンカすることができないため、今日は誰、明日は誰と登録し、狙ってケンカした。鶴ケ城本丸がケンカの舞台だった。この頃の愛読書は、英雄たちの伝記。ヒトラー、ナポレオン、シーザーアレキサンダー大王、ダビデ王など、善悪の評価はともかく、時代の変革に挑んだ英雄を好んだ。

1949年(昭和24年)17歳。4月。会津高校2年生。高校2年までで、大学生レベルの数学や物理学を独習する。この頃、ホイッテーカー「解析力学」を読み、自然現象のエレガントな分析に感動。理論物理学の世界に魅かれた。彼の天才ぶりは伝説になるほどであった。「野口英世の再来」ともいわれた。この都市、湯川秀樹がノーベル賞をとったこともあり、周囲からは「湯川さんがノーベル賞をとったので野口英世の名声が少し落ちた。会津人としては面白くない。今度はお前がノーベル賞をとってこい」といわれた。この頃、彼は級長に推薦されそうになった。そこで彼は条件を出した。1つ、級長になったら俺のことを「キング・オブ・キャットランド」と呼ぶこと。1つ、王(キング)の命令には絶対服従すること等。しかし、その場で拒否され、級長にはなれなかった。高校2年のとき、預けられた伯母の家が貧乏だったこともあり、退学寸前に至る。そこで、渡部恒三の口利きで、渡部の父親の友人、弁護士の岩崎光衛宅に書生として住み込む。住所は福島県会津若松市栄町1丁目。彼は渡部から「これから岩崎先生のお世話になるのだから、家の掃除をするとか、庭に水をまくとか、一生懸命仕えないとだめだ」と言われた。その翌日は雨だった。しかし、彼は渡部の助言に従って庭に出て、一生懸命水まきした。彼は世間知らずであったが、無邪気でスレたところがなく、なによりも熱心に勉強した。独学で弁護士になった岩崎は、そんな彼を息子のように可愛がった。彼を養子にしてもよいと考えていた。この頃、岩崎光衛や会津日報社の社長だった鈴木忠助らの呼びかけで、彼の後援会が結成された。後援会による彼への援助は、彼が大学3回生になる直前まで断続的に続いた。

1950年(昭和25年)18歳。4月高校3年生。卒業が近づき進路指導がはじまった頃のこと。彼は「大学へは行かない。磐梯山の麓に庵を結んで諸葛孔明のように三顧の礼をもって首相に迎えられるまでは動かない。首相になったら新憲法を数年間停止して、独裁政治をやる」と言って教師を困らせた。

1951年(昭和26年)19歳。この頃、大学受験のために受けた進学適性検査の成績が振るわず、東京大学は足切りになった。彼は京都大学理学部を受験し、合格。3月、会津高校を卒業。高校最後の日の夜、月に照らされながら、渡部恒三と2人、白虎隊の自刃した飯盛山に登る。2人は「君は大臣に、オレは世界的学者に」と誓い合う。彼は渡部への友情の記念として贈った原書に、英語で「プライム・ミニスター・コウゾウに贈る」と書き、日本語で「源朝臣XX」と署名した(長谷川注:XXは本人の名前)

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ずいぶんと長く引用しましたが、この後、彼は京都大学に進み、学者人生がスタートします。ただ、その後も山あり谷あり。2010年9月に亡くなるまで、後進の学者を育てることに力をつくし、現在第一線の研究者たちを排出した功績を持ちます。

さあ、誰なのかは次回のエントリーに書くことにします。

次回のエントリーはこちら→【会津野】小室直樹の世界

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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