おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。
「過剰包摂」。先日はじめてこんな言葉を聴きました。
私が、システムエンジニアをしていたときのこと。システム設計にそぐわない行動(入力)をユーザをとるとシステムは対応できず、フリーズしたり暴走したりと、おかしなことになるのをよく経験しました。それを防止するためには、入力可能なものをあらかじめ定め、それ以外のものを排除する設計を加えるのが常道でした。
これは、社会にたとえると、「排除型社会」と言えるでしょう。ちょっと前のITでは、さまざまなところに、こういう「排除」が存在します。
しかし、1億総スマホ化も近くなってくると、排除されてしまう人々も、ITが生活に密着してきます。すると、システム側も排除を緩め、多様なデータ入力を許すようなシステム設計に変わってきました。いまのシステムは、すべてのユーザを包摂するシステム設計は、過剰なほどに対応力を増してきています。
この現象は、排除されていたと思う人がいなくなるという、一見、良いことが起きているように見えます。
ただ、これはシステムでの話で、実際の人間社会では、大きな格差が存在することからわかるように、まだまだ排除型社会は根強く存在します。
排除される層は、排除されないITを身近に使うことで包摂されているように感じ、実際の排除を感じないことが起きる。
こんな状況を、過剰包摂と言います。
さて、どんどん開発が進む「人工知能」。人工知能は、システム開発の延長線上にあると考えられるので、多様なデータに対応できる思想を持ちます。
人々は、これから人工知能に接する機会がどんどん増えていくことが予想されます。リアルなヒトには相手にされず排除される場合でも、人工知能は相手をします。あまりにもおかしな要求をすると、人工知能がフリーズすることもあるかもしれませんが、それでも排除をするようなことはないでしょう。
でも、どうなんでしょう。生身なヒトが、リアルな人には相手にされず排除され、人工知能に包摂されていく。
これって、ものすごくさびしいことのような気がします。
「食」の生産や流通のことを考えると、たとえば肉では、牛や豚を育てる農家は経済上の理由からどんどん集約化され、外部からは見えにくい変化がずっと続いています。これは、まず生産地である農村で、こういう「見えない化」が進んでいます。そして、家畜を屠畜して、肉製品にするという行程も、大消費地である都市の郊外へと屠畜場を移し、都市内では「見えない化」していく動きが続く。
狩猟採集型社会から、家畜を育てることを含む農村定住社会へ、そして、都市型社会へと移ってくる際には、ヒトと言う生き物が中心にいて、ヒトを排除される対象とはしなかったけれど、いま進んでいる第四次産業革命では、ヒトの排除が「見えない」うちに進んでいく。
排除されないヒトとなるには、どうしたら良いのだろうか?
いつ何時でも「気づかないうちに排除される」という感覚を持ち、リアルな人とのコミュニケーションを、リアルな場で取り続けるしかないのであろうか。
「過剰包摂」という思想。知っているのと知らないでは、生き方に大きな差が出てしまう気がしてきました。
今日も素敵な一日を過ごしましょう。
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