石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争6 鳥羽伏見の戦い

2017年05月06日 | 戊辰・会津戦争

「鳥羽伏見の戦い」

  会津古城研究会長 石田明夫   

 王政復古が一般に発令された慶応3年(1867)12月9日、『京都守護職始末』によると、将軍徳川慶喜(よしのぶ)と松平容保公らは、12日に京都を離れ、会津藩士や桑名藩士を率いて大坂城へ避けました。しかし、旧幕府方には、政権を渡したことに反対する強硬派も多数いたことから、その年の11月に閉鎖されていた伏見奉行所へ終結したのです。そこには、会津藩や新選組も集結しました。また、会津藩は、慶応4年(1868)1月2日、伏見の東本願寺の伏見御堂に大坂から戻って援軍に来た約200人が集結しました。
 1月3日、旧幕府方は、薩摩藩の不届きな行動に対し、強硬派の強い要請により慶喜は、京都へ進軍を決め、それを阻止する西軍は、伏見の西、鳥羽の小枝橋でとうとう砲撃を開始し、鳥羽の戦いが始まったのです。そこから東約3キロに位置している伏見奉行所と、北の御香宮で対峙していた薩摩藩へも砲撃音が届き、薩摩藩の大山巌(いわお)が率いる大砲隊が、会津藩と新選組が居た伏見奉行所へ攻撃を開始し、伏見でも激しい戦いとなったのです。
 兵力は、薩摩藩を主力とする西軍が約5千人、旧幕府軍は3倍の1万5千人で、会津藩では、伏見の薩摩藩邸を攻撃しましたが、新鋭の武器で装備した薩摩藩らの激しい攻撃に会い、伏見奉行所は焼け落ちました。
 4日、突如、錦の御旗(みはた)の「錦旗」(きんき・長州藩の絵師に描かせたもの)が掲げられ、旧幕府軍の兵士は、朝敵になるのを恐れ、士気が大きく低下し、また、淀城にいた徳川譜代の稲葉正邦(まさくに)は、入城を拒否したことにより旧幕府軍は大敗したのです。この戦いで、山本(新島)八重の弟三郎は、6日、八幡の戦いで負傷し、江戸の会津藩中屋敷(汐留)へ送られ16日死去しています。

写真は京都「伏見奉行所跡」

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