愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

日本国憲法下に復帰した沖縄を「国体護持」論と『日米核軍事同盟護持=容認』論を暴き批判し克服するために必要なことは憲法平和主義と非核三原則を活かす!米軍基地撤去なくして沖縄の戦後は全くなし!

2017-05-15 | 沖縄

「本土」論の土台にあるのは『沖縄捨て石』論・『生贄』論だ!

戦前は『国体護持』論が「差別」「分断」していた!

戦後は『日米核軍事同盟容認=護持』論が『差別』『分断』している!

天皇メッセージの根底にある『国体護持』と「沖縄生贄」論を打破するためには

憲法平和主義と非核三原則を使う政治を実現することだ!

主権者国民の責務ははっきりしている!

中日/東京新聞   週のはじめに考える/沖縄、統合と分断と  2017/5/14

四十五年前のあす十五日、沖縄県は日本に復帰しました。しかし、米軍基地をめぐる沖縄と本土との分断は以前にも増して深まっているように見えます。

みそとせの歴史流れたり摩文仁の坂平らけき世に思ふ命たふとし

天皇陛下が皇太子時代の一九七六年、歌会始で詠まれた歌です。陛下はこの前年、皇后さまとともに初めて沖縄県を訪問され、本島南部の摩文仁を訪れています。

その三十年前、太平洋戦争末期に、沖縄は住民を巻き込んだ激烈な地上戦の戦場と化しました。摩文仁は、慰霊塔が並ぶ沖縄戦最後の激戦地です。
沖縄戦では当時六十万県民の四分の一が犠牲になった、とされます。陛下の歌からは、戦没者を悼む深いお気持ちが伝わります。
両陛下の沖縄訪問は皇太子時代を含めて十回を数えますが、いつも真っ先に訪ねるのが南部の戦跡です。七九年、摩文仁に国立沖縄戦没者墓苑ができてから、必ず最初の訪問先になっているのも、両陛下の強いご希望だといいます。

陛下は八一年の記者会見で「日本では、どうしても記憶しなければならないことが四つはあると思います」と述べられています。

四つとは、広島、長崎に原爆が投下された八月六日と九日、終戦の同十五日、沖縄で大規模な戦闘が終結した六月二十三日です。

太平洋戦争の戦没者慰霊の旅を続ける両陛下にとって、沖縄戦での多大な犠牲は、広島、長崎への原爆投下と同様、記憶にとどめるべき出来事なのです。

天皇の名の下に始まった戦争の犠牲者慰霊こそ、国民の安寧を祈る天皇としての務めとされているのでしょう。しかし、沖縄に寄せる深いお気持ちは、それだけではないように思えてなりません。

沖縄にはかつて「琉球国」という、日本とは別の国家だった歴史があります。江戸時代の薩摩藩による侵攻を経て、日本とされたのは明治時代の琉球処分によってです。日本史上、沖縄は長い間、天皇制支配の枠外だったのです。

明治政府によって、沖縄は徐々に日本に「統合」されていきましたが、日本の敗戦によって再び、本土から切り離されます。苛烈な米軍統治の始まりです。米国から日本に施政権が返還されたのが七二年五月十五日でした

愛国者の邪論 「本土から切り離され」ることで米軍の不当性は免罪された!ベトナム侵略戦争に協力加担することも!

戦後施行の日本国憲法は、天皇の地位を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定めます。

日本とは別の独立国だった歴史を持ち、戦後は一時期、異国支配の苦難を強いられた沖縄です。

国政に関する権能を有しない天皇ですから、安易な推測は慎むべきですが、そうした沖縄だからこそ、天皇陛下は深い思いを寄せることで「統合」の象徴としての務めを誠実に果たそうとされているのではないでしょうか。

沖縄にとって四十五年前の本土復帰は、日本国憲法の下への復帰でもありました。人権軽視の米軍統治下にあった沖縄の人々にとって、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を基本理念とする日本国憲法は輝いて見えたことでしょう。しかし、沖縄では憲法の基本理念は、いまだに在日米軍専用施設の約70%が県内に集中することによって、完全に実現されているとは言えない状況です。沖縄は日本全体の安全保障のために重い基地負担を強いられています本土と沖縄を隔てる分断の構図は、本土決戦を遅らせる「捨て石」とされ、多大な犠牲を出した沖縄戦と同じです。

愛国者の邪論 「日本全体の安全保障のために」必要なことは憲法平和主義を活かすことではないのか!しかし、東京新聞をはじめ日本の情報伝達手段のテレビ・新聞・政党は、このロジックで思考停止している!「日本の安全保障のために」『沖縄』が存在している!本土防衛=国体護持のために沖縄を捨て石にして時間稼ぎをする!その天皇制政府の思考回路と現在の思考回路は全く同じ!しかし、「国体護持」と「日米核軍事同盟容認=護持」という点で『沖縄』を生贄にしていることを隠蔽している!

