石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た最新の会津の歴史です

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戊辰・会津戦争8 容保公会津に帰る

2017年05月11日 | 戊辰・会津戦争

「容保公会津に帰る」

  会津古城研究会長 石田明夫   
                  

 西軍は、慶応四年(1868)1月16日、秋田藩主の佐竹氏、翌日には『仙台藩史』によると仙台藩主の伊達氏に対し、会津藩などの征討を命じています。同日、容保公は、鳥羽伏見の負傷者が集まっていた江戸の三田会津藩下屋敷に見舞いに行きました。20日には、徳川慶喜(よしのぶ)が見舞いに来て、その時、大坂城から退却したことを攻めた家臣がいたという。
 2月12日慶喜は、恭順の意を表すために、江戸城を離れ、上野の寛永寺大慈院に移ります。翌日、会津藩家老の神保修理は、江戸の会津藩下屋敷で、大坂城より将軍と容保公が大坂城を出たことを責めたことに対し、切腹を命じられています。その悔しさの和歌は
「帰りこん時 親のおもうころ
  はかなきたより きくべかりけり」
と「親のおもうころ」と残されています。
 同日、西郷頼母は、江戸を出発したのです。
16日容保公は、福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)に、恭順、謹慎、沙汰を待つことを記した朝廷への謝罪状を託し、江戸の上屋敷和田倉邸(東京駅から西へ皇居入る和田倉門脇)を出て会津へ向いました。また、この日容保公は、藩士にフランス式軍事教練を命じ、江戸小川町で訓練をしています。そして、梶原平馬らは、横浜でプロシアのスネル兄弟から小銃や大砲を購入しています。18日から3月1日の間、会津藩士と家族が江戸を離れています。
22日容保公は、会津へ到着し『諸月番申渡書』によると、27日には家臣に対し、「薩長(薩摩・長州)二藩は、私怨を酬いろうとして王師(天皇)の名を借りて、兵を我に加えようとしていると忠告があり、非常に備えよ」と、非常事態宣言をしました。

写真は東京「会津藩下屋敷跡、三井倶楽部庭園」

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