まっさーじバカ一代

しんどい毎日をなんとかやり過ごすための「ココロとカラダのマッサージ」を紹介します。

レジ横の魔術師

2007-03-10 09:51:30 | Weblog
現代人の7割はコンビニ中毒である(んじゃないかな)。
もう、ほとんど毎日行きますよ。ええ。
しかも、一日数回。
いろんな商品を手にとってレジに向かうと、そこにいるんですよ。
レジ横の魔術師。

チロルチョコ

なんかね。いろんなバージョンがあったりして、新しいものとかあったりすると、ついつい手に取ってしまうのです。
そして、そんなレジ横の魔術師に3月5日発売の新顔が!
しかもプレミアム!

ああ、もうね、買うしかないよね。
宇治まっ茶なんだそうです。


数量限定らしいよ。ダッシュだな。

ところで、チロルチョコは、職場で通貨として流通していたりする。
なにかを頼むときにチロルチョコを添えておくと、とってもスムーズ。
同僚とのやりとりにもってこいなのです。
そんなわけで、この宇治まっ茶は、かなりの効果を持つのではないかと信じている。

刺激中毒

2007-02-17 11:06:54 | Weblog
刺激中毒な日々を多くの人が過ごしているのではないかと思う。
電車のなかを見渡してみれば、多くの人が携帯電話を見つめている。
コミュニケーション中毒ということもあるのかもしれないんだけど、実のところは刺激中毒なのではないかと思う。

「口寂しい」という言葉があるけど、「目寂しい」ということもあってよいと思う。刺激中毒とはつまりそういうことだ。

忙しい毎日を圧縮して過ごすために身についた性質なのではないかと思う。
その「目寂しい」を満足させるための道具はいまのところ携帯しかない。

でも、意外とコンテンツに不満があるんだよね。
どうせだったら、きちんとした専用の道具で充実したコンテンツを手にしたい。
ワーズギアってのはそこのところを目指しているらしい。

案内を見てみたら、けっこうなコンテンツ数だった。
こういうのってコンテンツ数勝負だからね。ちょっと期待できそうです。
みんなが使うとさらに充実してくるのではないでしょうか。


ダメな人たち

2007-02-11 09:39:22 | Weblog
日曜日の午前中は、政治討論の番組が多いんだけど、なんだか隔靴掻痒という感じです。

「格差」という問題の立て方をするから、「あってもいいじゃないか」みたいなことになるわけで、問題は「貧困」でしょ?
貧困はあってもいいの?わるいの?

働かないヤツが貧しいのは当然だって?

そこのところを与党も野党もどう考えているんでしょうか?

「格差」とかもういいよ!

新しいこと

2007-02-10 19:28:29 | Weblog
ブログとかmixiとかもうやっていることが当たり前になってきたようだけど、そうすればそうするほど、「もっとこんな風に!」って思ったりするんだよね。
でも、一般性と特殊性を同時に満たすのはとっても難しい気がする。
そんなわけで、これからはもっと自覚的にツールを選ぶ必要があるのでないでしょうか。
そこで、hotwebは、ちょっと面白そう。
たとえば、みんなでアルバムを共有したいときなんか、どんなメディアで渡そうかなという感じだよね。
それが、大解決のような気がします。

「hotwebにあげておくからね!」

なんていうのが正しい渡し方になったりするのではないでしょうか?

↓こんな感じなのです。


良心?

2007-02-03 22:53:50 | Weblog
たまには、フリーな文章を書いておかないと、ブログの品位を問われるからね。
っていうか、まあそんなもの最初からアリはしないんだけど。

柳沢厚労相の失言とやらが問題になっていますが、発言にセンスがあるかどうかはともかくとして、そんなに問題にすることなの?
たとえ話としてさ、人間を機械にたとえることは、そんなに不謹慎なことではないと思うんだけど。
女性蔑視ということではなくて、たぶん彼のなかでは男性についても「機械」のたとえを使うつもりではなかったのかな?

物事をわかりやすくするために、たとえ話を使う。
あるいは、論理的な思考をするためにあえて生身感の薄い機械というたとえを使うということは許されないことなんでしょうか?

僕は、けっこう社民党の保護に熱心に取り組んできたつもりですけど、あんな感じで鬼の首を取ったような党首を見るとがっかりだよね。

本当に大切なことを見失いつつある世の中の怖さを感じます。

調子にのって

2007-01-29 01:00:50 | Weblog
もはや完全にプレスブログのためのブログになっているのですが、課題をもらってなにかを書くというのは、ちょっと修行みたいで楽しいのです。

さて今回のお題はトレハロース。くわしくは、ここを見ていただきたいと思います。

なかなか、難しい気もするんだけど、甘味料でもあって、安定剤のような使い方もされるらしい。
しかも、天然糖質だということ。

あはーん。難しいことはわからないけど、こういう人いますよね。
甘味という喜びを与えつつ、その場の雰囲気をよくすることに役立つ人!
まあ、そういう人って、裏があるのではないかと心配になるんだけど、ときどきホントに天然でそういう「いいひと。」がいる。

それはもう、なかなか便利な欠かせないヤツじゃない!
というわけで、ホントにそういうことなのかどうか、自分の目で確かめてみてください。

↓の動画もちょっといい味を出しています。
http://customds.serving-sys.com/hosting/20070128_treha/index1.html






