読書の森

物語を読むのも書くのも大好きです。読書感想、創作、エッセイなど綴ってまいります。

濁流の果て その7

2017-05-11 10:22:58 | 創作


由紀子は殊の外悪阻に悩まされた。
ご飯を炊きながらその匂いが堪らなかく、吐き気を催す。
彼女は手洗いに飛び込みながら、帰ってくる雄三の為の食事を作った。

結婚前、彼女は近所でも評判の利発で美しい娘だった。
両親からも兄達からも可愛がられて育った。
唯一たった一人の弟の勝は彼女をクソミソに貶した。
「大人しい振りしてるが、ヒステリーで大変な暴君だ」
生意気な勝こそ我儘で勝手だと由紀子は思い込んだ。

目上のいう事は「はい、はい」と聞くし、真面目な由紀子は嫌われる事を極端に嫌った。
可愛がられて育った者の常として、人を可愛がる事が下手だった。
親のふんだんに与える小遣いが勝の存在によって減っていく事が我慢出来なかった。
彼女は自分の我儘さに全く気がつかない無邪気な娘だった。

終戦という時代の移り変わりの中で、従順な彼女は突如起きた縁談話が定めの様に受け止めた。
正直幼馴染めの青年達からの熱い視線を忘れてはいなかったし、まだまだ自由でいたかった。

しかし、小谷野という旧家の如何にも姿の良い一人息子は見た目が優しく素敵だった。
彼が後から後からプレゼントにくる豊富な食糧は、彼女に幸せな未来を約束するかの様だった。
親も勧めてくるし、彼女は深く考える事の無いまま若い妻となった。



結婚後驚いた事は夫の激しい愛情である。
最初は衝撃と驚きの連続だった肉の愛が、日を置かずして快楽に変わった。
結婚前に読んだロマンチックな物語が色褪せて思える程、その快楽が深かった。

彼女は欲しい物は何でも与えられるのに慣れていた。
戦争を挟んだ僅かな期間を除いて、愛情も物も望めば手に入るものと信じ込んでいた。

同時に、彼女は愛してくれる夫の下着を洗い、好物を作ることに喜びを感じた。
これが自分の愛情と信じた。
生活費は夫が渡してくれる。
彼女は二人の生活を彩る物を次々と買い求めた。
夫の裏の心を察する機転は無かったのである。

しかし、悪阻は彼女が初めて知る儘ならぬものだった。
お腹の子が憎いとさえ思う身体のしんどさ苦しみが我慢出来なかった。
由紀子はめっきり食欲が無くなり、頬が痩せ透き通る様な皮膚が凄艶に見えた。

彼女は心配する夫に譫言の様に叫んだ。
「上等なマグロのお刺身が食べたい」
雄三は困惑した。
海に遠いこの地で、とれたてのマグロの刺身を調達するのは至難の技である。
大変な金がかかる。

しかし、彼は理性よりも感情の勝つ男であったし、由紀子はこの世でもっとも大切な人間である。
ましてや彼女の腹の中に自分の子供が息づいているのだ。

彼はその時悪魔に魅入られた。
外の業者と手を結び会社の品物を横流しして、毎日マグロの刺身を彼女に提供した。
お陰で彼女の身体も心も安定した。
彼女は幼い頃父親に連れられて行った寿司屋のマグロが大好物だったのである。

しかし、雄三の犯した不正は容易に暴かれるものだった。
ある日、静かだった小谷野家に当局の手が回り、由紀子の見ている前で雄三は警察官に手荒くひったってられて行った。
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