読書の森

物語を読むのも書くのも大好きです。読書感想、創作、エッセイなど綴ってまいります。

時枝の旅立ち 最終章

2016-10-10 14:10:16 | 創作


帰国した功と時枝は同じ屋根に住んでも、ゆっくりと語らう機会が無かった。
富江に遠慮をしたのである。
朝晩の挨拶、気を遣いながらの食事、それでも愛し合っていると感じる事で救われた。
役所に入る勉強をする功と畑仕事や家事に精を出す時枝はお互いに心が通じ合うと思っていた。

婚儀の日、10月10日、二人は初夜を迎える。
時枝は激しく胸が震えた。
怖い様な甘哀しい様な不思議な気分だった。

昔の旧家は習わしで初夜に夫婦は挨拶を交わす。
桔梗柄の夜着のまま、時枝は同じく浴衣の功と向き合った。
「宜しくお願いします」
頭を深く下げた時枝の身体を待ち兼ねた功が抱いた。
「好きだ」
もどかしいらしく、功は性急に時枝の身体をまさぐる。
熱い炎が身体の中に入る苦痛、男の息の弾み、獣じみて時枝は歓びとは感じられない。
時枝は交合とは甘く優しいものかと想像していたが、苦しい程生臭いものだった。

「愛とはこのようなものか」時枝はそれでも功はずっと欲望を我慢していてくれたのだと自分に言い聞かせた。
時枝は優しく功の背中を撫ぜた。
功は時枝の中で安らいでいる。
いっときの幸せがあった。

その時だった。
ヒタヒタ、ヒタヒタ、忍ばせた足音が聞こえた。
足音は寝間の襖の前でピタリと止まった。
姑以外に考えられない。
廊下を伝って来たのだろうか?
時枝は身を硬くした
何も知らぬげに功は再び彼女と交わろうと身体を絡めてくる。

時枝には襖一枚隔てた富江の息遣いが聞こえる様な気がした。
更に酷い嫌悪感を営みそのものに感じた。

それは一晩だけの事で無かった。
昼間何食わぬ顔の富江が、夜になると生き霊の様に襖の陰で房事に耳をそばだてる。

日が経つに連れ、ふっくらと柔らかな顔立ちの時枝痩せた。
目鼻立ちが整っているので凄艶な感じになる。
富江は以前のおおらかさが失せしんねりとした目で時折時枝を睨むのである。



功が富江には全く無力な事、意外な程女に対して思いやりが無い事に気付いて、時枝は愕然とした。
毎日が針のムシロに居るのが堪れなかった。
狂い出しそうな気がする。

時枝は苦悩しながら、空襲の最中を思い出した。


名古屋の家に残った時枝と父は、燃え盛る街を逃げ回った。
プスプスと音を立て焼けこげる死体、美しい城も建物も全て崩れ去っていく。
あれは悪夢だった。

岐阜の大庄屋の実家も又針のムシロだったが、情け無い姿でも父がいた。
肉親が居るのは心丈夫と生まれて初めて時枝は気付いた。

やっと見つけた積もりのついの寝ぐらも、休む場所では無かった。
人の心は嫉妬によってこうも変わるのか?
男とはかくも無神経なものか?


幾晩も眠れぬままに時枝は考えていた。
考えた末に思い切った決心が生まれたのである。



功が役所の慰安会に出た暮れ方、富江も寄り合いに出ていた。

時枝は一張羅の泥大島の着物にモンペを穿いた。
背囊を背負う。
食料、へそくり、当面の着替え、母の形見の真珠の指輪が入っている。

行き先は土地勘のある名古屋、一人で生きていけるなら身を売る事以外どんなきたない仕事でもする気でいる。

己の若さで一人で生きられる事を確信していた。
それは何度でも修羅を潜った時枝の強みでもある。


時枝は裏のあぜ道に一歩踏み出す。
二度と振り返る事なく夕陽を浴びて、時枝は歩いていく。

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