翁長雄志知事をはじめ沖縄県民の多くは名護市辺野古沿岸部での米軍基地新設に反対しています。それがたとえ危険な米軍普天間飛行場を閉鎖し、日本側に返還するためであっても、同じ県内に移設するのなら、県民には抜本的な負担軽減にはならないからです。

日米安全保障体制が日本と周辺地域の平和と安全に死活的に重要だというなら、その米軍基地負担は沖縄に限らず、日本全体ができる限り等しく負うべきでしょう。

にもかかわらず、安倍政権は県側の言い分に耳を傾けず、辺野古での基地建設を強行しています。県外から警察官を投入し、抵抗する県民を威圧するような強権的手法は、国民の統合に逆行し、本土と沖縄との分断を煽(あお)るだけです。直ちにやめるべきだ。

 

愛国者の邪論 トリックがある!「日本と周辺地域の平和と安全に死活的に重要」な思想と方法は、国家の最高法規である日本国憲法と非核三原則であって、「日米安全保障体制」ではない!とうことです。しかし、東京・中日新聞は「死活的に重要だというなら」として「思考停止」に持ち込んでいるのです。だからこそ、国家の最高法規である日本国憲法の平和主義と国是である非核三原則を使うという思考回路がリンクできない!しないのです。これでは安倍政権の言い分と重なってしまい、国民世論を混迷に持ち込むことになります。結果的には非常に曖昧な「日本全体ができる限り等しく負うべき」論となってしまうのです。

米軍基地の負担を日本全体で負担するという場合、どのような状況が想定されるでしょうか!また、このことは安倍政権が具体化するでしょうか!アメリカ政権が具体化するでしょうか!全くの妄想といわなければなりません。妄想を振りまくのは『蛇の生殺し』論と同じです。

そもそも「沖縄の負担」を他県に移行することは理にかなっているでしょうか!負担の押し付け合いそのものが「分断」の最たるものであって、まさに愚の骨頂です。国民を統合するのは『憲法平和主義』と『非核三原則』でしかありません!『日米核軍事同盟』こそ、公民分断の権化であり、犯罪です。このことを隠蔽する思想は克服されなければなりません。

 

沖縄の地元紙などによる世論調査では約八割の県民が「復帰してよかった」と答えています。

私たちは、沖縄の歴史や苦難、そして今も強いている重い基地負担にもっと思いを致すべきでしょう。それが、国民統合を肯定的に受け止めている沖縄県民の思いに応えることにもなるからです。(引用ここまで)

「大元帥現人神裕仁天皇」を発揮した憲法違反だった!

この思想は現在進行形!

「脅威」論で沖縄を「生贄」にしている!

琉球新報 「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 2017年4月28日 10:35

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-486771.html

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。(引用ここまで)

沖縄タイムス 昭和天皇実録に「天皇メッセージ」沖縄訪問希望も 2014年9月9日 11:10

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/43913

沖縄戦の特質 『国体護持』『捨て石』『本土決戦』『一億玉砕』『松代大本営』

http://www.geocities.jp/johokujudo/2tokushitu.htm

http://matushiro.la.coocan.jp/kinenkan/newpage2.html

https://ja.wikipedia.org/wiki

大本営移動計画は後に終戦時の宮城事件に関わることになる陸軍省井田正孝少佐1944年1月に発案し、富永恭次次官に計画書を提出、大本営幹部会の承認を経た後、鉄道省の現地調査が行われ、全国に地下施設の構築計画案が決まり、大本営の建設場所に松代が選定された。計画案の選定理由は以下のとおりである[1]

  1. 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
  2. 固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
  3. 山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
  4. 長野県は労働力が豊か。
  5. 長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
  6. 信州は神州に通じ、品格もある。

この案では松代に大本営、東京浅川に東部軍収容施設、愛知県小牧に中部軍収容施設、大阪府高槻に中部軍収容施設、福岡県山家に西部軍収容施設を建設するものであった。その後、この案は東條英機首相の日本政府全体の移動の意向により変更され、大規模化した。

「松代倉庫」工事として極秘に進められた工事であったものの、工事に従事した地元の日本人労働者の証言では、当時は、地元はもちろん、周辺地域の村では「大本営と天皇陛下が東京から移ってくる」という噂で広がっていたという。噂になった原因は、大規模な工事であり、長野電鉄松代駅に列車で輸送されてくる、大量の物資が住民の目に留まったからだとされる。

1944年11月11日11時11分、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。「11」が並ぶ時間が選ばれたのは、漢字の十一を縦書きにすると「士」に通じることが理由とされる。ダイナマイトで発破して、崩した石屑をトロッコなどを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内および朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者が中心となった。工事は西松組鹿島組が請け負った。満州国からの第4639部隊や、賢所工事には鉄道省静岡隧道学校の若者も当たり、付近の住民は勤労奉仕隊としてズリなどの運搬に、また当時の旧制屋代中学旧制松代商業らの生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、運搬などに学徒動員され、国民学校初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った[2]勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が当初8時間三交代、のち12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。延べ人数では西松組・鹿島組・県土木部・工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円[3]。当時の金額で2億円の工事費が投入されたとも伝わっている[要出典]。しかし、1945年8月15日ポツダム宣言受諾発表により、進捗度75%の段階で工事は中止された

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