新機軸

2006-12-28 01:21:19 | Weblog
mixiで日記を書いていると、なかなかブログまで力がまわらない。
そこでいろんなことの力を借りようと思う。

僕が大学生の頃にちょっとした写真ブームがあった。
hiromixや蜷川実花とかが出てきた頃かな?
プリクラとかが出てきた頃で、撮られることと撮ることの楽しみにとくに女の子たちが気がついたんだと思う。
主に使われていたのは使い捨てカメラでいろんな種類のものがあったりしたな。

それから時を経て、デジカメが登場したり、カメラ付き携帯が登場したりして、ますます撮ることと撮られることは日常になってきた。

写真は特別なことではなくなった。
ありがたみはなくなったかもしれないけど、それだけ自然な表情が残されるようになったのかもしれない。
そんなわけで、こんなコンテストもできてみたりする。

テレビコマーシャルでは小田和正の歌声とあわせて、まったく知らない人たちの姿を見ているのに、ちょっと泣きそうになったりするんだよね。

チャレンジしてみようかな。
http://www.my-happiness.com/blog


国が負けるということ

2006-12-15 22:50:03 | Weblog
今回はちょっと硬い話題です。
というか、誰かに教えてほしいことがある。

先日、地元の駅をぶらついていたら一枚のビラを手渡されました。
中国残留孤児に関するビラで彼らの不遇について、国の責任を問うものでした。
なんでも、裁判で勝訴をしたようなのですが、国が控訴するかもしれないということで、その控訴を断念させたいということのようです。

さてさて、国が裁判に負けることってなにか不都合があるのでしょうか?
賠償金を払わなければならないということがあるとは思うのですが、それって税金ですよね。
ということは、もともとは僕たちのお金であるわけで、そうしてみると不遇な人々に対してそれなりのお金を渡すことに対して、僕はそれほどイヤな感じはしないんですよね。
もし、国が敗訴することの問題点がこのことだけだったとしたら、僕は負けるべきときには負けてもらってかまわないんだけど…。
ハンセン病訴訟のときなどのようにね。

もちろん、無原則に賠償金を払えばいいというわけではないんだけどさ。
負けちゃってもいいときもあるんじゃない?
しかもかなりの場合がそうであるようにも思う。

まあ、本当のところはいろいろとほかの問題もありそうだけどさ。
国や官僚の無謬性を守っていかなければ統治できないほどには未発達な国ではないと思うんだけどな。

失敗にはおおらかに!

というわけにはいかないのでしょうか。

優しさという技法

2006-12-12 00:25:59 | Weblog
「怒ることが苦手」だ。いや、もっと精確にいうと「叱ることが苦手」なのかもしれない。自分では短気だと思うので、怒ることはけっして少なくない。ただし、それを他人に、とくにその怒りの原因となっている人に伝えることは本当に苦手だ。

怒るのはたいがいなにかに失望しているときなんだと思う。だから、その怒りを当人にぶつけることでさらに失望するのがイヤなのだ。

周囲から見ると、えらく寛容で優しい人のように思えるかもしれないけど、実のところはとても自分勝手な話だったりしたりして。

それでも、誰かと関わるさいには、相手のよいところをキャッチするという原則ははずすつもりがない。それが自分と相手にとって幸せなことだと思うからだ。

つまり、優しさは僕が平穏に生きる技法なのだ。いまの日本は「はっきりいう」ことや「叱ること」の効用が過大評価されているようにも思う。

混迷する世の中では単純なリアリズムは実のところロマンティシズムなのではないだろうか。こんな状況だからこそ、むしろロマンティシズムの方がリアリズムといえるのではないだろうか。

ついにきた!

2006-11-09 21:52:39 | Weblog
「赤ちゃんポスト」というのができるらしい。産んだものの育てられない新生児などをそこに「捨てる」という仕組みのようです。
「預ける」というのは、「返してもらう」ことを前提としているわけだから、やっぱり預けるではないよね。どうひいき目に見ても「捨てる」だと思います。

だからといって、僕はこの仕組みに反対というわけではないんです。「ベスト・オブ・セカンドベスト」であるような気がします。
産んだ人がその子どもを慈しみ、育てることが幸福なことであることを否定しません。そしていまのところ、そんな風にして育てられることがもっとも幸せであるようにも思います。
それでも、その幸せは「ハッピー」であると同時に「ラッキー」に依存しているように思うのです。

こういうことに関して、道徳の荒廃とその復権を求めて、「昔の方がよかった」とか、「いまの日本はダメになった」とかいうような批判はあまりあたらないと思う。昔は昔でなにかが抑圧されていたこともあったと思う。そしてその抑圧からの解放があったとしたら、それは逆方向には進まないのではないでしょうか?

それから親に罰則などがないということに関して不満があるような人もいるのかもしれませんが、そこに赤ちゃんを捨てる人は親ではないから大丈夫です。そういう人は親と呼ばなくていいと思う。だから、罰則を与えるに値しないですよ。うんうん。
良心を持っている人は自分を責めて心を傷つけるだろうから、それはそれで赦してあげましょうよ。
良心の呵責を感じない人がいるとしたら、その人から子どもが救われたことを喜びましょう。

ああ、なんだかまとまらなくなってきた。僕は「産み捨て」のシステムを整えるべきだとかねがね思っていました。
いろいろ問題点があることは間違いなく、みんなが真剣に考えて解決していけるといいなと本気で思っている。