愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

国歌「君が代」の意味・歴史・由来・役割を「想定外」に押し込めた「民主主義」

2012-01-17 | 日の丸・君が代

今日の「朝日」の以下の記事を読んで思うことを記してしておこう。

現場で対応 処分激減  反対者の欠席を黙認・規律不要な受付係に配置
 学校での日の丸・君が代への反対闘争はかなり沈静化している。国旗・国歌法が成立した1999年度から2010年度までに、掲揚や斉唱に反対して懲戒処分を受けた人数は、全国で延べ728人。03年度の194人をピークに減り続け、10年度は21入だった。  
当初は、日本教職員組合が「国民的合意がなく、強制は問題」と批判するなど各地に反発が広がった。教員の不起立は珍しくなく、日の丸を舞台袖に隠すように掲げる学校もあった。
だが、東京都教委が03年、君が代の起立斉唱や日の丸の掲揚位置などを詳細に定め、翌春の卒業式では、教職員の大量処分に踏み切る。式典会場に「監視役」の職員を派遣したり、処分を受けた教職員に研修を科したりして指導を強化。「違反」を繰り返す教職員には、減給➞停職と処分を重くした。
処分者の減少について、都教委幹部は「指導が理解を得た結果」と話すが、学校現場では、処分者を出さない「知恵」も生まれている。①掲揚や斉唱に反対する教員が自ら卒業式を欠席する②学校側が反対する教員に会場の受付係や駐車場の整理係を任せ、起立斉唱を避ける―などだ。
 都教委幹部は「日の丸・君が代に抵抗感の強い世代が退職していったのも減少の一因」という。実際、東京で過去3年間に処分を受けた教職員15人は、いずれも40代以上で、若手が抵抗感なく従っている実態もうかがえる。「処分のリスクを冒してまで抵抗することじゃない」といった声も聞かれる。(引用ここまで

この記事にあるような諸事実は、確かに「事実」であるだろう。だが、ここに出されている「諸事実」は、この問題における本当の問題点について述べていない。そこで、いくつかメモしておこう。

1.起立したかどうか、処分者を出したかどうかだけに話題を集中させている。
これは「命令」によって政府自身の意図を貫徹させようとする行政、国民の中に残存している天皇信奉者の思惑、それらを慮るマスコミなどが、事の本質を後景に追いやることを意味している。

2.問題は、人権思想を教え、訓練すべき学校で起こっていることの意味を「想定外」にしていることだ。このことは、このような問題が北朝鮮や中国で起こったら、どのように報道するか、という視点でみると、日本のマスコミ、或いは日本政府のやっていることが、どれだけ酷いものか、判るというものだ。

3.「君が代」の意味・由来・果たして来た役割などについて、深めていないし、深めようとはしない。このことは、「君が代」を歌う時、どれほどの人が「君が代」の「君」の意味がどのように替えられてきたか、その「代」が「千代に八千代に」というほど永く、さらに「細石が巌」となって「苔が生す」ようになるまで御栄えするように、という歌の意味を理解して歌っているかどうか、だ。主権の存する、この民主主義の国日本で、だ。

4.この歌が、国歌になる時、「今回の法制化は、国旗と国歌に関し、国民の皆様方に新たに義務を課すものではありませんが、本法律の成立を契機として、国民の皆様方が、「日章旗」の歴史や「君が代」の由来、歌詞などについて、より理解を深めていただくことを願っております」(内閣総理大臣の談話平成11年8月9日)と述べていたにもかかわらず、その後の諸事実は、反対の方向に向かってきた。このことは今回の「朝日」の記事からも覗える。

5.政府自身も言っているように、学校や地域社会で「歴史や由来」などを深めようとすればするほど、実は「坂の上」にあったものが「国際的非常識」という「雲」であったことが白日のものになってしまう。このことをいっさい想定外にしている。

6.国際的感覚からすれば、「戦争及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」に加盟していない「自由と民主主義の国である我が日本」の負の面を晒すことになることも「想定外」だ。

7.この「想定外」は、未だ外国の軍隊を駐留させ、不平等条約を「不平等」と自覚できず「同盟国」として国家の枠組みを従属させ「深化」などと述べていることと無関係ではないという問題だ。

そこで、この「君が代」を「国歌」とした勢力の先輩たちが、かつてどんなことをしたか、その一つを紹介しておこう。

<君が代少年>
 昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。
 公学校の三年生であった徳坤(とくけん) という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。
 それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
 家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。
 父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、
「おかあさんは、大丈夫でせうね。」
といひました。
 少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつらい手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。
 徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。 ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそがしかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。
 徳坤は、涙を流して喜びました。
「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」
と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」
と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、徳坤がかはいさうでたまりませんでした。
 少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて行きました。
 その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さうして、そばにゐた父に、
「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」
といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
 それからしばらくして、少年はいひました。
「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」
 少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに歌ひだしました。

  きみがよは
  ちよに
  やちよに

 徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞 えました。

  さざれ
  いしの

 小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。

  いはほとなりて
  こけの
  むすまで

 終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。
 君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに長い眠りにつきました。
「初等科国語・三」(4年前期)より。(引用ここまで

村上政彦『「君が代少年」を探して 台湾と日本語教育』(平凡社新書)によれば、この少年探しの話が書かれている。以下、記しておく。

 教科書には、誇らしげな少年の立像の写真が挿入されている。これが主人公の徳坤(せんとくこん)だろうか。奥付を見ると、昭和十八(一九四三)年朝鮮総督府発行、となっていた。
 「よくやりますよねえ」と隣にいた編集者が苦笑した。「でも、本当かなあ。こんなことってあるのかなあ……」
 それは僕自身の印象でもあった。朝鮮半島で発行された「国語」=日本語の教科書に台湾の少年が主人公として登場している、という状況は一種の眩暈のようなものをもたらした。それは僕にとって、ほとんど未知の領域に触れた感触だった。いつの時代も教科書には政治的な配慮が働いている。ましてこの頃はいわゆる皇民化が行なわれていた時期だった。でも、『君が代少年』がまったくのフィクションだとも思えない。いまから半世紀以上前、僕達が生きているこの東アジアの一隅で何が起きていたのだろうか。
・・・
徳坤の墓
昭和十年四月二十一日
突発セル大震災ニテ
瀕死ノ重症ヲ負ヒ
二十三日朱暁苗栗病舎ニテ
國歌ヲ奉唱シ
十二歳ヲー期トシテ
國民精神ノ花卜散レリ
故二世二君力代少年卜讃称セラレ
公館公学校校庭二
銅像卜化シテ再生スルニ至レリ
昭和十二年七月二日建(引用ここまで

と書かれている。
朝鮮総督府が台湾の少年の話を「教訓」にという事実は「想定外」にしたまま「国歌斉唱」という「儀式」が行われてきたのではないだろうか。

こうした事実を、政府が「『君が代』の由来、歌詞などについて、より理解を深めていただく」ために「教材」としてきたか、はなはだ疑問だ。それに尽きる。

だから「歌うか、歌わないか」「起立するか、しないか」「命令に従うか、従わないか」だけが問題にされてきたのではないか?

このようなことでは、我が日本を本当には愛することはできない!

君が代を歌ふ少年中国の民さへ歌ふ歌なればこそと
将軍は彼の国によりも此の国の東と西に声を荒げて
将軍は彼の国によりも此の国に様にもならぬ毒舌を撒き
わが君を君が代となしおしつける永久の御世詠む歌どこへやら
日の本の誉れの象徴(しるし)何とする九条にこそ民の願ひなれ



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