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前田正信先生 (あいち小児保健医療総合センター長) 〜Part 2〜 【あいちのこどう2010年8月号より】

2010-08-20 | 誌上直撃インタビュー医師の素顔拝見!

今回は、先生が医師として歩んでこられた道のりを、振り返っていただきます。
  
【勤務略歴】
1974-―社会保険中京病院で研修                             
1976-―東京女子医科大学付属日本心臓血圧研究所外科でレジデント               
1979-―社会保険中京病院心臓血管外科医員及び医長
1985―-名古屋大学胸部外科勤務                       
1988---大垣市民病院胸部外科医長
1994---社会保険中京病院心臓血管外科主任部長
2003---あいち小児保健医療総合センター循環器部長
2010---あいち小児保健医療総合センターセンター長
【全手術経験】
手術症例(執刀または指導的助手)約4000例
小児センター同症例約700例
  

質問者:  医学部を卒業され医師になられてからのことを教えてください。

先生: 医者になってから、一応、内科の研修医を2年やったんです。内科は今はカテーテル治療などができますが、当時は例えば心筋梗塞がきても、これは予後がいいとか悪いとか判断したりリハビリをやったりとかはできるんだけど、本当の意味での治療は外科に任せていたんですね。冠動脈バイパスをやったりとか。そういう状況だったので、やっぱり治療をやりたいなと思って。
それともうひとつは、当時、癌などは告知することはほとんどなかったので、明らかに悪くなっている患者に「きょうは顔色いいですね」とか言いながら嘘をついて接する時代だったため、癌を預かるのはちょっと嫌だなと。心臓に関しては、予後が良くても悪くても本当のことを言わないと治療が成り立たないので、本当のことが言えるから心臓をやりたいなと。そして、心臓をやるなら治療をやりたいと思って、そこから心臓外科をめざしたんです。

質問者: 最初から外科医をめざして医学部に入られたわけではなく、内科を担当していらっしゃるうちに治療をやりたいと思われて外科に進まれたんですね。内科は、循環器ではなく一般内科にいらっしゃったんですね?

先生:  そうです。当時、中京病院で高橋先生がひとりで心臓外科を始められたんですが、手が足りないので研修医を集めて、僕らが手になってやっていたんですね。 心臓外科は治っていくものだから面白いなと思ったんです。ひとつ失敗すると怖いところでもあるんだけど。ただ、その当時、名古屋はまだ随分遅れていて、東京女子医大がやっぱり一番進んでいたんです。心臓外科をやるなら東京女子医大に行こうと思って、そこから初めて心臓を本気でやろうということになったんです。ただ、その時はまだどちらかというと大人の方をやろうかなと思ってはいました。
東京女子医大では、流れ作業でたくさんの症例(週15、6例)を手術するんですが、たくさんのチームがあって先輩に恵まれたりもして。特に小児は作り上げていく手術なものだから面白いなと。ただトレーニングなのですべてをやりながら。女子医大は1年か1年半くらいいたら次に関連病院に出るんですが、福井の循環器病院は子ども対象の手術を多くやっているところだったので、女子医大と福井でだいぶ小児の経験を積むことができました。
そろそろ福井から女子医大に戻る時期に、ちょうど女子医大が混乱期にあったのと、中京の高橋先生から戻ってこないかと言われたのもあって、中京病院に戻りました。

質問者: そういえば、『明香ちゃんの心臓』(鈴木敦秋著、講談社刊)という本で、女子医大の混乱期について読んだことがあります。

先生:  それで中京に戻って、東京で学んで来たことを高橋先生と一緒にやり始めたら、 この辺はすごく遅れていたんですが助かるようになってきて、患者さんがどんどん集まってきました。当時、藤田保健衛生大学病院から長嶋先生が週1度、中京にいらしてたんですが、長嶋先生もどんどん患者を送ってこられるようになりました(笑) それから僕らの仲間も呼び寄せて、中京で心外手術をたくさんやる時期に突入しました。

質問者:  中京病院の黄金時代の仕掛け人でいらっしゃったんですね(笑) 先生は、その後また名大の医局に戻っていらっしゃいますが。

先生:  名大では、ファロー四徴症80例くらいをまとめて、博士論文を仕上げました。 それから、大垣に心臓外科を作りたいということで小児のトップで行ってくれと言われ、大垣で村瀬先生と一緒にゼロからやり始めました。そこで全国的なレベルの仕事がやれるようになってきました。子ども達も中学、高校というような状況になってきたので、大垣に家も建てました。ところが、そうこうしているうちに中京病院ではオペ数が激減し手術ができないというので、松島先生が急を要する患者さんを大垣まで送ってくるようになってきまして(笑)

質問者: 手術のために大垣まで? それはちょっと遠いですね。

先生:  結局また中京病院に戻るようにと言われたんですが、子ども達がまだ学校に通う時期なので転校させたくなくて、子ども達の学校の区切りがつくようになるまで5年間、大垣から中京に通いました。朝、駅までカミさんに送ってもらって6時台の電車に乗り、金山に駐車場を借りて、そこからまた車で中京まで行って(笑)

質問者: ハードな心臓外科のお仕事されながら、その通勤距離を通ってらっしゃったというのは、ちょっと想像がつかないです。

先生:  前々から長嶋先生に「子ども病院を作るから、できた時にはぜひ来てくれ」と言われた約束があったので、中京は僕の卓球部の後輩(桜井先生)に「コイツなら任せられるだろう」ということで任せて(笑)僕が小児センターに来たという状況です。

質問者: 医師の道に入られて良かったと思われたり、やりがいをお感じになるのは、やはり患者さんが手術で元気になった姿をご覧になった時ですか?

先生:  そうですね。福井の時に一番鮮明に感じたんですが、初めて自分の受け持ちをもったんです。ファローでチアノーゼがあって、10メートル歩いたらしゃがみこむ子が、手術したら元気になって走り回るのを見て、やっぱりこれは嬉しいなぁと。顔が違ってくる、顔色だけでなくて性格まで変わってくるね(笑)

質問者: たしかに、うちもあれだけ物を言わないおとなしい子だったのが、今では明るすぎる上にはじけた子になってます(笑)

先生:  こんなに劇的に変わるんだと。親の顔色も変わってくるしね(笑) その人の一生の中で自分が果たした役割が出てくるというのが、嬉しいですね。

                    

        卓球プレー中の前田先生     ラケットを握る手も神わざ

☆紆余曲折がありながらも、与えられた場で常に最善の医療を手がけてこられた前田先生の真摯な生き様に深い感銘を受け、時が経つのを忘れました。 次回 PART3では、当インタビュー恒例 質問「印象に残っている患者」や「困った患者のタイプ」も登場します。 是非お楽しみに!? (by J.S.)

ジャンル:
闘病
キーワード
あいち小児保健医療総合センター 心臓血管外科 藤田保健衛生大学 ファロー四徴症 名古屋大学 レジデント 東京女子医科大学 日本心臓血圧研究所
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