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【会津野】六斎市で7日に市が立った町と七日町の違い

2016年12月23日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

先日、会津若松の六歳市について調べておりましたら、あいばせというページを見つけました。

会津若松観光ビューローが、教育旅行(修学旅行)誘致のために公表しているものですが、ここに、安土桃山時代(1573〜1603)に六斎市の記述があります。

「当時の若松には6ヶ所に市(いち)がたっていた。大町は5と10の日、馬場町は1と8の日、本郷町は2と7の日、三日町は3の日、桂林寺町は4と9の日、六日町は6の日というように、毎日どこかで必ず市がたつように定められていた。」

このうち、「本郷町」という町名は、現在の会津若松市にはありません。会津美里町には本郷という地名がありますが、まさか大川を隔てた反対側の地で市がたっていたとは思えません。

さらに調べてみると、1561年まで会津藩を治めていた葦名盛氏は、その年に家督(家督とは、家父長制の家長権をいう)を盛興に譲り、向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)に隠居します。向羽黒山城は、現在の会津美里町本郷地区に城跡が存在します。隠居と言っても、実際には院政を敷き、向羽黒山城から会津藩を操ります。いずれ、当時黒川城と呼ばれた鶴ケ城城内に戻ります。その際、本郷(会津美里町)の商工業者たちを引き連れて行き、黒川城下に本郷町という地区が出来ます。さらに、若松の城下が形成される(1592年〜1595年)になると、外堀の外側となる現在の行仁町あたりに本郷町が移されました。

会津若松の六斎市の2と7の日は、この行仁町あたりで、本郷の商工業者たちが、安土桃山時代の末期頃、市を開いていたという事実がわかりました。

7と言えば、他に七日町という地名があります。ここは、いまでも市内の主要な商業地区です。やはり、7日に市が立っていた記録がありますが、それは、六斎市が始まる以前からのことで、仏教思想の六斎日にお参りするのに合わせ市が立った「六斎市」とは異なります。

七日町は宿屋が集まって居る場所としても知られ、17世紀中頃には14軒、江戸時代末期の1845年には30軒、明治元年の1868年には33軒の宿屋が店を開いています。

若松風俗帳によると、もともと宿屋の多かったこの町に、7日の市が立ったから七日町と名附したとあります。安土桃山時代より前から、諸国往来の旅人たちが宿をとる、そんな街だったのだろうと想像を膨らませました。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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